名前の泣きそうな顔を見て、思わず勢いで抱きしめてしまったあと、名前は今回は行かない、と言った。分かった、なんて冷静を装って返したものの、内心かなりほっとしていた。不安定になっている名前を行かせたくなかったのだ。
土方さんにその事を伝えると、お前が言わなかったら俺が言おうと思っていた、と言われた。俺が言う前提かよ、と少し思ったが口には出さなかった。土方のヤローは俺が名前に惹かれていたことに気がついていたのかもしれない。
俺は初めて会った時から名字名前という人間に興味があった。細くて小さくて一見弱そうなのに、実はそうではない。いつの間にか、自然と名前を目で追うようになっていた。名前から目が離せなくなっていた。
もっとも、これが恋だと気づいたのは皮肉にも今日のことなのだが。本当に、いつの間にか好きになっていたのだ。いや、案外最初からだったのかもしれない。一目惚れ、なんてものだったのかもしれない。本当のところは、よく分からないけれど。
▽
名前のことを考えながら歩いていると、道場の門らしきものが見え出した。時は夜。道場からは喧しい騒ぎ声が聞こえてくる。しかし、今から此処は血の海となるだろう。何人か残し、拷問でもして親玉を吐かせてしまえば終わりだ。
名前曰く、道場の人達は捕えられているらしい。天人如きに負けるわけがないから、だそうだ。俺達のやるべきことは、人質となっているであろう道場に居る人達の解放と、天人の粛清。早く名前に良い報告をしてやりたい。大丈夫だった、無事だった、と。
しかし、そんな意気込みは道場に足を踏み入れた瞬間、全く意味をなさないものへと変わってしまった。
「……は?」
俺の素っ頓狂な声だけが、誰も居ない部屋に響いた。なぜなら、たむろしているはずの天人が何処にもいないのだ。
「……あの騒がしい音はこのスピーカーから流れてたってことか?」
俺が唖然としていると、いつの間にか横にいた土方さんがぽつりと呟いた。土方さんの目線を追うと、そこには大きなスピーカーが門に近いところにある窓に向かって置かれていた。あぁ、そういうことか。既に天人達は逃げた後ということか。
「っくそ!」
その事を理解した途端、行き場のない怒りが俺を支配した。天人が逃げただけならまだ良い。だが、元々此処に居た人達は一体何処へ行ったというのだ。捕らえられているはずじゃなかったのか。
「落ち着け、総悟」
思わず、ぎりっと奥歯を噛んだ俺を土方さんが嗜めた。
「あいつらの情報は常に山崎が探ってる。機会は今回だけじゃねェよ」
今回だけじゃない。そんなことくらい、頭では分かっている。
「なら、あいつの家族はどうなるんですかィ」
土方さんとて俺と同じ思いであることくらい分かっている。しかし、誰かに噛みつかずにはいられなかった。
「このザマじゃ生きてるのかも分からねェ!名前になんて伝えればいいんでさァ!?」
久しぶりに大声を出したからか、喉に痛みが走った。肩で息をしながら土方を睨みつけると、気まずそうに目を逸らされた。俺だって知っている。再捜索には時間がかかることくらい。いくら山崎が優秀な監察だとしても、今すぐに逃げた先を探すことは不可能だ。
俺は深く息を吸い込んで、抜いたままだった刀を鞘に収めた。
「……取り乱しやした。帰りやしょう」
焦ってはいけない。何としてでも見つけなければ。いや、その前に名前に謝ろう。
お前の大切な人を守れなくてごめん、って。
▽
隊長達が帰ってきたのは十時を回った頃だった。玄関まで出迎えに行くと、とある違和感に気がついた。血の匂いがしないのだ。皆には重い雰囲気が漂っていた。誰も私と目を合わせようとしない。何か良くないことがあったのだろうか。いや、皆口にしないが、きっとそういうことなんだろう。
土方さんは私の横を通り過ぎる時に、悪い、とだけ呟いた。土方さんが謝るなんて、滅多にない。何か良くないことが起きたのだろうか。土方さんの謝罪は、私の結果を聞く勇気を少し削った。
行っていない分、余計に結果を知るのが怖い。でも、逃げていては駄目だ。
「あの、隊長。どう、なったの……?」
皆が部屋へ戻っても尚、その場から動かなかった隊長に私は意を決して尋ねた。きっと隊長だけが此処に残ったのは、私が少しでも話を聞きやすくなるように、という土方さんの優しい配慮だと思ったから。隊長は私の問いに顔を上げて、こちらをまっすぐ見つめた。
「……天人も、お前の師匠らしき人達も、誰一人として居なかったんでさァ」
隊長は私の言葉から少し間を置いて、そう言った。いつもと変わらない声色だというのに、何故か隊長が悲しんでいるように聞こえた。
「そっか。皆、逃げたのかなぁ……」
私の呟きに隊長は答えなかった。当然である。皆が逃げたという可能性はなくはないが、かなり少ないだろう。隊長は私に嘘は吐かないのだ。だけど、だけど今は、嘘でもいいから肯定して欲しかった。
▽
いつの間にか降り出した雨が屋根を叩き出した。灰色の空は思い気分をよりいっそう重くする。私は頭が混乱したままであるものの、眠りにつこうと努力していた。
しかし、考えないようにしても考えてしまう師匠達のことが邪魔をして、いつもの何倍も目が冴えてしまっていた。気持ちを落ち着かせたい。そんな思いで私は寝門着から道着に着替え、屯所の隅にある道場へ向かった。
電気をつける気にもならず、月明かりを入れる為に全ての扉を開け放った。空を埋め尽くす雨雲が月を覆っているせいか、いつもより月光は弱い。
けれど、それが何となく心地良かった。淡い光が磨かれた床に反射してきらきらしている。もの寂しいながらにもどこか美しさを感じる光景を横目に、私は竹刀をとった。
一度深く息を吸い込んで、手のひらに力を込める。目に見えない敵を睨みつけるように鋭く目を開き、竹刀を振り下げた。的確に相手の急所をつきつつ、自分の身を守るように。無駄な動きを全て無くし、感情を殺して。
迷えば人を生かすことも殺すこともできない。
師匠が私達によく言っていた言葉だった。迷っていては人を守ることなんて出来やしない。だけど、人斬り風情が一体何を守るというのだろうか。こんなこと、所詮は綺麗事だ。
それでも、綺麗事だとしても別にいい。私は私が信じたいことを信じる。
だから、師匠達は生きているし、私は誰か大切な人を守ることが出来る。絶対大丈夫。私には隊長だってついている。
ぱしん、とキレの良い音が道場に響いた。ふぅ、と息を吐き出すと、少し気持ちが楽になったのを感じる。明日からはちゃんとしよう、あの天人らを見つけたという報告が入ったら次は私も討ち入りに参加しよう、と心に決めた。