絶対的存在
夏休み六日目。わたしは大きな荷物と共に京都へとやってきていた。結局聞けずじまいだったあの人の名は禪院直哉というらしい。母から聞いたのか、彼はわたしの連絡先を入手していたようで、メッセージに位置情報だけが送られてきた。どうやらそこが禪院家の屋敷らしく、暗に京都へと来いと言っているのだ。
行きなさいと言う母に嫌だ行きたくないとごねにごねていたのだが、夏休み五日目に彼から電話がかかってきたことによりわたしは京都行きを余儀なくされた。
「暑い……」
強い日差しに顔を顰めながら歩くこと十数分。日傘を差していてもじりじりと焼けるような暑さが肌を蝕んでいる。タクシーにでも乗ればよかったかと後悔したが、後の祭りである。ようやく辿り着いたそこは、想像の三倍は大きい屋敷であった。
「うわぁ……」
思わず引きつった声が出た。なんというかこう、格式高いという表現が似合う雰囲気がある。今日からここに泊まるのかと思うと気が重い。今まで何の思い入れもなかった自宅が恋しい。門の前でしばらく逡巡していると、突然背後から声がかかった。
「名前ちゃん?そんなとこで何してん」
振り返るとそこにいたのは、声から予想していた通り、数日ぶりに会う禪院直哉さんだった。
「……こんにちは」
嫌なところを見られたなと思いつつ一応ぺこりと頭を下げると、彼は満足気に頷いて「女の子はしおらしいんが一番やな」と笑った。わたしは好みのタイプの話か?と戸惑いつつも愛想笑いを返した。
「荷物持ったるからはよ中入り。今日暑いやろ」
「あ、ありがとうございます」
直哉さんはわたしが持っていたキャリーケースをさりげなく受け取ると門をくぐった。身軽になったことに喜びを覚えながらも、わたしは慌てて彼の後を追った。
「この部屋、好きに使ってええから」
そう言って通されたのは、これまた自宅の部屋の三倍はあるかと思われるだだっ広い部屋だった。畳張りの和室で、良い旅館の部屋と言われても納得である。
「広……」
思わず感嘆を漏らすと「俺の部屋この二倍はあるで」と彼が平然と言ってのけた。こんなところにいたら感覚が狂ってしまいそうだ。
「……禪院家ってお金持ちなんですね」
正直な感想を述べたわたしに直哉さんはふはっと吹き出した。怪訝な目を向けると彼は楽しそうに口角をあげる。
「いや〜名前ちゃんほんまおもろいな」
「何がですか……」
彼のツボはよく分からない。わたしの悲痛な呟きをスルーした彼は荷物を部屋に置き切ると、「次こっち」とスタスタ歩いて行ってしまう。万が一ここではぐれてしまったら二度と同じところには戻ってこれない気がする。広いところを舐めてはいけないのだ。
「ま、待ってください……!」
向けられた背中に声をかけると、ピタリと足が止まる。それによりようやく追い付いたわたしを一瞥して、直哉さんは眉間に皺を寄せた。
「君の三歩はそない大きいんかな?」
「散歩?」
「……いや、ええわ。はよ来ぃ」
首を捻るわたしに直哉さんは何かを諦めたのか、先程よりもゆっくりと、わたしの歩幅に合わせて再び歩き出した。嫌味か何かだったのだろうか。京都の人は難しい。
あらかた部屋を案内され、与えられた部屋に戻ってきたのは三十分後のことであった。ひとつの歴史的建造物を巡ったような感覚だ。修学旅行を彷彿とさせた。何とかお手洗いなどの必要最低限の場所は覚えたが、他は正直自信がない。
直哉さんに「晩御飯の後、家の者紹介したるわ」と言われ、わたしは自室で束の間の休息を取っていた。荷物を開きながら今後のことを考えて思わずため息が出た。夏休み中会う約束をしていた友人に、親戚のところへ行くと嘘をついたことが思い出される。いや、あながち嘘でもないのだが、直哉さんのことを考えるとそんな生易しいものではないと嫌でも勘づいていた。
事故に遭ってから何度も聞かされた「呪術」という言葉。未だに実感がなく、どこか他人事のように感じるのだ。直哉さんはここでわたしに何をさせようとしているのだろう。
「はぁ、気が重い」
ぽつりと零した独り言はだだっ広い部屋に吸い込まれるように消えた。
*
「というわけで、君には呪術について勉強してもらうで」
「勉強?」
この屋敷に住んでいる人達との顔合わせを終え、わたしは再び自室へと戻ってきていた。直哉さんの紹介だからなのかは分からないが、母から聞いていたような雰囲気ではなく、わたしは心底安心した。これなら何とかなるかもしれないと思っていたのだが、何故か部屋まで付いてきた直哉さんの発言によってその希望は折れてしまった。
彼の口から飛び出したのは、一週間ほど前まで学校で嫌というほど聞いた「勉強」という言葉であった。術式を使えとかそういうことを想像していたわたしは、怪訝な顔をして聞き返した。
「そう。君がしたがっとった勉強や」
「なっ……」
「勉強がしたい言うお嬢さんへの粋な気遣いやで」
ウインクでも飛ばしてきそうな様子で彼が笑う。残念ながらわたしはちっとも笑えないが。
「わたしが言ってるのは大学に行きたいって話で!」
「勉強せな大学には入られへんやろ?それとも裏口入学でもするん?」
「ちがっ、そうじゃなくて!」
「ひとつ良いこと教えといたるわ」
直哉さんはびしっと人差し指をわたしの前に突き出した。
「この家で俺に逆らったら生きていかれへん」
切れ長の目がわたしを鋭く射抜く。わたしは思わず自分の手を握りしめた。ここでは彼の言うことが絶対なのだ。ここに来た時点でわたしの命は彼に握られてしまっているも同然だろう。彼の活殺自在だ。
「分かった?俺の言うことちゃんと聞けるよな?」
黙りこくったわたしに直哉さんはにこりと笑みを浮かべた。ここで逆らうほどわたしは馬鹿ではない。不本意ながらもこくりと頷くと、彼は「ええ子やな」と言ってわたしの頭を撫でた。その手つきはひどく優しいけれど、彼が今何を考えているのかわたしにはさっぱり分からず、ただされるがままでいた。