マーメイド・シャーク/後



 ドルベはぼんやりと眼を開けた。額に何か、柔らかい感触を感じたような気がしたからだ。それは夢での出来事だったのか、確かめるには頭がまだ使い物にならない。ドルベが一度眠りに入ってから、そこまで時間が経っていないように思える。しかし一度眼を開くと、朧気ながら簡素な部屋の景色が映された。

「ナッシュ…」

 そうだ。ナッシュに一緒に寝たいと言われ、彼の部屋で抱き合ってそのまま眠りについた。何も着ていないから寒い。温もりが欲しい。無意識に、ナッシュがいる方へと手を伸ばした。
 しかし、ドルベの手は温もりに届くことはなく、そのまま寝台に落ちた。ナッシュの名前をもう一度呼びながら、ポンポンと寝台を叩く。そこには温もりなどなく生地そのものの冷たさに戻っており、ここを温めていた主が去って時間が経過していることを示していた。
 ナッシュがいない。ドルベは一気に意識を覚醒させ、ガバッと起き上がった。彼はこの部屋に軟禁されており、部屋から出ることは出来ないのだ。そんな馬鹿な、と辺りを見回したが、この部屋自体に自分以外の人の気配がない。

「……まさか」

 逸る心を抑えながら、自分の衣服が置いてある場所を探る。果たして、ドルベの予感は的中した。鍵が、ない。
 彼はドルベが寝たのを見計らって、鍵を持って部屋を抜け出したのだ。迂闊だった。ベクターに呼ばれない以上、ナッシュがこの部屋を出られる唯一の機会だった。彼と心を分かち合い、すっかり気を許してしまったドルベの失態だ。そして、自惚れていた。自分ならば彼の憎しみを癒して復讐を止められると、思い込んでいた。彼の憎しみは最早言葉で癒せることなど、なかったのだ。

 身なりを整えて急ぎ足で部屋を出た。外は暗く、彼が出てからまだ時間はそこまで経っていないだろう。城もまだ落ち着いている。
 ベクターの部屋は警護されているから、武器を持たず丸腰な上に手を縛られて使えない彼が何かを起こせるとは考えにくい。まだ、どこかに潜んで機を窺っているのかもしれない。
 もしナッシュが見つかってしまえば、手が思い通り使えない彼は抵抗できず捕縛され、王への危害の意志が見られるとなると悪くいけば殺されてしまうだろう。初めて謁見した時はベクターの気紛れで生命は取り留めたが今度はそうはいかない。最悪の事態を想定してドルベは身震いし、ナッシュの無事を祈りながら城内を走った。



 ナッシュは城内を早足で歩いていた。やっと、あの部屋を抜け出せた。真っ先に王の部屋を目指したいところだが何も武器を持たないナッシュは今のまま行けばむざむざと捕らえられる為に行くようなものだ。牙を持たない自分の無力さはあの、最初に王と対面して捕らえられた時に思い知らされた。
 ナッシュには力となるべき武器が必要だった。何か、武器になりそうなものがないか。武器庫などはないか。城の兵に見つからないように隠れながら目的の部屋を探した。

(ドルベ、すまねぇ)

 ふと、身体に残る僅かな温もりを思い出して唇を指で抑えた。ナッシュを抱いて安らかに眠る顔が脳裏に描かれる。彼には悪いことをした。ナッシュに心を開いて訴え、信じてくれた彼を、裏切ったのも同然だ。ドルベには感謝している。ここまで自分を思ってくれ、新しい選択肢を考えてくれたことに。
 しかし、どうしてもナッシュの心は治まらないのだ。憎しみは心の底にこびりついてしまっている。上から別の感情を覆い被せようとも、ふとした時に顔を出してしまうのだ。忘れることはできない。復讐は、成さなければ。
 部屋を出てから、大分歩き回った。ここはどこだろうか。一回階段を下りたから地下かもしれない。さらに歩くと、鍵のかかっていない扉がナッシュの前に現れた。人が居ないか細心の注意を払いながら、その扉を開ける。

(外…?)

 肌寒い外気が、腰布しか纏っておらず肌を晒したままのナッシュの素肌を撫で、思わず身震いした。どうやら外のようだ。潮の匂いがするから海に近いのかもしれない。ナッシュは階段を下りた。
 ここは城の裏手にある船着き場だった。漁などで使われる船が繋がれている。見回りの兵は海の方を監視しており、ナッシュに気づいていないようだ。彼らに見つからないよう、死角に隠れる。

(船が置いてあるのか…)

 王国の船…。ナッシュは今までに、水面に船が浮いているのを何度も見掛けた。こいつが、こいつらが、海を荒らして色んなものを壊してきた。メラグを…傷つけた。ナッシュの脳裏にあの日の光景が描き出される。
 意識を失ったメラグ。大切な妹の、変わり果てた姿。背中についた大きな傷。泡となって幾度となく海水に溶けていく血。許せない。メラグを傷つけた、人間を許さない。
 ナッシュの視界が、突然暗くなった。パチパチと近くで篝火の弾ぜる音だけが耳に響く。その音に合わせるように、ドクン、ドクンとナッシュの心臓が静かに、それでいて力強く鼓動し始めた。血がゆっくりとナッシュの身体中を巡る。
 また血を吐くのかとナッシュは構えたが、どうやらそうではないらしい。痛みは感じず、ただ身体が熱い。まるで体内の細胞が燃え血液が沸騰して、身体の奥から力が沸いてくるようだった。ナッシュの身体に残る鮫としての自分が、憎しみが、ナッシュに力を与えているとでもいうのか。今までで一番、頭が冴えている気がする。身体が熱くて、外気や地面が心地良い。
 ナッシュは静かに立ち上がった。


「あれは…?」

 見張りの兵の一人が遠くからこちらに歩いてくる人影を見つけた。篝火の明かりに照らされて、ぼんやりと姿が映し出される。腰布だけを纏っており、鎖で手を繋がれた蒼い髪の少年。王に危害を加えようとして捕らえられた、奴隷の少年だ。
 彼は部屋に軟禁されているはずだ。どこから出て来て、なぜここにいるのか。彼は火が点っている木の棒を持って声もなくせせら笑っている。その様子にある種の狂気のようなものを感じ取った兵は剣を抜き、彼を威嚇した。

「貴様、どこから出て来た?大人しくーー」

 兵が駆け寄るその前に、少年は更にニヤリと口角を上げると海の方に向いて持っていた火を投げた。それは一瞬の出来事だった。あっ、と声を出す暇もなく突然目の前で起こった光景に、兵はその場に立ったまま火の行方を目で追うことしか出来なかった。
 次の瞬間、船から火の手が上がり赤く燃え始めた。船体は木を削ってできているため、一旦火がつけば容易に炎に包まれる。風に煽られ、轟音を立てて炎は空へ向けて大きく燃え上がり、隣の船へと燃え広がって行った。そう時間が立っていないにも関わらず海上は赤く明るくなり、船を造っていた木は焼け落ち幾隻もの船が崩れて倒れていく。

「早くそいつを捕らえろ!火を消せ!」

 城に燃え移ってはかなわない。怒号が飛び交い、兵が消火活動に当たる。残りの兵が剣を掲げて少年を取り抑えようと掴みかかったが、彼はそれを躱し、兵を蹴り上げた。別の方面から剣を降り下ろすが、手の鎖で受け止め弾き返される。その隙をついて海中を泳ぐ魚のように素早く、するすると捕縛の縄や手をすり抜けられた。
 そして彼は兵から少し距離を置いたところに立った。兵は取り囲んで彼を捕らえる機を窺う。すると何を思ったのか、彼は兵達の見ている前で手首を繋いでいる鎖を口元に近づけた。一体何をするつもりだ、まさか、と見ている兵達に緊張が疾る。
 果たしてーー彼の口元からギチギチ、ミシミシと金属の音が聞こえたかと思うと、バキンと一際大きな音が響いた。少年の手が解放され、口からはボロボロになった金属の破片が落ちた。鎖が噛み千切られたのだ。鉄製であるはずの、鎖が。
 その様子に畏怖を覚えた兵の目に映った少年の眼は紫に光り、瞳孔が開ききって爛々と輝いている。彼が口角をあげると鋭い牙が現れた。その姿は、獲物を前にした獰猛な野生の肉食動物そのものを感じさせた。



 夜中であるにも関わらず城が騒がしく物音を立てている。ベクターはその音で目を覚ました。耳を澄ますとバタバタと人の走る足音や、些か大きな話し声が聞こえた。只事ではない事態だ。敵襲か?と意識を覚醒させてベクターは寝台から起き上がり、剣を手に取った。
 ベクターが寝間着から着替え終えると、扉を叩く音が聞こえた。

「陛下、失礼致します」

「何事だ。入れ」

 声が聞こえ、ベクターは入るように促す。ガチャリと扉が開き、ドルベが姿を現した。しかしいつもの白銀の甲冑は身に付けておらず平装のままだ。敵襲ではないのか?とベクターは訝しげな表情を浮かべた。ドルベは切迫した顔をしているが、ベクターの姿を見ると些か安心したようにほっと息を吐いた。

「陛下…御無事でしたか」

「城内がやけに騒がしいな、敵国の襲撃か?」

「ナッシュが脱走しました」

「なんだと?」

「はい。捜索をしたのですが今城内のどこを歩いているのか、皆目検討つかない状況です。もしや既にここに来ているのではと思い伺ったのですが…まだ城内のどこかに……」

「脱走して俺を狙っているというのか。一度俺に歯向かおうとした奴だからな…やはり、敵国から流れてきた奴か」

 ベクターは少し眉を上げる。ナッシュの脱走に驚きはしたが、次第に眠りを妨げられたことへの苛立ちを見せ始めた。
 ナッシュは武器を持っておらず、手を縛られ身動きが取れない。確かに彼の眼は凶暴性を秘めているものの、何もできないはずだ。ならば城の兵をもってして再び捕らえれば済むものの、王を起こす程の城の騒ぎを引き起こすとは何事だ。敵襲ならいざ知らず、たかだか奴隷が一人脱走したごときで大騒ぎになっているとは、とベクターは苛立つように舌ちをした。
 ベクターの様子を察したのか、ドルベは神妙な顔つきになった。ドルベも騒がしくなる前にナッシュの最終目的地であるここに来た為、この突然騒がしくなった状況については正確には把握していない。しかし彼が武器を手に入れ、城のどこかを彷徨っている可能性が高い。
 彼は今どこにいるのか。そして、何をしているのか。ドルベは心の中で彼の身を案じた。

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