マーメイド・シャーク/中(上)
ベクターの部屋を出たドルベは、真っ直ぐに浴場へと向かった。湯を出してナッシュの後ろに座り、自分の身体に寄りかからせて彼の身体を洗い始めた。
意識のないナッシュの身体には、いくつか鞭で打たれたような傷痕があった。眼から涙が流れたような跡もある。あれだけベクターを憎んでいたナッシュだ。抵抗して、打たれたのだろうか。
何とも言えない靄のような思いを抱えたまま、ドルベは彼の身体を清めてゆく。
少しして、ふと、ナッシュの瞼が震えた。
「気がついたか」
ナッシュはぼんやりと眼を開けた。ドルベは、意識を取り戻した彼に、声をかけてやる。いつもより、自分の声が震えているような気がした。
ナッシュは、ハッとしたように眼を開くと、ドルベから顔を背けた。ドルベの腕から逃れようとするように、身を捩ってもがく。
「ナッシュ……私だ。いつものように、身体を洗っているだけだ。君には何もしない。……心配しなくていい。」
取り乱す彼を安心させるように、ドルベは腕に力を込め、耳元で声をかける。ナッシュは動きを止めたが、はらはらと眼から涙を流した。
「どうしたんだ……何かあったのか?」
いつもと違う彼の様子に、いよいよ心配になる。問うてみても、彼は涙を流して首を横に振るだけ。
「辛いだろう、当然だ。ナッシュ……、君の苦しみをわかってあげられなくてすまない……」
やはり、彼が大丈夫とは言っても、この境遇はかなり彼にとって辛いのだろう。常人なら到底耐えられないところを、彼はーー何らかの目的の為に耐えている。彼の涙を見ながら、力になれない自分を嘆いた。
せめて、少しでもその苦しみを和らげられたら。ドルベはそう願って後ろから彼の身体を抱き締める。
ふと、トントンと肩を叩かれる感触がした。少し身体を離して、彼を見る。ナッシュはいつものように、ドルベの腕に文字を書いていった。
『あやまるな』
「だが、ナッシュ……」
『俺に情けをかけないでくれ』
「……どういうことだ?」
『俺が、みじめになる』
「私は、情けでこういうことをしているのではない。少しでも、君の為になりたいから。……あの日、君を海岸で助けた時からそれは変わっていない」
ナッシュの手が、ドルベの腕に文字を書こうとして留まった。何かを考えているように、指を宙で泳がせている。
「何でもいい、書いてくれ。私は君を笑ったりしない」
ドルベが促すと、意を決したようにナッシュは文字を綴った。
『お前は、俺を人だと言ってくれたな』
「ああ、そうだ。君は人だ」
『それ以上なにもないなら、もう俺に構うな』
「ナッシュ……なぜ、そんなことを……」
彼は何を自分に対して聞こうとしているのだろうか。彼は何を求めているのだろうか。言葉に詰まり、質問の意図を考える。
すると、ナッシュは再び言葉を並べた。
『王に抱かれているとき、お前が抱いているのだと思った』
「私は、そんな……」
『お前だったらよかったのに』
「……ナッシュ……!」
『お前だったら、嬉しかったのに』
ナッシュは自嘲するなかに悲しみを混ぜたように、海の色をした瞳を漂わせていた。
ドルベの目の前で、何かが弾けたような気がした。気がつくと、彼の身体を再び抱き締めていた。
靄の正体が今、わかったのだ。彼が誰かと交わるのを見るたびに感じた、胸を締め付けるような痛みの正体も。なぜ、彼とベクターの性交を見たときに、大きな喪失感を感じたのかも。
なぜ自分が、彼を洗うというこの行為に固執しているのかも。
「ナッシュ……君が好きだ。君を……愛している……」
つん、と鼻が詰まった。それで、無意識のうちに涙を流していたことに気づいた。
本当は気づきたくなかったのだ。ドルベはずっと前から、ナッシュを愛していた。しかし、気づかないふりをしてきたのだ。
思いを自覚してしまえば、彼を手に入れたくなってしまうから。自分のものにしてしまいたくなるから。王のものに手を出すことなど、できなかったのだ。
だが、もうそれも手遅れだった。ドルベは今、溢れんばかりの愛情で震えながら、彼を抱き締めている。
ナッシュはドルベの胸に顔を寄せた。 ジャラリと音を立てて腕を動かし、ドルベの涙を拭う。
ドルベはそんな彼の顔を上へ向けて額に口づけをした。瞼に、頬に、鼻の頭に……。愛しさを込め、それを唇で伝えるように口づけてゆく。
最後に、唇を重ねた。一度吸って離すと、ナッシュはドルベの腕に『もう一回』と書いて強請った。
再び、口づける。……もう一回。唇を吸う。……もう一回……。繰り返されるナッシュのお強請りに、とうとうドルベは彼から唇を離すことができなくなった。
唇の柔らかさを味わうように、感触を愉しむように、二人は互いの唇を吸い合う。口づけを終えると、恥ずかしさやら嬉しさやら……そんな感情が溢れて笑いあった。
ドルベは身体を洗うのもそこそこに、ナッシュを抱えて浴場を後にした。
ナッシュに新しく宛がわれた部屋には、今度は鍵が付いていた。それは、「王のものになった」ということを意味していた。もう、不特定多数の人間が彼に触ることはできない。
その中で、ナッシュとドルベは交わった。ドルベはナッシュへの愛しさと、王への背徳感を感じながら、抑えきれない思いをナッシュにぶつけた。ナッシュを寝台に倒しながらその上に覆い被さり、深く深く口づけた。
(夢……じゃない……。ああ……お前の身体……こんなにも熱い……)
そう、今度は夢じゃない。この熱も、手も。
彼の身体は、ナッシュが夢で見たよりもずっと熱かった。
唇を離すと、ドルベと眼があった。淡い灰色の眼でナッシュの眼を見詰めながら、欲しかった言葉をくれた。
「私は、君を性欲の為や情けで抱くんじゃない。愛しているから、君に触れたい。いいかい?」
ナッシュはそれに頷いた。今更拒否するなど、あるわけがない。彼は唯一、ナッシュが心を許した人間だ。こういう風に抱かれることを、心の奥で望んでいたのだ。
メラグに対するものとはまた違った、確かな愛情をナッシュもまた彼に対して感じていた。
(ドルベ……触ってくれ)
ナッシュは彼の手を取って、自分の胸に導いた。彼はナッシュの胸や腕を撫でながら、その身体に口づけ始めた。
「んっ……ふ……」
(気持ちいい……)
彼が触ったそこから、痺れるような感覚がナッシュの全身へと駆け巡る。どこを触れられても気持ちがよかった。
意識がハッキリしたまま、これだけ快感に酔えるのは初めてだった。
(あ……ああ……もっと……もっと触ってくれ……)
彼の愛撫は身体を洗うときと同じ。労りながら、優しく触れていく。
ドルベは上半身をあらかた愛撫し終えると、次はナッシュの性器に眼を向け、触り始めた。そこは既に天を向いて濡れている。
彼が、いつも自分が誰かにするようにぱくりと性器をくわえたのを見て、ナッシュは驚いた。
(そんなっ……!)
じゅるじゅると音を立てながら、性器が熱い粘膜に包まれる。その奥で、彼の指が中を暴いていく。気持ち良くて、全身が震えた。
息を吐く口の端から、唾液が零れる。
「はっ……はぁっ…………っ、……はぁ、はぁ……ふっ……!」
(なんだこれっ……気持ちいい……!変になるっ……!もう、だめだ……出るっ……)
ナッシュは息を詰めてビクッと腰を浮かせた。ドルベの口の中で果て、白濁を出す。
彼が喉を上下させてそれを飲んでしまうのをぼんやりと見ていた。
すると、嬉しそうに笑うドルベと眼が合った。恥ずかしさから、顔を染めて彼から逸らす。
「ナッシュ……君の中に入りたい。君と、繋がりたい」
ドルベは身を乗り出し、ナッシュの耳元で囁いた。ナッシュはただその言葉に頷いて、脚を開く。
(俺も欲しい。お前に、入れてほしい)
そこに言葉がなくても、ナッシュの身体や眼が、雄弁に気持ちを表した。
ドルベの性器がひくつく孔にゆっくりと入り込み、ナッシュを揺さぶった。彼の腕に抱かれ、口づけられながら、ナッシュは彼の与える快感に身も心も溶かしてゆく。自然と涙が流れた。
「はあ……はっ、はぁ…はぁ…っん…ふ……!」
「ナッシュ……辛くないか」
(平気だっ……)
ナッシュは少し眉を下げて、首を振った。彼の背に回せない腕の代わりに、脚を腰に絡みつけた。
(ドルベ……もっと欲しい……もっと突いて……ああ、気持ちいい……このまま繋がっていたい……)
心から求める繋がりは、身体だけが快楽に溺れてしまうよりももっと気持ち良くて、幸せだった。
そしてその気持ちは、ナッシュを貪欲にしてゆく。
「気持ちいい……気持ちいいよ、ナッシュ……ああっ、……好き……ナッシュ、愛している……」
「っ……」
(俺もだ……ドルベ……)
二人はこれ以上ない喜びに、そして幸せを抱き合いながら、口づけを交わした。ナッシュは、今この時だけ、憎しみも自分が人魚であったことも全て忘れて彼に身を委ねた。
そして閉じられた部屋で、互いが精根尽き果てるまで、幸せな背徳の交わりを続けたのだった。
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