第1話
「黒百合ー学校行かないのー?」
いつの間に忍び込んだのか軽薄な声を携えて五条悟が弾む様に声をかけた。目元を布で覆い隠してるにも関わらず彼には物が見えている様で歩行など生活に支障がある様子は今までで一度たりとも見たことが無い。
すらりとした背丈はおおよそ190センチほど、それでもひょろりと頼りない様には見受けられないので恐らくゆったりと着込んだ服の下は鍛え上げられた肉体が隠れているのだろう。
今し方声をかけられた本人は部屋の真ん中でゴロリと横になっていた。木造で出来た建物の床は畳が敷かれてはいるものの、直に横になるにはまだ硬いはずだったが黒百合にとっては大した問題ではないらしい。
六畳ほどの部屋を四方ぐるりと囲む様に札が貼り巡らされている。貼った札を更に重ねる様に札が覆い尽くし、元々の木で出来た壁を見ることは叶わない。
窓すらないこの六畳一間は部屋の隅にある行燈だけが部屋の中を照らしていた。
頼りないはずのその灯すらも五条は不要と言わんばかりの足取りで黒百合の元まで歩み寄り、彼女の顔を覗き込む様に頭側からしゃがみ込んだ。
「ほらほら、お友達欲しいんでしょ?」
「……出来ないもん、どうせ」
無気力を体現するかの様にぐってりと横たわっていた彼女が五条の視線を迎え入れる様にもぞもぞと動いて仰向けになった。
そうして彼の言葉に黒百合はぽそりと小さく、まるで拗ねた子供の様に吐き出す。
顔は向き合ったのに視線は他所に投げて頬を膨らませる黒百合に五条はその頬をつつく。
「出来ないってなんでさ?」
制服届いたでしょ?それ着て教室行くよ。
そう続ける五条に黒百合はつつかれている手を鬱陶しそうにはたき落として頭上から見下ろす男をその体勢のまま睨み上げた。
「本気で言ってるの?」
「言ってるよ?僕が君に嘘をついたことないでしょう?」
黒百合の言葉に五条がにんまりとしながらそう返すと、少女の眉間に深い皺が寄せられる。ジワジワと大きな瞳に次第に浮かんで来た雫を見て五条は首を傾げた。
とぼける様なその仕草が黒百合には酷く不快だった。出来るならば剥き出しの喉仏に噛み付いて食い千切ってやりたい程に黒百合はこの男の事が嫌いだった。
それでもそんな行動をしないのは、行動を起こしたところで自分の力では行使しきれないと言うのが分かっていたし、何より五条悟が嫌いだと思う以上に黒百合は五条が頭を撫でてくれるその手が好きで何だかんだと言いながらも構ってくれるお人好しの五条が黒百合は好きだった。
感情という複雑な波に翻弄されながらも黒百合は立派に人間だ。
「……中学、上手くいかなかった」
義務教育である中学校に高専から通っていた黒百合は当初とても楽しそうに毎日出かけていた。
小学校の頃は、無くしてしまった体力を回復させることに専念した為学習はもっぱら高専で1人ドリルと向き合い続けていた。閉鎖されていた空間で育った黒百合の偏った知識を現代に追いつかせる為にも、テレビを見せ映画を鑑賞させ本を読ませ音楽も聞かせた。
そうやって次第に外へ憧れを持ち始めた黒百合を中学へ通わせたのは黒百合自身の努力があったからだ。
貪欲に得た知識で夢に描いた学生生活を始めた黒百合は1年は上手に溶け込んでいたと報告されている。
「うん、知ってる」
溢れそうになった涙を五条は肯定しながら服の袖で拭い取る。しかし、五条の肯定を聞いて黒百合の涙腺は決壊してしまったように拭ったそばからボロボロと浮かび溢れ出てしまった。
「黒百合が悔やんでることもちゃんと知ってるよ」
そうやって声をかけて仰向けになっている黒百合の額を撫でるように優しく叩くと黒百合は「ううう…」と唸るように泣き出した。
報告によれば中学2年のある日、黒百合はクラスの男子生徒から些細ないたずらをされた。思春期真っ盛りの中学男児だ、おそらく好きな子を苛めたいという良くある話だったのだろう。ただし当の本人である黒百合は好意に気付かず本気で嫌がり本気で傷付いていた。それに呼応するように反応したのが犬神だった。
幸い大事には至らなかったが、クラスメイトを傷付けて友人には化け物扱いをされてしまった黒百合は次の日から中学に通う事を拒み自宅として与えられた高専の一角に引きこもってしまった。
ここの中に居れば安全だと黒百合は知っていた。此処には五条くらいしか訪れてくる人は居ないし、札で防がれているから犬神が五条を傷付ける心配もない。そもそも五条は黒百合を傷付けたりしないし、例えあったとしても五条は黒百合にやられてしまうほど弱くない。
だから黒百合は極力此処から出たくなかった。外に出てしまえば自分の意思とは別に犬神が動いてしまう恐れがあったから。
出るときは五条か、あるいは黒百合の意識を奪えるだけの実力を持つ術師とだけ。それを踏まえて向かう先は呪霊を祓う任務だった。それ以外はこの中で毎日が終わるのをぼんやりと過ごすだけ。
「(そんなのつまらないはずなのに)」
そうやって留まることを望んでしまった黒百合は臆病でいて優しい。それが分かっているからこそ五条は黒百合を高専に通わせたかった。
少女にとってこの世界は残酷で悲しいものだろう。生き辛く息苦しいものなのだろう。蔓延る理不尽とクソみたいな世界なのは否めないけど、それでも黒百合に知ってほしかった。
「もう、死んでしまいたい…っ」
そんな風に傷付けるだけの世界じゃないという事も、生きていていいんだと言ってくれる誰かがきっとこの世界にいるという事も。残酷ではあるけれど世界はどこか暖かくて、案外簡単に出来ているという事を、身をもって知ってほしかった。
泣いて喚く黒百合をあやすように撫でながらグルグルと唸る声に部屋の隅を振り返る。
「別に取って食いやしないよ」
全身の毛を逆立てて歯をむき出しにした象牙の犬が敵意を丸出しにして此方を見ていた。
「だめ、ガオ、だめ」
ガオと呼ばれた象牙の犬が黒百合の声に反応して大人しく鼻を鳴らしてみせた。犬のくせに可愛らしく見せようとする姿は猫を被っているように見えてややこしい。五条は既に何度と噛み付かれているので象牙の犬の本性を嫌という程知っている。
何年経っても懐かない可愛くない犬はどこまでも黒百合に従順でさながらボディーガードの様だ。
ト、ト、ト、トと巨体なくせに可愛らしい音を立てて象牙の犬は黒百合の元に擦り寄る。わふんという鼻に付く様な声まで上げて黒百合の顔をぺろりと舐めるので五条は手をそっと引いた。
この犬神と白児が過保護過ぎるのがおそらく一番の原因なのだが…犬神にとって黒百合は容れ物であるため死ぬのは困る存在で、そんな犬神と黒百合を守る為に仕え従うのが白児だ。故に黒百合に対して過剰に反応をするのは頷ける。
「だからってボディーガードが過ぎるよね」
そう呟いた五条を黒百合が見上げる。相変わらず無気力に横たわったままだったけど、象牙の犬に慰められたからか涙は止まっている様だった。
大きくなったなぁと過ごした月日に浸りながら黒百合と象牙の犬を眺める。
黒百合は自分が嫌いで、犬神のことも嫌いだ。それでも手足の様に動いてくれる象牙の犬の事は嫌いにならないのだから難儀だと思う。自分の血を恨んでいる癖にその血に救われているのだから呪いというのはややこしい。
だからこそ黒百合は高専に通うべきなのだ。
「高専はただの学校じゃない。呪いを学ぶ場だ。黒百合は黒百合自身のことを知る為にも通うべきなんだよ」
呪いは呪いでしか対処することが出来ない。呪いを使いこなす為には仕組みを知らなくてはいけない。
そうやって言葉をかけた五条に黒百合はゆっくりと体を起こそうとすると、それを手伝う様に象牙の犬が少女の腰に潜り起きるのを支えに入った。体を起こしきってその流れで黒百合は象牙の犬をわしわしと撫でて億劫そうに五条を見た。
「みんなを…見つけられるかな?」
黒百合が幼いながらも任務に当たっていたのはいくつか理由がある。
万年人手不足である呪術師界に忌み子とされる黒百合は上層部にとって使い勝手の良い駒だった。黒百合に憑く犬神がまた強く、黒百合を死なせない為に向けられる悪意を片っ端から食いちぎる程で、死んでも構わないと判断された忌み子は予想を裏切って与えられる仕事を見事にこなしてしまう。
そして黒百合自身が信じきってずっと探し続けているものがある。
五条は先程、嘘をついた方がないと黒百合に言ったが、それこそが嘘だった。
たった1つ、黒百合につき続けている五条悟の嘘。
「きっといつか見つけられるよ」
真実に、いつかきっと辿り着く。そんな意味を込めて五条は言葉を返した。
そして残酷な言葉で黒百合を動かそうと五条はさらに続ける。
「みんなが見つかって、黒百合の呪いが解けたら…何がしたい?」
「見つかって…呪いが解けたら?」
有り得ない未来のもしもの話。叶うことが出来ないと分かっていながらも五条は黒百合に囁いた。
彼女を前へ動かす為に、黒百合のことを思いながら黒百合には掴めない先の話。
「ほら、渋谷でショッピングしたり原宿でクレープ食べたり。あるでしょしたい事」
けらけらとわざと明るく笑いながら「友達と回りたい場所とかないの?」と言葉を投げると、少し呆けて黒百合が象牙の犬を抱きしめた。
俯いて顔を伏せてしまった少女に五条はあれ?と内心で首を傾げた。年頃の女の子だ、やりたいことなんて沢山あるはずだ、田舎と比べてしまえばこの東京は宝石箱だろう。知識しかない黒百合なら見たいものだって沢山あるはず。
なのに言葉を飲み込んで肩を震わせてしまった少女に五条は少しだけ焦った。どの発言が地雷だったか彼にはさっぱりだったのだ。
そんな五条を置いて、ポタリと畳に雫が落ちる。
いよいよまずいと思った五条に黒百合は小さく言葉を口にした。
「…それなら死にたい」
ああ、やっぱりこの世界は黒百合にとって残酷でしかない。