マーメイド・シャーク/後



「陛下!」

 後ろから、別の番兵が姿を現した。彼はここまで走ってきたようで、息を切らし心なしか顔が青ざめている。まるで何か恐ろしい物を見た、というような顔だ。敵国の襲撃は今までに何度かあったが、それでもここまでおののく様を見たことがない。
 ベクターがその様子を問う前に番兵は震える唇を開き、上擦った声で叫ぶように言った。

「御無事でいらっしゃいましたか…。ここは危険です、お逃げ下さい!奴がここに来る前に…!」

「ナッシュのことか?奴は腕を拘束されているはずだろう。何故お前達が束になって捕らえられない?」

 明らかに番兵の様子がおかしい。騒動になっていることを咎めつつ、その真意を探るために厳しい口調でベクターが言うと、彼は青い顔を更に青ざめさせた。

「奴は化け物です!動きが素早く、まるで海中の魚のような身のこなしで、捕えることが困難です。あの動きは、人間ではありません!それに蛇のような眼をしており、その眼光は見る者を萎縮させてしまいます!更に、自らの歯で鎖を噛み千切り、剣を砕く…鮫のような牙を持っております……!既に交戦した者の中に多数負傷者が出ており、兵達は恐れをなしています…」

「なんだと…?」

 ドルベとベクターが同時に眼を見開いた。ナッシュのどこにそんな化け物のような力が……。にわかには信じがたい話であった。鉄の鎖を噛み千切り、鉄を鍛えてできた剣を砕くような歯と顎を持つ者など、いかに屈強な者であったとしてもあり得ない話だ。

「更に船着き場の船も焼き払われて現在消火活動も平行して行っており、現在城にいる者のうち動ける者はもう……。とにかく、奴がここに来る前に一刻も早くっーーぐあぁ!」

 突然、金属が割れるような鈍い音がしたかと思うと番兵が悲鳴を上げた。兵の腹に何かが噛みついている。人間だ。一体どこから、音もなく現れたのか…気がつかぬ間に、番兵の腹に食いついていたのだ。
 彼は手を使わずに口だけで番兵の体躯を持ち上げると、首を振って放り投げた。兵は後頭部から落ち、頭を打った衝撃で痙攣して気を失った。鎧を割った牙が食い込んでいたらしく、腹から血が流れ出ている。

「ナッシュ……!」

 ペッと口内の血を吐いた彼の様子を見てドルベは思わず声を上げる。その声に反応するように彼は顔を上げた。少年は髪型の特徴からナッシュだと判ったが、ドルベが知っているナッシュからはあまりにもかけ離れていた。確かに兵が化け物、と呼ぶに相応しい様相を呈しているかもしれない。その姿はとても人間のそれと言えるものではなかった。
 眼が爛々と紫に輝き、ベクターとドルベを射抜く。興奮した口からは鋭い牙が見えた。口元から胸元にかけて何人分の血液が付着しているのか紅く染まっており、ポタポタと流れ落ちている。手を拘束していた枷は腕に付いたままだがそれを繋いでいた鎖は砕かれていた。
 それに、先程番兵の体躯を口だけで持ち上げた力はその見た目から想像できない程のものだった。

「駄目だ、ナッシュ!」

 ナッシュがベクターを見つけてしまった。紫の眼を更に光らせ彼に食らいつこうと身体に力を入れるように屈んだ瞬間、後ろからドルベが抱き付いて留めた。ナッシュは息とも呻き声ともつかぬ音を発し、拘束を解こうと暴れる。

「ぐっ……」

 鋭い痛みが腕に刺さった。牙が食い込んだ所から血が溢れ、腕を伝って落ちる。腰に回したドルベの腕に咬みつき、ナッシュは紫の光をそのままにドルベを睨んでいた。その瞳は、敵を認識するそれであった。
 力が抜けた一瞬を狙い腕から牙を抜いて彼はドルベを突き飛ばし、そのまま獲物に狙いを定めて飛びかかるようにベクターの元へ跳んだ。彼の口は肢体を食い千切る程の大きさがないため、一撃で仕留めるために喉笛を狙う。身体をうねらせて口を開き、剥いた牙が煌めいた。

「くっ……」

 ナッシュの狙いを見切ったベクターが盾にした剣に牙が刺さり、砕けた。だが何度も鉄を砕いてきた牙の強度にがたが来たのか、牙の方にもヒビが入る。彼が一瞬怯んだ隙にベクターは身体をすり抜けた。
 ベクターは剣を手離してしまった。しかし、ナッシュも同じく牙が使えない。牙が使えない彼は最早脅威ではなく、追い込めば捕らえることは可能だ、とベクターが考えているとナッシュが威嚇するように息を吐いた。すると、彼の口からボロボロと古い牙が零れ落ち、新しく牙がその根元から生えてきたのだ。

「なるほど……化け物だな」

 再びナッシュは勢いを付けて襲いかかった。速くても牙の向かう所が解れば避けることはできる。ベクターはそう踏んで身を翻したが、腕を掴まれて引き倒された。身動きが取れない。

「くっ!」

「陛下!」

 間一髪、ベクターの首筋に牙が当たったところでドルベがナッシュを後ろから抑えた。腕の痛みが力の発揮を妨げるが、振り切るように声なく吼えて暴れるナッシュを抑え、半ば叫ぶように名前を呼ぶ。

「復讐は……何も生まないっ…!終わりにするんだナッシュ……私の声が、聞こえないのか…!」

 ナッシュは首を伸ばし獲物に牙を立てようと尚口を開けたまま眼を光らせている。憎しみに取り憑かれた彼の耳に、ドルベの言葉は届いていないようだった。それでも尚、名前を呼び続ける。
 ベクターは息を切らせてその光景を見ていたが、何を思ったのかナッシュの頬に手を伸ばした。ナッシュはそれに咬みつこうとさらに興奮する。構わず、するりと撫でたかと思うとその大きく開いた口内に拳を突き入れた。

「っ、陛下!」

 一瞬、ドルベは眼を見開いた。しかしベクターの腕は食い千切られてはいなかった。牙が少し刺さり多少の血は出るものの、口が閉じ切ることが出来ず咬み切ることができない。口を開かされたまま、ナッシュはベクターを睨んだ。ベクターは痛みに顔を歪めながらドルベに問うた。

「……ドルベ、貴様はコイツのことをどこまで知っている?」

「………」

「言え。コイツは何者だ?」

 ベクターの眼光がドルベを静かに射る。恐怖に似た何かが、ドルベをゆっくりと支配してゆく。ここまで化け物染みた姿を見て、ナッシュが只の人間だと思うはずがない。もう彼の正体を隠すことは出来なかった。

「彼は……彼の正体は、人魚です。私が知ったのもつい昨日のことですが……海を荒らし妹を傷つけた人間に復讐するため、人間になったと聞きました」

「人魚……?そうか…昨日の貴様の進言はそれに関係していたことだったのか」

「………」

「俺に正体が知られてしまうまでに、逃がそうとしたのだろう。人魚に呪われた俺には人魚の血が必要であるからな。俺の命よりも、コイツを優先したというわけか」

「私にはどうしても……正体を知ってもナッシュを捕らえることなど出来ませんでした。彼に情を抱き、愛してしまったからです。例えそれで忠義を天秤にかけたとしても…!そして陛下への復讐を目的としていると知り、私は彼に憎しみを忘れさせて海へ帰そうとしました」

 罪を告白する罪人のように唇を震えさせ、ベクターの表情のない顔を見つめながらゆっくりと語る。ナッシュを抱き締める腕が震えるのは、傷口からの出血のせいだけではないだろう。

「しかしこうなってしまった以上、私は如何なる罪に問われようとも覚悟してその罰を受け入れる所存です。その代わり…どうか、彼だけは」

 言い終えるとドルベは腕に力を込め裁きを待つように頭を垂れた。自分はどうなっても構わない。しかしナッシュだけは…。彼が何とかして生き延びる方法を考える。
 ナッシュの紫の眼が僅かに揺れ、息の音が静まった。復讐を止める言葉は耳に入っていなかったが、二人の言葉を聞いているらしい。
 その様子を見ていたベクターが、小さく鼻で笑った。

「フフ…冥土の土産に教えてやる、ナッシュ。俺の病は先祖が残した忌まわしい遺産だ。昔海を冒された人魚がこの王族に末代まで呪いをかけた。先代の王達は海を恐れ呪いを解く試みもせずむざむざと運命を受け入れてきたのだ……だが俺はただでは死なん!くだらない、運命なんぞに俺の命を決められてなるものか!」

 ベクターが拳を更に突き、ナッシュもそれに対抗して牙を深め、拳から更に血が流れる。それでもどちらとも退くことはなかった。ベクターの額から汗が流れる。その顔に、僅かに自嘲したような笑いを浮かべた。

「しかし貴様を殺すには今の俺は無力だ。俺自身には力は残っていない……。このままいけば俺は貴様に喰われるだろう。…望むならこんな呪われた、使い物にならない身体などくれてやる。貴様を殺すには必要ない」

「陛下…!」

「言霊による呪いをかけられるのが人魚だけとは思うなよ…。人間も怨念が籠れば呪いを掛けることができるのだ。俺は俺の血をもって貴様に末代まで呪いをかけてやる…貴様ら人魚と同じようにな…!さあナッシュ、俺を喰らえ!そして俺と同じように苦しみながら、己の無力に打ちひしがれて死ぬがいい!」

 ベクターの形相はまるで悪魔だった。この城の人間達を襲ってきた化け物のような様相をしたナッシュにも、劣らない程に。人の怨念とは、ここまでして強いものなのか。先代の王に呪いをかけた人魚も、彼らと同じ顔をしていたのだろうか。ドルベはその光景に息を呑んだ。
 ナッシュはベクターの顔をじっと見つめていたかと思うと、思いがけない行動に出た。瞳を閉じて更に口を開けると拳から牙を解放し、それに留まらず傷口を動物が癒すように舌で舐めたのだ。

「あ…?」

「ナッシュ…!」

 ナッシュのその様子に、ベクターとドルベは揃って声を上げた。
 憑き物が落ちたように彼の身体から紫の蒸気が発せられ、瞳の色が紫から碧へと戻った。開いた口からは普通の歯が覗き、あの鋭い牙は全く消えてしまっている。元の、人間と何ら変わらない元のナッシュへと戻ったのだ。

(……俺は)

 ナッシュは自分の手を見つめながら心の中で呟いた。何故、あれほどまで憎かった人間への攻撃を止めてしまったのだろうか。身体中の血を沸騰させる程の怒りと憎しみはもう、失せてしまっていた。

(俺のしようとしてることは人間達と何も変わらねぇじゃねぇか)

 ナッシュは、知ってしまったのだ。人魚のかけた呪いが罪のある人間だけでなく、何も関係のないベクターの人生にまで及んでいることに。そしてそのツケが、何も知らない自分達へと回ってきた。こうなることは必然であったのだ。
 そして彼は今、ナッシュを呪って死のうとしている。昔、彼の血筋に呪いをかけた人魚のように。ナッシュは王を、人間を許すことはできない。しかしここで彼を殺せば同じことが人魚達に起こり、また人魚は人間を憎み殺そうとするだろう。
 もう起きてしまったことは、歴史は、元に戻すことはできない。しかしどこかで断ち切らなければどこまでも同じことが続いていく。そうして、憎しみと復讐は連鎖していくのだ。
 ナッシュはメラグやカイト、そして他の海に棲む人魚の顔を思い浮かべた。今自分が取るべき選択肢は何なのだろうか。

「ナッシュ、何か言いたいことはあるか。あれば私に言ってくれ」

 考え込むナッシュの後ろから声がかけられた。振り向いて彼を見ると、ドルベの淡い灰色の瞳が優しく煌めいていた。彼はこうなることがわかっていたのだろうか。無益な争いを繰り返す負の連鎖が続いていくことを。
 ドルベの腕に、紙とペンがないかと書いて伝えた。ベクターにそれを伝え、彼は部屋から紙とペンを拝借する。

『俺は意味のない争いを続けたくない。人魚の血で王の呪いが解けば、もう海を荒らす必要はないのだろう』

 ナッシュの書いた文字を見たベクターは喉で低く笑った。

「随分と都合のいいことを言うな。火を付けられた上生命を狙われ、俺が黙っていると思うか?」

『人間が海を荒らすから、俺は復讐に来たんだ。これはお前の罪だ。だがどこかで憎しみを断ち切らなければ、これからずっと俺達はお互い苦しみ続ける。もう海や人魚を傷つけないと約束するなら、俺の血をやる。俺個人をその後どうしようとそれは構わない』

「つまり、お前の血を取った後、お前を処刑しても構わないということか」

『構わない。ただもう、海を荒らすことはやめてくれ。守れないならここで殺す。そして海を荒らせば再び、俺のような奴が復讐をしに来るだろう』

 紫と碧の視線がぶつかる。王の考えていることはその眼からはわからない。しかし、ナッシュには偽りも打算もなかった。無意味な争いをしたいわけではない。誰だって、傷つくのは嫌だから。これ以上傷つかないでいいなら、これで終わりにしよう。そう意思を込めて彼を見つめる。
 ベクターが口角を上げて鼻を鳴らした。

「俺を相手にここまで言い切る奴は初めてだな。俺が今まで戦争をしてきた国の豪傑でもここまではいかない。初対面ですら恐れを知らず挑んでくる貴様の態度は種族の違い故か。だが、そういう不遜なお前の眼は嫌いではない。人間であるならば、臣下として迎えてやりたいところだ」

『それはごめんだな。俺はもう人間ではいられない』

「ドルベ」

 不意にベクターがナッシュの後ろにいたドルベに声をかけた。二人のやりとりを息をするのも忘れて見つめていた彼は突然のことに少し上擦った声で返事を返した。

「残っている兵に輸血の準備をさせろ。こいつはそれが終わり次第、海へ帰せ。捕らえたところで時間の無駄だ。俺はこいつの血が得られればそれで構わん」

 ベクターは二人に背を向けながら言った。扉の所に、船着き場の消火に当たっていた兵が状況を報告しに来ていた。彼らの報告を聞くと指示を出していく。
 ドルベはそれを見ながらありがとうございます、と返事をしたが、それはベクターに届く程の声にはならなかった。灰色の眼から涙を流しながら、彼の背中に向けて深々と頭を垂れた。



 ナッシュからベクターへ、輸血が行われた。医療室の寝台に寝かされたナッシュは腕に数ヵ所の穴が開けられ、そこから流れる血を取られた。薬を飲まされていたため痛みは感じなかったが、器に溜められる自身の血に少し頭がクラリとした。器が一杯になると止血手当てをされる。しばらく横になっているようにと言いつけた医師は器を持って部屋を出ていった。

 ナッシュから献上された血は手当てを受けて自室にいるベクターへと届けられた。彼は器を受けとると鉄の臭いがする中の液体を一気に飲む。不味い、と言って飲み下すと、ナッシュの血は胃へ向かう前に新たな血としてベクターの血流に吸収された。病に冒され血色の悪かった顔に、赤みが差していく。

「いかがでしょうか、陛下」

「頭痛が治まった。それにその他の痛みもだ。身体が随分と軽くなったようだ」

 ベクターを案じて見守っていた家臣達は皆、一様に安堵の表情を浮かべた。ベクター自身も苦痛から解放され、今までに見たこともないような穏やかな表情を浮かべている。
 ドルベは一部始終を見届けると、部屋から退出した。

「ナッシュ、迎えに来た」

 彼がいる医療室の扉を開き、声をかけた。しかし備え付けの寝台には誰もおらず、窓から月明かりが差し込むばかり。もう一度名前を呼ぶが、反応するものは部屋にいなかった。医療室は、もぬけの殻だ。
 まさかと思い彼に宛がわれていた自室に行ってみたが、そこにも人はいなかった。ふと机を見遣ると、黄色い錠剤の入った小瓶が置いてある。彼が人間に戻る為に必要なものだ。こんな大事なものを置いて一体どこへ。ドルベは小瓶を握りしめ、もうひとつの心当たりがある場所へ向かうため、足早に部屋を出た。
 置きっぱなしにされた乱雑に文字が走る紙には、「ありがとう」と「すまない」という言葉が新しい筆跡で書かれていた。

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