夜道



静まり返った廊下を、できるだけ音を立てないように歩く。ギリギリ外に出られそうな部屋着にパーカーを一枚羽織っただけの格好だが、散歩を兼ねて最寄りのコンビニに行くだけなら十分である。

時刻は午前一時。明日も平日だというのに、睡眠を取らずこんなことをしている理由は至極単純で、眠れなかったのである。こんなときには、無理に寝よう寝ようとするべきではないと何かの記事で読んだことがある。それを思い出した私は早々に睡眠を諦めたのだ。

眠れない夜をどう過ごすか考えた末、丁度アイスクリームが食べたかったこともあり、私はコンビニへ向かうことを決めた。難関である寮内を突破した後、誰にも見つかりませんように、と祈りながら石畳を進む。しかし、どうやら神様は私を嫌っているらしい。少し離れたところに人影が現れた。さらに不幸なことに、このシルエットには見覚えがある。

「何してんだ、こんな時間に」

呪術高専に進学してからおよそ一ヶ月、聞き慣れてきた低い声が空気を震わせた。虫の声と風のそよめきが占領するこの場所では、遠くからの声も良く聞こえる。返事をする前にゆらりと影が揺れてこちらへと近づいた。

「……伏黒」

私の小さな呼び掛けに彼は足を止めた。黒いスウェットの上下に身を包んだ彼は闇に溶け込んで、表情まで窺うことができない。どことなく怒っているように感じるのは、私が深夜の外出に背徳感を抱いているからだろうか。

「何してんだ」

繰り返された言葉に、これは気のせいではないなと私は観念した。間違いなく伏黒は怒っている。彼でなくとも、私の周りの過保護な人達はこの時間帯に女が独りで外を歩くことを咎めるだろうけど。

「伏黒こそ、何してるの」
「買い物に行ってた」
「そうなんだ」
「そっちは」
「私も買い物に行こうと思って」
「今から?」

立ち止まった伏黒の方へと近づく。すると、上手く躱してしまいたいという私の心を読んだかのように、彼の手が私の腕に伸びた。これでは逃げようにも逃げられない。もっとも、私が逃げたところで、伏黒にとってはさしたる問題でもないことは想像に容易いのだが。

「今何時か知らねぇのか」

まずいな、と他人事のように思った。普段通り冷静だった伏黒の声に少しの苛立ちが混ざった。まだ知り合って長くはないが、このくらいの変化なら私にでもわかる。綺麗な顔の眉間に皺が寄ったのを見て、見慣れているはずなのにほんのちょっとだけ罪悪感が生まれた。

「知ってる、けど」
「危ねぇだろ。明日にしろ」
「大丈夫だよ、すぐだし」

切長の目が静かな怒りを含んでこちらを見ている。悔しいほどに長い睫毛が白い肌に落とす影まで分かるくらい、至近距離で。そのくせ、逃げられないようにと捕まえられた右手首にはほとんど力が入れられていない。

「心配するほどのことじゃないって」
「何かあってからじゃ遅いだろ」
「……でも、アイス、食べたいし」

その一言で、伏黒の纏う空気が変わった。ちら、と上目遣いで見やれば、彼は目を丸くして固まっている。そして、はぁ、と深いため息が落とされた。

「バニラでいいだろ」

そう言って伏黒が片手に提げていたビニール袋を掲げる。そういえば買い物帰りだと言っていたっけ、と場違いなことを思い出した。最近暖かくなってきているから、溶けてないといいんだけど。

「伏黒って最高だね」
「調子の良い奴」

ヘラッと笑った私に、伏黒は呆れたように首を振った。そして、手首を掴んでいた手が離れたかと思うと、何故か手が繋ぎ直される。驚いて彼の顔を凝視するも、何処吹く風だ。

「何、この手」
「逃走防止」
「何それ、別に逃げないよ」
「信じられねぇから嫌だ」

珍しく悪戯っぽい言い方に思わず頬が緩んだ。何笑ってんだ、と不服そうな伏黒に、私はにこりと笑顔を向ける。

「なんでもない」

こちらに視線を向けた彼は何とも言えぬ顔をして私の手を引いた。

「食べたら寝ろよ」
「うん、分かってる」

その手が随分と温かかったことを、私はきっと忘れられないだろう。



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