モノフォビアの妄執 | ナノ
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第3話


長い夢を見ているような感覚。ああこれは夢だと理解すると段々と意識が覚醒していく。
胸を締め付けられるような何かを見ていたはずなのに、眼が覚めると何も覚えていないという事が良くある。


「おはよう、黒百合」


ゆっくりと瞼を開けた黒百合の視界に見慣れた天井がぼんやりと映り込むと、それを遮るように目元を布で覆った男がひょっこりと入ってきた。
彼女の顔を覗き込むようにして、そうして口角を上げて起き抜けの彼女に挨拶をすると黒百合は2、3度瞬きを繰り返す。


「さとる…」
「うん」


覚醒したばかりで喉が渇いて、掠れ気味の声が喉から発せられると黒百合は若干顔をしかめた。喉の感覚が不愉快そうに咳払いをしてそうして五条の顔をぼんやりと眺める。
四方が札で囲まれた窓もない黒百合に与えられた部屋。居心地が良いはずのこの空間にどこか違和感を感じて黒百合は記憶の糸を手繰り寄せる。
私は何をしていたのだっけ……


「…あ、」


そうして眠る前の黒百合が直前の出来事を思い出すと、目を大きく見開きその瞳にじわじわと涙が浮かび始めた。
キッと五条を睨み上げてポロリと雫が表面張力を越えて溢れていく。そんな様子を笑みを浮かべたまま見下ろす五条を黒百合は殴り付けたい気持ちだった。でも、泣き顔を見られたくなくて振り上げたその手は五条を殴るためではなく自分の顔を覆い隠す事を選択した。


「馬鹿!悟!馬鹿!嫌い!!」
「うん、ごめんごめん」


黒百合の叫んだ単語に朗らかに笑って五条はその頭を撫でつける。軽薄なこの男が黒百合は嫌いだった。絶対悪いと思っていない謝罪の言葉に何の意味があるのか。黒百合にとってそんな安い台詞は不必要で五条に向ける悪態が増えるだけだった。
けど、黒百合が吐く悪口はそんなにボキャブラリーが多くない。繰り返すように馬鹿、酷い、嫌いと口にする彼女に五条は変わらず「うん、ごめん」と軽い謝罪を口にする。
あの場で傍観に徹した五条が憎かった。黒百合の呪いがいつどうやって発動するか、それを抑えるためにどうすればいいか、それらを黒百合以上に良く理解しているはずの五条が、何もせず何も言わずに見ていることを選択した。久しぶりだけど元気そうだね≠の時五条はそう言ったが、あれは黒百合に向けられた言葉ではない。黒百合の中の犬神に向けて言われた言葉であった。
それを理解した時黒百合を占めた気持ちは殺伐とした絶望だった。
今この場で助けてくれるだろう五条に突き放されたと分かって、自分でどうにかしないといけないのだと心臓が忙しなく脈打った。出来るだろうか自分に。上手くできたことなどないのに。
過ぎった不安が数年前の出来事を鮮明に思い出させて黒百合の足がすくんだ。
化け物だと蔑まれるのはもう嫌だ。誰かを傷つけたいなんて思ったことはないし、自分自身が傷付きたくなかった。
けれど、上手く口が回らないほど焦っていた頭では説得力のある言葉など口から出てこなくて、ピリピリとした空気に犬神が反応してしまった。
犬の反射速度に人間がついていけるわけがない。しかも呪いが繰り出す不意打ちに。まずい、と思った時には白児の名前を呼んでいた。
彼女の中ではずっと警鐘が鳴っていたのだ――得体の知れない呪い、折本里香を見てから。

結果として真希を傷付ける事は防いだが、その代わりに象牙の犬を切り裂いてしまった。

ますます警戒されて空気が悪くなる場に黒百合はじわじわと追い詰められていく感覚だった。
助けてよ悟、なんで何もしてくれないの。叫びたいのに喉からは上手く言葉が出てこなくて黒百合はただ必死に「やめて」と口にする。
身動きすらも封じられて、逃げることも出来なければ象牙の犬に駆け寄ることも出来ない。それでも黒百合の心情に呼応するかのように犬神が反応するのだから動けない彼女は白児を動かすしか無かった。
自分のせいで真っ赤に染まっていく象牙の毛並みを見て耐え切れない思いが溢れて落ちる。

もうやめてほしい、やめてくれないならやめさせてほしい。

いっそ首でも切り落としてくれれば良いのにと懇願した言葉を五条はようやく聞き入れた。
強すぎる呪詛は、黒百合に向けられる敵意と黒百合の心情に呼応して反応する。そうして数年前に同級生を傷付けてしまった事を黒百合はずっと悔いていた。
何よりも再び恐怖のこもった目で見られる事に耐えられない。数分前まで笑いあっていた友人に化け物だと泣き叫ばれて拒絶されてしまうのは彼女にとって大きな傷となっていた。


「もう、死にたい…っ」


ボロボロと涙を流して苦痛に塗れた声で黒百合がそう吐き出した。
軽薄なこの男が嫌いで、あの場で傍観していた五条が憎かった。それでも一番嫌なのは、壊すことしか出来ない自分自身だ。


「僕は黒百合に生きていてほしいけどな」


五条はそう言いながら目元を覆った黒百合の手を掴み、その顔を覗き込んだ。真っ赤に腫らした目が涙で濡れながらも五条をきつく睨みあげていた。
撫でてくれる五条の手が黒百合は好きだ、何だかんだ構ってくれる五条を嫌いになりきれない。
それでも黒百合は五条悟を許しきれない。


「…悟、私が後ろにいたの気付いてたでしょ」
「あ、バレてた?」


仏堂に向かっていた一同の背後から黒百合は現れた。黒百合自身は五条の存在しか目視せず気付いていなかったけど、五条程の男が背後にいた黒百合の存在に気が付かないわけがない。
それでもわざとらしい演技で誤って対峙してしまったという風に取り繕った五条を黒百合は解せずいた。
何の意図があったのか、全く理解が出来なかった。


「でもほら、これで分かったでしょ?」


ボロボロと溢れる雫をそっと指で払いながら五条は首を傾げて黒百合に諭すように続ける。


「誰も死ななかった。黒百合を止める事ができる生徒だっているんだ。中学の時とは違う、僕の教え子はみんな優秀だよ」


傷付いて傷付ける事を恐れている黒百合は好んで札の部屋に引きこもっているが、これでは解決策とはならない。一人ぼっちが本当は嫌いで外に憧れているのに臆病すぎて閉篭もるのはさながら怯えた犬そのものだった。


「一生をここで過ごす訳にはいかないでしょ?黒百合は犬神のコントロールを身につけるためにも高専で呪いを学ぶべきだ」


そうしたら白児を盾にすることもきっとなくなるよ。
そう続けた五条に黒百合はゆっくりと体を起こした。ガオは、と聞かなくても自分の影の中にいるのが感じて取れて安堵の息をつく。出てこない所を見ると怪我が深いのだろうけど、影の中に戻れたのであれば犬神の手中内だ、問題はないだろう。
体を起こすと黒い着物が少し着崩れしていて、それを適当に直しながら考える。――涙はもう止まっていた。
同じような台詞を先日も向けられた。それでも尚、一歩を踏み出さない黒百合におそらく痺れを切らしたのだろう。にしては少々手荒すぎてやはり五条が嫌いだとぼんやりと思った。


「全部悟の思惑通り?」


吹き飛ばしてしまった男の子には悪い事をしたと思う。得体の知れない呪いと目が合った瞬間全身の怪我逆立つ様な感覚に陥って、次には犬神が行動を起こしていた。やばいと思う余裕もなかったから、後手後手に回ってしまい申し訳なかった。
そして彼とは別に相対することになった2人の男女を思い出して黒百合は身震いをする。
完全に向けられていた敵視の視線、ピリピリと肌を刺す空気が何よりも警戒と拒絶を物語っていた。
あんな風に対峙させられてきっと嫌な思いをさせたに違いない。


「概ね、かな」


口元ににんまりとした笑みを乗せて五条がそう言う。反射的にべしべしと彼の肩を殴れば「痛い痛い」と愉快そうに彼はまた笑う。
五条の能力ならば、黒百合の拳を拒絶することも出来るのに、そうしないで甘んじて受けるところがまた腹が立った。
そうして何発か黒百合の拳を受けると、五条は徐にその腕をそっと掴み、手の甲をするするとくすぐる様に撫でる。


「お膳立てはしたんだから、我儘はもういいでしょう?」
「けど…」


外はここと違う。札で押さえ込まれていない以上、自分の意志とは無関係に犬神が牙を剥く恐れがあった。
だから黒百合が任務に当たる時は黒百合に理解があり且つ暴走を止められる実力のある呪術師同伴となっていた。ともすれば、自然と階級も上の術師となってしまうが、万年人手不足の呪術界では保護者として上級の呪術師を黒百合に割き続ける訳にもいかない。
だから手荒ではあったが五条は自分の生徒達を試したのだ。


「棘」


五条がそう小さく呟くと、彼の背後――外に繋がる出入り口から人影が部屋へと入ってきた。
突然のことに黒百合は驚き体を跳ねさせるが、それを大丈夫だと言うように五条は触れていた手を緩く握る。
色素の薄い髪色をした男の子。黒い服装で身を包みその口元をネックウォーマーで覆い隠していた彼は気怠げな目を黒百合に向けた。
五条の背後に佇む様に足を止めて服のポケットに両手を突っ込んでいる。そんな彼は黒百合と目が合ったまま「こんぶ」と一言口にする。
その言葉の意味が分からず黒百合は視線をそろそろと五条に動かした。
五条はどこか楽しげにしながら黒百合の手をようやく離した。


「狗巻棘…呪言師なんだ。黒百合、意識を失う前の事、覚えてる?」
「呪言師……」


五条の言葉を反射的に呟きながら言われたとおり意識を手放す前の自身の記憶を繋ぎ合わせる。
体を見えない力で拘束されて、象牙の犬は血だらけになり逃げることも叶わなかった。それでも警戒を解かない周りに自分の中の犬神がいつ動くか分からずただただ怖くて五条に懇願したのだ。
そうして鼓膜を揺らしたのは眠れ≠ニいう言葉だった。あれは……そうか、あれが、


「そう、棘の呪言」


ハッとした様子の黒百合を肯定する様に五条が掬う。
合点がいった黒百合が恐る恐るといった様子で棘に視線を滑らせば棘は変わらず黒百合を見ていた。
顔のほぼ下半分がネックウォーマーによって隠されていて感情というものが表情から読み取ることが出来ない。五条も目元を布で隠しているから読み取りにくい時があるけど、軽薄なこの男は感情を隠すということをあまりしなかった。
だから黒百合には目の前に突っ立ってじっとこちらを見下ろし一言も発さない棘にどこか緊張をしてしまう。
ただでさえ同年代と相対するのは久しぶりなのに。


「あの、ありがとう…止めてくれて…」


沈黙に耐えれず黒百合が先にそう話しかけると棘の目が揺らいだ気がした。


「明太子」
「めんたいこ…?」


そうして脈略なく意図の読めない言葉を紡いだ棘に黒百合が困惑に首を傾げると、五条がぶはっと噴出するように笑った。
その様子に棘の伏し目がちな瞳が五条を捉えて、若干顔が顰められるのが黒百合には見えた。そのまま棘は黒百合のすぐ目の前、五条の横に立つと五条に向かって「ツナマヨ」と言葉を吐く。ごめんごめんと相変わらず謝罪に聞こえない謝罪を五条は口にした。


「棘は語彙がおにぎりの具しかないから大変だろうけど会話頑張って」
「え……」


なんて事はないと言いたげな彼に黒百合は盛大に困惑した。意思疎通を図る為の言葉がおにぎりの具とはいかに。そんな表情が見て取れて棘は「すーじーこー」と低く唸る。
まるで苛ついているような声に黒百合がビクリと体をビクつかせるとすかさず五条が彼女の頭を撫でる。


「呪言だからね、言葉に呪いが込められるから棘は普段意味をなさない言葉で会話してるんだよ」


それがおにぎりの具なのだ、と続ける五条に何となく腑に落ちて「そうなんだ…」と棘を見上げると、棘はチラリと黒百合を見てからふいっと五条の頭に視線をやる…と、ぱしりと黒百合の頭を撫でる五条の手を放ち落とした。


「え、なに棘、突然」
「おかか」
「セクハラだって?この僕が?」


女の子には困ってないんだけど、とケラケラと笑う五条に棘はそういう問題ではないだろうと再び「おかか」と口にした。
そんな2人のやり取りを眺めている黒百合は呆然とした様子で口がぽかんと開いていた。
純粋に五条と棘が会話を成り立たせているのが驚きで、黒百合の耳にはおにぎりの具としてしか聞こえてこないので、平然としている五条をただ眺めるだけだった。


「まーこれで黒百合も良く分かったでしょ」


不意に会話を振られて黒百合は目をパチクリとさせた。


「棘の呪言なら黒百合の抑止になる」


物理的な抑制は一時的に止められとしてもあまり意味はなさない。外傷的に止めるならばそれこそ黒百合を殺す勢いでやらないと犬神の意識をそらすことに成功はしないのだ。しないのだが、リスクは大きく見返りは小さい。半端な力では返り討ちになるのが目に見えている。
それが、狗巻棘の呪言ならば確実に黒百合を止めることが出来るのだ。

そう言われて黒百合はぐっと眉を寄せて顔を歪めた。
本当にお膳立てだと思った。此処を出る為の理由も保険も提示されて黒百合は返す言葉を失った。
あとはもう黒百合自身の問題だった。此処を出たい、でも出るのは怖い。もう傷付けたくないし傷付きたくない。だから此処を出たくない。
矛盾した感情が頭の中で葛藤してああでもないこうでもないと揺さぶってやまない。

そうやって視線が揺らいだ黒百合の目の前で、立ったままだった棘がしゃがみ込んだ。同じ目線になった彼に自然と視線を向けると棘はゆっくりと自身の手のひらをこちらに差し出してくる。


「いくら」


その言動に困惑したのは間違いなく黒百合で、なんと言われているのか分からない上にどうしていいかも分からない。
いくらを寄越せと言われているような気分だったが、いくらなど持ってはいないし話の流れ的にカツアゲされている訳でもないだろう。
困惑してどうして良いのか分からずじまいだった黒百合に棘は少しの沈黙の後、その手を下ろしてしまった。そんな様子を見て五条がくつくつと笑っているところ、おそらく五条には意味が伝わっていたのだろう。教えてくれないから彼は本当に人が悪い。