第2話
――数年前
「ならん!!」
大きく叫ばれた声が金切り声の様に耳に響きキーンとして、五条は思わず耳を塞いだ。
顔を真っ赤に染め上げて肩を震わせて息を乱す老人はどこからどう見ても激怒している様子だった。
茹で蛸の様だという表現はこの老人をおそらく指すのだろうなと呑気に構えながら五条は抑えていた手を離しぷらぷらと振るう。
その飄々とした姿に老人達がまた怒りに震えるのを五条は分かっていた。それをわざと煽る様にするのは、この上層部の老いぼれ共が古臭い考えに囚われて保身に走ってばかりだったからだ。
剥き出しにこそしていないが、五条も腹に据えかねる思いだった。
「祓うべき対象を保護などと…任務を放棄しておきながらこの期に及んで呪術師にさせるなどと…!」
「勝手が過ぎるぞ 五条悟」
矢継ぎに吐かれる言葉達に少女という個人は存在していなかった。そこに重きを置かれていたのは対象の呪いがどんなものであるか。
呪術の全盛期である頃に人の手によって作られた呪詛犬神。千年の時を越えても今なお祓われず現存しているその呪いは強力で、当時の呪術師の手を掻い潜り現代にまで生き続けている。
犬神は人の手によって作られ、人を介さなければ呪いを撒くことができない。そしてこの犬神が媒体とされる依童に幼い少女が選ばれていた。
その身に呪いを宿し、自身に繁栄をもたらし敵とみなしたものを破滅へと追い込む呪詛。
「憑き物筋の忌み血など、呪術師として使えはせん――」
「犬神が大人しくしている間に祓うべきだ」
臭いものに蓋をして、見えないものは無いものに。
そうやって目を逸らして呪いを吐き捨てようとする。犠牲となるのが何か、彼等は分かっているはずなのに。
「まだ幼い子供ですよ」
「だから、今≠セろう」
まだ力が安定しておらずいつ暴走するか分からない。五条の言葉にすかさず返して、男は深く長いため息を吐いた。
撒かれた呪いの歪さは呪いそのものを見ればよく分かる。
少女が背負うその呪詛は伊達に幾百の時を越えてはいない。時代が移ろってもなお褪せることなく濃くなる怨みというのは、当時にどれ程の負が込められたのか想像するだけで恐ろしくもあった。
その依童がまだ子供ならば好機。千年前の呪術師が祓えなかった犬神も今ならおそらく祓えるだろうと考えた。最強の呪術師と名高い五条悟ならば…
そんな老人達の考えが見て取れて五条は抑え込んでいた怒りを拳を握り締めることでどうにか潜める。
楯突くのは簡単だ、力を行使するのだって簡単だ。でもそれでは意味を成さない。
少女を人間らしく扱い生かしてやりたい。そんな些細な願いを叶えるためには弊害が多すぎる。
まだ何も知らない無垢な少女を、選択を与えないまま大人の保身で殺してしまうのはあんまりだった。
少女の手は、まだあんなにも小さいのに……
五条は目の前の老人達の首を縦に振らせる為に納得できる言葉を選びながらゆっくりと口を開いた――
*
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――そして現在。
乙骨憂太を交えて1年生は現4人着席している教室で教壇に立って五条はうんうんと頷いた。
ホームルームを始めると教室に入ってきた彼は、教壇の机に手をバシンと音を立てて置くと特に何も発することなく、それでも何かを肯定する様に頷きながら各生徒の顔を眺めている。
そんな五条の様子に気味悪がった1年生諸君を代表して禪院真希が「何ニヤニヤしてんだよ」と口火を切った。
呪具使いの禪院真希、呪言師の狗巻棘、呪骸のパンダ、そして被呪者乙骨憂太。中々に個性的なメンツで色濃い生徒達に教員である五条悟はどこか楽しげだった。
憂太が転入して数日が経つ、彼も新しい環境に慣れ始めつつある今、他の3人も憂太に慣れてきている。
――頃合いだろう、おそらく今だ
順応高く馴染み始めた彼等にもう1人を迎え入れて欲しかった。それは、彼女自身の意思ではないし上層部の指針でもない。預かり受ける呪いが1人増えたところで五条は大したことがないが上は違う。管理して使役したいと考えている老いぼれの言うことをみすみす聞いてなど五条はしない。
これは彼の我儘でもある。
「5人目、迎えに行こうか!」
溌剌と高く述べた五条に正に三者三様に表情が変わる。そんな教え子達に素直でよろしいと思いながら五条はにこやかに続ける。
「まあ、正しく言うなら4人目だね。本来なら入学から在籍してる子だから、転校生の憂太が5人目になる」
「一度も見たことないぞ」
五条の言葉に首を傾げながらパンダがそう口を開いた。
「なあ?」と真希や棘に同意を求めれば2人もコクリと頷く。
転校生である乙骨憂太よりも先に――それも入学当初からいるのであれば真希、棘、パンダの3人が顔見知りのはずである。だがそんな生徒は見かけたことがないし、全寮制である高専で出くわさずに今日まで来たと言うのも難しいのではないだろうか。
そんな疑問を浮かべているだろう諸々に「だから迎えに行くんだって」と五条は再度口にした。
そして続ける。
「入学当初から登校拒否だからね」
「はぁ?」
「ちょっとした理由で高専には数年前から住んでるんだけど、まぁ拗らせちゃって」
登校拒否という言葉に驚きと嫌悪が混ざった声で真希が反応した。それを無視して五条は尚も続ける。
でも仕事はしてるから呪術師としての経験は此処にいる誰よりも先輩だと思うよ。
「そこそこ強いし」
なんて事はないと朗らかに告げたその一言に憂太を除いて3人の生徒達がピクリと反応をした。
ピリついた空気を感じ取って憂太が困惑に声を漏らせば、全てを汲んだ五条が嗤う。
あの′ワ条悟がふざけ半分な態度であろうと強いと口にしたのだ。特級という数える程しか存在しない階級を持ち自他共に認める最強の呪術師。そんな男が評価した不登校生に興味が沸かないわけがなかった。
パン!と軽快な音を立てて五条は両手を打った。高く響いた音に教室内の注目を集め「ってことで!」と半ば無理矢理に話題を最初は戻す。
姿を見たことがない故に不審がっていた面々も五条の何気無い一言でまだ見ぬクラスメイトに興味を沸かせることが出来た。そういうところで五条は自分の価値を分かっていたし、何より生徒の扱いが上手かった。
「今日の実習はみんな仲良くなりましょう≠フ会」
「ダッセェ…」
「しゃけしゃけ」
五条の言葉に真希と棘がそう返す。親睦という空気では到底ないが、そこは親睦会と言った方が良かったんじゃないのかとパンダは思いながらもこれ以上話を長引かせるのも面倒くさく声にするのはやめておいた。
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元々特級過呪怨霊の折本里香に憑かれている乙骨憂太を高専に入れるという事は上層部がかなり渋っていた。何が起こるか分からないからと秘匿死刑を言い渡された彼が高専への転入を認められたのは五条悟の力ありきである。ではあるが、そこに花菱黒百合の前例があってこその結果だとも言えた。
疑わしきは罰してしまえ方針の中、高専で数年に渡り黒百合はその力を呪術界のために行使してきた。拾ってきた五条に懐いた黒百合を上層部が飼い慣らしたと思っているのは些か気分が悪いが、利用できる部分は大いに利用させてもらおうじゃないか。入学までこじつけたは良いが、変わらず忌み血だと毛嫌いする上への不満は多くある。
ジャージに着替えた面々を眺めて五条は努めて笑ってみせた。
「とりあえず…憂太は見学してようか」
「見学、ですか」
高専の敷地内、仏教を連想させる建物や学校、寮から離れたその場所は山の中という特徴を前面に出す様であった。木々に囲まれた周囲は帳がなくても目隠しをするに十分だろう、ポツリと忘れ去られた様に建てられた木造の建物。おそらく境外仏堂だろう外観を持つ建造物を前にして五条は唐突にそう告げる。
脈絡なく言われた言葉に憂太は困惑して聞き返した。クラスメイトを迎えに来たはずなのに、見学とは……
「刺激すると危ないからね」
サプライズで押しかけてきてるし、なんて続ける五条に憂太には返す言葉が見つからない。刺激するとはどういう事なのか、サプライズとは…そんな疑問が次々生れながらも真希や棘達と距離が開いてしまってそちらをチラリと見た。
足跡のように残った残穢。木々の合間を縫うようにして色濃く残るそれに殺伐とした空気を漂わせていたのは、おそらく警戒しての事だろう。
教師である五条があっけらかんとした態度でいるが、真希達は目配せを行い周囲の様子を伺っているようだった。
その辺りを這うような残穢が全て仏堂に集まっているのだから得体の知れないものとして緊張感が走ってもおかしくはない。憂太は五条の言葉を素直に飲み込んで少し距離を取るようにして待機した。
――その時、
「悟?」
真希ではない他のソプラノの声が背後からかかる。呼ばれた本人の五条は「あちゃー」というような顔をして額を抑えた。
そんな様子を認めながら憂太は今し方彼を呼んだ誰かを振り返って確認をしようとする。
足を止めて振り向いたその先に、そこだけ周りの光を吸い込んだような黒が存在していた。
喪服の様に真っ黒な着物に銀朱色の帯がまるで浮いている様に見えた。全く無地の黒い着物に献上独鈷柄の帯はどこか異質で重々しい。そんな身なりだった黒と目が合った瞬間、憂太の体は吹き飛んでいた。
「――っ!」
鋭利な何かが数本地面を抉りながら憂太を襲った。それを理解したのと同時に冷や汗が滲み出た。里香が盾になってくれたから助かったものの不意打ちすぎる衝撃に受ける準備もできず、里香が庇いはしたが収めきれなかった衝撃に体が背後の木に打ち付けられたのだ。里香が反応出来なければ憂太は恐らく地面同様に抉られていただろう。
「――やめて!」
木に打たれ、そのまま地面に落ちた憂太が次に聞いたのは彼女の悲鳴だった。
高く叫んだその声にハッとした様に反応したのは仏堂の様子を伺っていた真希達。自分達より後方にいた五条と憂太の様子に異変があると察してすぐさま駆け寄ってきた。
「憂太…!」
パンダが地面に伏せた憂太の身を案じ声をかけながらその体を支える。
「だい、じょ…」
打ち付けた体が上手く酸素を吸い込めず憂太は2、3度咳き込んだ。そんな様子を見て真希と棘は憂太とパンダを庇うように前に出る。
五条がうーん、と首を傾げながら困った様に頬をかいているのを見て憂太は彼に声をかけようとする、が口から出たのはまた咳だった。
「さ、悟…」
困惑を乗せてまるで助けを求める様に彼女が五条の名を呼んだ。実際はただ呼んだだけかもしれない。彼女にとってこの場にいる知り合いが五条悟だけだったからただ彼を名を口した可能性もある。けど、憂太には彼女が泣きそうな声で助けて欲しそうにその名前を呼んだ様に聞こえた。
「ま、待って……」
げほ、ごほっ
口から溢れる咳がどうしても邪魔をして憂太が言葉を繋げることを遮ってしまう。
僕なら大丈夫だから……そう言いたかった台詞も上手く口することが出来ずむせ返る憂太の背をパンダが撫でた。憂太いいんだ無理をするな、まるでそう言うように。
彼女に名前を呼ばれた本人の五条は何を思ったか「久しぶりだけど元気そうだね」と呑気にそう言った。その言葉に今度こそ彼女は顔を歪めて今にも泣きそうな顔をした。
「…いきなり、何のつもりだよ」
呪具を構えて臨戦態勢をとった真希に黒を纏った彼女が慌てたように首を左右に振った。
「違う!待って!違う!!」
ジリッと地面を鳴らして距離を測る真希と、口元を覆っていたネックウォーマーを下ろした棘に五条は自身の口元を手で覆い隠した。彼にとって見たかった光景が意図せず訪れたことに思わず笑ってしまいそうだったのだ。
両者睨み合いのような緊張感が場を張り詰めて、その糸が切れそうになった時ピリッとした空気の変わり目に即座に反応をしたのは彼女だった。
「だ、だめ…!ガオ!!」
無風にも関わらず空気を裂くように耳元で風の音がした。真希がそれを認めた時、次には血潮が舞っていて目を見開くこととなった。
「………は?」
呆けた声が思わず絞り出る。
例えるならば一瞬。瞬きの合間と言えるほど僅かな瞬間だった。
目の前に子牛ほどあるだろう大きな犬が飛び出してきたと思うと、鋭利な何かにその巨体を裂かれて血が噴き出したのだ。「キャイインン」と犬の叫び声のようなものが響いて呆然としてしまったのは、彼女から真希に向かって直線に巨大な爪のような跡が地面を抉りとっていたからだ。
今、この犬が間に飛び出して来なければ恐らく真希はその身を裂かれていただろう。
「いま、何しやがった…!?」
強い警戒心が生まれ得体の知れないモノと対峙していると理解すると、真希は手に汗がじわじわと滲むのがわかった。握り締めた呪具を落とさないようにギュッとしっかり掴み直してその切っ先を彼女に向ける。
「だめ、やめて……」
首を振りながら後退をしようとした彼女にすかさず棘が合間に入る。目は決して逸らさずに、すうっと息を吸い込んで呪いを音に乗せる。
「動くな」
「っ」
ギシリと、まるで見えない縄に縛られたかのように彼女の自由が奪われ停止する。
残穢も確認でき、何かに襲われた今、警戒すべき彼女の存在は紛れもなく呪いそのものであった。
身動きを取ることが出来ない彼女が「ひっ」と顔を青ざめて短く悲鳴をあげる。そして再び「ガオ!」と半ば叫ぶように声を張り上げた。
彼女の声に呼応するかのように象牙色の毛並みを持った犬が息を荒くしながらも棘と彼女の間に飛び込んできた。体から流れる血が宙を舞い、その雫が棘の頬にかかる。それを見ながらああまずい襲われると思った瞬間、犬は再び吹き飛んでいた。
先程と同じように彼女から直線に棘の元まで地面が抉れ、その間に飛んできた象牙の犬がまるで庇うように衝撃を受け止める。
反動で吹き飛んで、憂太のように木に打たれ地面に落ちる。丸まって胴体から血を流す犬に彼女の悲痛な叫びが響いた。
「ガオ…!やだ、どうしよう…!」
呪言によって体を縛られた彼女の瞳から大きな雫が止めどなく溢れていく。ガオ、やだ、ガオ。そうやって繰り返し呟くその姿に真希と棘は顔を見合わせて困惑した。
彼女の姿があまりにも悲痛に写り、泣いているだけの様子がまるで絶望しているように見えた。
「悟、もうやめさせて…もういや…」
そうして彼女がはっきりと懇願すると、達観していた五条が焦った様子もなく棘の隣に立つ。
そして困惑している教え子に耳打ちするように囁いた。
「棘、黒百合を止めるなら意識を奪うんだ」
やってごらんと言わんばかりの促しに棘はネックウォーマーを掴みながら周りに視線を投げた。
自分と同様に困惑の色を見せる真希、憂太を背負いいつでも逃げられるようにしているパンダ、パンダに背負われながらもこちらに視線を投げる憂太。
負傷させられたにも関わらず、憂太のその視線が憐憫を込めている気がして棘の中で何かが引っかかる。
その正体が分からないまま投げた視線を彼女に戻せば、涙でぐしゃぐしゃになった顔と目が合った。
「――眠れ」
間接的に言えば襲ってきたのは彼女だ。でも、彼女はどこか無抵抗でただ逃げようとしているように見えた。
泣いているだけの呪術師が、地形を変えかねない程の力を行使して襲いかかってくるのが理解できず、無抵抗なその姿に棘は自然と呪いの言葉を吐き出していた。