マーメイド・シャーク/中(下)



 ナッシュが目を覚ますと、そこは彼に宛がわれた部屋だった。またドルベが洗ってくれたのだろうか、身体は綺麗になっていた。脚を動かすと、尻がズキズキと痛んだ。

「ナッシュ、目を覚ましたか」

 ベッドの端に腰掛け、ナッシュの様子を窺っていたドルベが声をかけた。そちらを向くと顔に手が伸ばされ、ナッシュは咄嗟にそれを振り払った。ぱしん、と軽い音が部屋に響く。

(あ………)

「すまない……」

 ドルベは手を引いて、困ったように眉を下げた。口元は笑みを作ったままだが、悲しい色を灰色の瞳は湛えている。ナッシュはその視線から逃げるように俯く。
 咄嗟になぜこのような行動に出たのか、自分でもわからなかった。ただ、ナッシュの脳裏には先程見た、ベクターの部屋で乱れる彼の姿が映っていた。

「すまなかった、ナッシュ……君を、また…傷つけてしまった」

 ドルベは何を言っているのだろうか。果たして、自分は何に傷ついているというのだろうか。ナッシュにはわからなかったがドルベがそう言うのだから、恐らく自分は傷ついたような顔をしているのだろう。
 しかし、ナッシュには彼のそんな謝罪の言葉よりも聞きたいことがあった。
 ふと、机の上にドルベの部屋に行ったときに見たものと同じ紙とペンを見つけた。これはドルベがコミュニケーションが取りづらいナッシュの為に昨夜持ってきてくれたものだった。ナッシュはふらりと立ち上がり、机の方へ向かった。その後に、ドルベが続く。

『なぜ俺を抱かなかった?』

 彼はハッとしたような顔をナッシュに向け、そして苦しそうに歪めた。

「あの場では……君を犯したくなかった。君を愛していることを陛下に悟られる訳にいかなかったから」

『俺は、むなしかった』

 目の前にいるのに、身体が繋がっているのに、まるで彼に見られながら自慰をしているようだった。
 せめて抱き締めてくれるだけでも、口づけてくれるだけでも、よかったのに。彼は王の前では、あんなに声を上げて、乱れていたのに。
 そこでナッシュは王に対して自分が嫉妬していることに気がついた。彼が自分以外の人に触ることに、嫉妬しているのだ。

(俺は恋をしている……人間に対して)

 いつしかナッシュが感じていたのは、彼の愛情に応える為の愛情だけでない……結ばれたいと、彼の愛情を自分だけのものにしたいという独占欲めいた恋心だった。

『お前は、王のことをーーー』

 そこまで書いた時、ドクンとナッシュの心臓が大きく鼓動した。途端に、全身の血が高速で廻るように身体が熱くなり、 喉の奥から何かが込み上げた。全身が痛い。

(また……!)

「どうした?」

 豹変したナッシュの様子に心配するドルベの声が聞こえる。彼に背を向け、ナッシュは床に這いつくばって気持ち悪さに噎せた。
 彼が肩を掴んだその時、ナッシュの口からボタボタと血が落ちた。そしてそれは前と同じように、泡となって消えた。

「ナッシュ……!?」

 ナッシュを抱き起こし、眼を見張るドルベと目が合った。その顔は驚きに眼を開き、震えている。ナッシュを支える腕にも、変に力が入っていた。

「ナッシュ…君はまさか、病気…なのか?何故、こんな…。何故、私に言わなかった…!?…いや、こんなことをしている場合じゃない……そうだ、医者だ…医者を呼ばなければ……」

 震えながらぶつぶつと何かを呟いているドルベの腕を掴んで、ナッシュは首を横に振った。ズキンと腕が痛むが、ドルベの気を引くように力を込める。

「離してくれ、ナッシュ!何を馬鹿なことを……君は今、どのような状態かわかっているのか?…いや、大丈夫だ…。どんな状態だろうと、治るさ。私が死なせたりしない…!」

(違う、そうじゃない!)

 てこでも医者に看せようとするドルベの腕を掴みながら、ナッシュは彼の腕から逃れようと身を捩った。
 人間の医者に見られたら、自分が人間ではないということがバレてしまうかもしれない。

「もし、自分の身分について、医者にかかることができないと思っているのなら、大丈夫だ。私がいるから…私が口添えをすれば……」

(待てドルベ!くそっ…声が出せたら……)

 ドルベはただただナッシュの身を案じ、ナッシュが示す拒否を見ていない。否、突然の喀血を見て彼自身、ナッシュ以上に動揺しているようだった。

 その時ふと、ナッシュの耳が何かの振動を感じ取った。それは、何かの音…いや、微かではあったが、よく聞くとそれは声だった。

『ナッシュ……聞こえる、か……』

(その声は……もしかして、カイトか?)

『この…音声は、空気中…の水分を通し…人間に…はきこえ…ない…音波で…お前に…送って…いる。きこ…えづらい…が…我慢しろ…』

「ナッシュ……どうしたんだ?」

 突然抵抗を止めたナッシュに、心配そうな声がかけられる。ナッシュは、彼の方を向いて口元に人差し指を立てた。

『お前…の…身体のこと…が、気が…かりだ。い…ま俺は……海岸…に来ている。今日…夜が明ける…までは待っていて…やる。俺の声が…きこえた…ら…海岸…へ、来い…』

 カイトの音声はそこで途絶えた。海岸……あの、ナッシュが意識を失いドルベに助けられた海岸だ。そこに、カイトが来ているというのだ。
 カイトは海の賢者。今自分に起きていることが、ひょっとしたらわかるかもしれない。
 ナッシュはふらりと起き上がり、ドルベの身体から離れた。立つと脚が痛み冷や汗が流れたが、そのまま踏みしめた。ドルベが声を荒らげるのをよそに、机にある紙に文字を書く。

『俺は海岸へ行く』

「ナッシュ、何を言っている?そんな身体で、一人で……せめて医者に看せてから」

『俺はそこに行かなきゃならないんだ。俺の身に起きてること、何かわかるかも知れない。…お前は、来るな』

「君は、一体…?」

 ドルベの眼が、ナッシュをただ心配するものから疑問を含ませたものへと色を変えた。ナッシュが「普通の人間ではない」ことに気が付いたのかもしれない。

『お前は、来るな』

 もう一度紙に繰り返して書くと、痛む脚を引きずりながら扉へ向かった。
 すると、扉を出ようとしたナッシュの身体がふわりと宙に浮いた。抱きかかえられたというのに気付き、抵抗するにはもう遅かった。彼の手から逃れようと身を捩るが、より強く抱え込まれるだけだった。

「君を一人にはできない。それに、君だけではこの城から出るのは不可能だ。私も行く」

 いつにも増して真剣な彼の瞳に、思わず心臓が鳴る。だがその眼をナッシュは直視できなかった。
 まだ彼に正体を知られたくなかったのだ。いずれ、全て終われば全て話すつもりだ。しかし今はドルベが以前言ってくれたように、彼の前では人間でありたかった。
 苦しみに耐えられるのは人間に対する憎しみのおかげであり、憎しみに呑みこまれず人を保っていられるのは彼が「人間として」愛してくれるおかげだったから。

「私は何を見ても、君への想いは変わらないよ」

 ナッシュの苦悩を察してか、それとも別の、彼の中にある想いか。いずれにしろ、その言葉はナッシュに抵抗を止めさせるには十分な一言であった。



 夜は既に更け、月が高く出ていた。城下町も静まり返っており、海が近づくにつれ潮の音が大きくなる。
ナッシュは荷物に扮し、ドルベの影に隠れるようにして城を抜け出し、海へ出た。服を身に着けられず、申し訳程度に下半身を布で隠しているだけ。
 砂浜に降ろされ、脚を着ける。あれだけ全身を蝕んでいた痛みはもうなくなっていた。
 ドルベをそこで待たせて、海の方へ歩いていく。それほど時間を置かず、白いコートを羽織った男が見えた。

「その様子では、随分とヘマをしたようだな」

 鎖で拘束されているナッシュの手を見て、カイトは鼻で笑った。思わず睨んだが、カイトの言うとおりだった。ナッシュは妹の仇を目の前にして何もできずにいる。それどころか、苦しみの中で手に入れた身体はいいように扱われっぱなしだ。

(なぜここへ?メラグは…)

「お前の聞きたいことはわかっている。メラグは今回復に向かっている。最近、話すことができるようになった。…お前の姿を探して、泣いていた」

(メラグ…すまない)

「そういうことは直接妹に会って言うんだな」

 カイトはまるでナッシュの頭の中を読み取るように会話をしていく。実際に、カイトにはわかっているのかもしれない。

「ところで俺が来た用件についてだが、お前の様子を見に来たんだ。あれから約一ヶ月が経つが…ここのところ、お前の身体に異変はなかったか」

(!なぜ、それを……!?)

「確かに、お前の身体の機能を作り替えた。しかし速効性を重視したものでは、安全性までは確保できなかったのだ。お前の身体は今、徐々に細胞が壊死を始めている」

(何だと…!?じゃあ、放っておけば…)

「このままだと、全身の細胞が破壊されお前は死ぬ。タイムリミットは、3日だ」

(そんな……)

 ナッシュはぐらりと世界が揺れたような心地がした。手足と唇が震え、心臓が五月蝿い程に鳴り響いている。

(俺が死ぬ?まさか……。俺はまだ、何もやり遂げていないのに)

 バランスを崩したナッシュの身体を、カイトは片手で抱き止めた。
 ナッシュは眼を見開いたまま、ぐるぐると頭の中にカイトの言葉を廻らせている。今自分の脚で立てていないということも解っていない状況だ。
 ぱん、と乾いた音が響き、思考の渦に嵌まったナッシュを、カイトの平手が呼び戻した。

「打ちひしがれるにはまだ早い。俺の話はまだ終わっていない。お前の自己責任とはいえ、ここまで把握するに至らなかった俺にも責任の一端はある。このままお前を死なせてはメラグが五月蝿いからな。応急措置を取る」

 カイトはナッシュを支えている腕とは逆の手を懐に入れ、小瓶を取り出した。中には黄色い錠剤が数粒入っている。

(これは……?)

「これはお前を人魚に戻す薬。鮫の遺伝子を取り除いたとはいえ、情報はその身体に残ったままだ。しかし強引に作り替えているために適切な細胞分裂ができず、壊死している。この薬は割り込んだ人間の遺伝子を除き、細胞分裂を助けるもの。そうすることで鮫の遺伝子が元に戻る。お前の声もな」

 カイトはナッシュの掌に小瓶を落とした。これを飲めば、人魚に戻れる。しかし、もう人間ではなくなる。
 まだ、ナッシュの復讐は終わっていない。しかし、ナッシュにはもう時間が残されていないのだ。

「何か迷っているようだな。まあいい、どのみち犠牲がなければその薬は飲めない」

(何だと?)

「種族の違うものが近づくのは禁忌。それを犯すには代償がいると言っただろう。人間になる際はお前自身の声を犠牲にした。人魚に戻るときは、人間の血を得なければならない。俺の薬でも、その論理を外れるのは不可能だ。その薬は、人間の血でもって飲まなければ効力は現れない」

(………!)

「貴様の妹を傷つけた人間に復讐し、その血で薬を飲めば人魚に戻れる。お前にとっては一石二鳥だろう」

 脚に力を取り戻したナッシュの身体から離れ、カイトは海へと向かった。ナッシュは彼から渡された小瓶を握りしめる。

「俺は俺のするべきことをした。お前がそれを飲んで海に帰って来ようが飲めずに野垂れ死のうが後は知らん」

(ああ。すまない、カイト。恩に着る)

 ナッシュの心の声が聞こえたのか、カイトはフンと鼻で一つ笑い、その姿を消した。
 カイトには感謝してもし尽くせない。必ず目的を果たして海に戻る……ナッシュはそう海へと呼び掛け、ドルベの元に戻った。



 ドルベは何も言わなかったが、その顔に浮かべていたのはいつもの笑顔ではなく、汗と何かを言いたそうに口を結んだ表情だった。
 来るなとは言っても、彼は聞いてしまったのだろう。カイトの話を。

「君は、何をするつもりなんだ?」

 ナッシュは傍らにあった棒切れを掴んで砂浜にしゃがみ、文字を書いた。潮が満ちて引いたばかりなのだろう、程よく固い。

『俺の正体を知ったのだろう』

「ああ……すまない、聞いてしまった。君は、人魚だったんだな」

 噂でしか聞いたことのない人魚が目の前にいるとはにわかには信じがたく、ドルベは半信半疑だったが、海で倒れていた時に何も身に付けていなかったことや、服を着る文化を知らないこと、それにあの突然消えた白いコートの男の存在が真しやかに裏付けていた。

『この国の、狩りをしてた船に妹を傷つけられた。俺はこの国の人間に……王に復讐するために声を犠牲にして人間になった。今まで、その機会を狙っていた』

「君は、陛下に復讐して……殺すつもりなのか」

『そうだ。でなければ俺は死ぬ』

 王に危害を加えようとする存在が目の前にいる。王に忠誠を誓うならば、彼が行動を起こす前に排除しなければならない。それに、彼は人魚……。王は人魚を求めている。彼を屠ってその血を差し出せば、彼はドルベの忠誠心を讃えるだろう。ナッシュはドルベを信頼している。できないことはないのだ。
 しかし、ナッシュを愛しているならば、彼の為に誰かの血を差し出さなければならない。彼が望むのは、憎き人間の王の血。そうすれば彼は喜び、再び命を得て海に帰ることができる。

 ドルベは、何も言えず、何も行動を起こせず、ただナッシュを見ていた。彼に対する愛情と王に対する忠誠心の間で板挟みになりながら。
 ナッシュはその様子を見て、再び文字を綴った。

『お前も敵になるならそれでもいい。本当はお前の前ではもう少し人間でいたかった』

「ナッシュ……」

『お前が人間だと言ってくれたから、俺は俺でいられた。敵になっても、この恩は忘れない。俺はお前が好きだ』

 彼がナッシュの味方になろうと、人間の味方になろうと、伝えておきたかったことだ。ただひたすらに人間を憎む中で、彼に感じた愛情は、恋心は、本物だったから。
 例えそれが、もう叶わないものだとしても。

「っ……!」

 カラリと、ナッシュの手から棒切れが落ちる音がした。
 ナッシュの身を包む、布越しの体温。柔らかな風と、波の音。そして、緩やかに鼓動する心音。それが今、ナッシュの世界を構成する全てだった。

(お前を巻き込んで、すまない)

 この手が汚れる前にせめて……と腕を上げ、彼の濡れた頬を撫でた。

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