colorless spinel











 私は彼女が嫌いだ。

 左右に出来るえくぼも、色白だからすぐ赤く色付く頬も、黒目がちな垂れ目も、細い手足も、緩く巻かれたミルクティー色の髪の毛も、新しく塗った新色のネイルが施されたちいさな爪も、薄い唇も、何もかも、彼女を構成する全ての有機物が嫌いだ。

 どす黒くどろどろで、そこらじゅうの糸を掻き集めて巻き付けてしまったように解くあてがないこの気持ちはどこまでも私を堕とす。奈落の底まで堕ちたとき、そのときやっと私は心から笑えるのだろう。やっとあの眩い笑顔が見えないほどの安楽の闇に辿り着いたと。

 
 でもそんな私に彼女は簡単に笑顔を向ける。その笑顔は平等で、賢者にも愚者にも、晴れやかな太陽と称されるそれは無限に降り注がれる。醜い虫だろうと何の躊躇いもなく困っていれば救いの手を差し伸べられる彼女が、クラスだけでなく学校中の人気者にならないわけがない。そのちいさな口からは卑しい悪口なんて吐き出されず、全て麗しく浄化された音色しか紡がない。

 現代の聖女のような彼女だが、残念ながら人間だった。本当の聖女であれば神とセックスもせずに妊娠することも出来ただろうが、彼女は身を神には捧げなかった。


「彼女が聖女なら、お前は何だろうな。さしずめ、人間に禁断の果実を食わせようとする蛇か?」

「まさか。自ら禁断の果実を食べさせようと催促するほど私は暇じゃない。それに……関わりたくもない」

「おーこわ」


 放課後の校舎は独特の空気感を放つ。蛍光灯が点っていない教室は生徒を排除したがっているように見え、それに抗うように残る私達はただの邪魔者でしかないのだろう。

 窓側に位置する私の机上で行儀悪く座り開け放たれた窓を覗き込んでいた男の「あ、打った」という声で思考の海から浮上し、つられて顔を上げる。窓からは深緑と土の香りを纏う風が、前方に垂れていた私の長い黒髪を強引に後ろに流し込んだ。


 急に開けた視界に広がる極彩色の世界の中心に、彼がいた。バットを投げ捨ててただひたすら走る白いユニフォームの背中は私がいる校舎から遠ざかる。ボールはまだ地につかない。走る。グローブに吸い込まれていくボール。走る。ボールはグローブの端に当たり、地面に向かって落ちる。走る。

 彼が無事二塁でセーフとなったのを見届けて、ほっと息をついた。

 今の私の顔はみっともなく緩んでいるだろう。指摘されたことはないが、この男が彼を見つめる私の横顔を黙って見ているのには気付いている。しかしそう簡単に顔を締めることが出来ないことも事実で、ホームへ帰ってくる彼を見つめながらも頬が熱くなっているのを冷ましたくて風を浴びようと窓に身を乗り出した。


 そして目に入る光景。


 ――どろり、温かくなっていた胸に流れ込んできた濃厚な黒。ぎりりと胸を握りつぶされそうな感覚は未だ慣れることはなく、あんなに美しく広がっていた見事な極彩色は、限界を見せないまま溜まっていくその黒で塗りつぶされていった。

 痛いと泣き叫ぶそこが涙を流すたび、私の緩んでいた顔は能面を作り上げるために石膏を張り付けていく。


「……見んな」


 大きな手が横から伸びて、私の視界を覆った。吸えなかった息は吐き出すことを思い出して再開することが出来た。いつもはちょっかいをかけるだけのその冷たい手は私の顔を覆えるほどに大きいのに、慰めるように瞼を撫でるその指先は壊れ物を扱うように優しい。それに今日は救われた。

 だがちょっと今はそれに反応することが出来ない。見えなくなったぶん、先程の映像が網膜で繰り返し流れる。壊れたビデオのように鮮明に流れる。


 彼女は人間だった。だから人間に恋をした。それが私の好きな人だった。そして、彼もまた彼女のことが好きになった。それだけだ。

 話しかけることで前進したつもりでいた私とは違い、彼女は彼の部活のマネージャーになり着実に彼との距離を縮めていった。聖女の優しい心と可憐な姿に心を奪われた彼にマネージャーの彼女が出来たという噂が出たのはつい最近だ。誰よりも先に心を奪われていたはずの私の心は未だ帰る音沙汰を見せない。
 どうして。
 どうしてそこに貴女がいるの。ハイタッチして、照れた様子を部員にからかわれて真っ赤になる彼を一番近くで嬉しそうに見上げることが出来る唯一の人。何故、何で、どうして、貴女が。


 彼が好きなものはどんどん好きになっていった。同じ趣味を持って同じ話が出来るだけで舞い上がるほど嬉しかったのに。どんどん欲深くなって貴方の恋人になりたいと思って、努力をしてきたのに。貴方を好きになったのは私が最初なのに。私のほうが、絶対貴方のことを好きなのに。すきなのに。


 私は彼女が嫌いだ。

 そう思えば思うほど、このきらきらとした極彩色の美しい気持ちが薄汚れていくような気がして。とても幸せな気持ちなはずなのに、作り出される感情は汚いものばかり。気持ちが大きくなるほどその感情も大きく膨らんで、ただのクラスメイトだったはずの彼女が大嫌いになった。


 彼がチャームポイントだって褒めるえくぼが嫌いだ。彼の手が触れる包む頬が嫌いだ。彼の目線を離さない目が嫌いだ。彼を拘束してしまえる手足が嫌いだ。彼の熱い背中を引っ掻ける爪が嫌いだ。彼のそれを受け止めることが出来る唇が嫌いだ。


 何より、そう思うことしか出来ない醜い私がいちばんだいきらいだ。



 本当はそんなこと思いたくないのに、きらきらな想いのままにしておきたかったのに、そう出来ない。純真な気持ちのまま、彼を一途に想っている私を好きになってあげたかった。


「本当にばかだよなあ、どうせラブラブな二人を見ることになるから今日の観察は止めろって言ったのに、ばかだよなあ」

「……うっさい」

「うーわ、さっきまではニコニコして可愛かったのに」

「うっさい」


 そう言っても私の目を覆う手を外さないでくれる悪友に甘えてばかりの自分の弱さにも嫌気がさす。出て行けと勧告していた放課後の空気に抗った罰のような光景が少し和らいで、胸に渦巻く気持ちも落ち着いてきた。

 隠れて泣き喚いてしまいたい真っ黒な衝動は上手く隠して、息を吐く。ふとあの何のしがらみもない聖女の笑顔が脳裏に浮かんだ。私には出来ない。こんな醜い気持ちを抱えたまま、あんなに綺麗に笑えない。

 嗚呼、もう。



「……あの子みたいに、きれいなままでいたかった」



 情けないこの状況を言い訳するように吐き出した言葉は思っていた以上の重さで空気を震わせた。

 こんなこと言われても、困るだけだ。聞き流すには重過ぎる。すぐさまそう思ったと同時にぴくりと動いた手の振動をを直に感じた。慌てて更に言い訳を重ねようと口を開いた私よりも先に声が出たのはその手の持ち主だった。


「お前はきれいだよ」


 言い訳の言葉を紡ごうとした唇が震えた。


「お前はただ恋をしているだけだろ。その気持ちに汚いも汚れたもない。努力しているお前も一生懸命あいつを追いかけるお前も嫉妬しているお前も、きれいなままだ」

「な、ぐさめてんの……?」

「黙ればか。じゃあお前はあいつを好きになったこと後悔してんの?」

「してないっ」

「……ほら、そんな真っ直ぐな気持ち、どこが汚いんだ」


 囁くような音色は陳腐な台詞のくせに、私のどろどろとした気持ちにいとも簡単に染み込んでいく。汚くない? ほんとう? 私のこの恋心は汚れてない?

 込み上げてくる感情はゆっくりと糸が解けてどろどろは溶けていき、黒かったはずのそれは透明な液体になった。手が濡れていく感触がするだろうに、まだ私の目を覆ってくれたその腕に縋り付いて、嗚咽を零す。


 好きなの、好きなの。どうしようもなく好きで、自然と目が追っかけて。だから周りに隠れてこっそりと見た彼が、周りに隠れてこっそりと彼女を見ていることにすぐに気付いたの。一番に気付いたの。私に笑いかけてくれていた笑顔じゃない、はにかんだ笑顔を真正面から見ることが出来るなら、私なんでもするのに。でも彼は私じゃない、彼女を選んだ。

 それで納得出来るなら、こんなに苦しんでいない。


 躊躇いがちに私の頭を撫でるその手は彼のものじゃない。そう思う私がきれいなら、いつかはこの気持ちも美しい思い出に出来るのだろうか。


 深緑の風は私の嗚咽をゆるりを撫ぜて、掻き消してくれた。
















【birthstone:colorless spinel】
【意味:純真】



(誕生石企画より)



 


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -