プロローグ
「ひとつひいてはおしるしを」
ぽんぽんと拙い動作で鞠を叩きながら少女の歌声が響く。その姿を側にいた老婆がにこにこと眺めて見守っていた。
「ふたつほどいてかんからり」
少女の視線は鞠にあり老婆の視線までは気が付かないでいる。それでも老婆は声をかけることをせず邪魔にならないようにと息を潜めるようにしていた。
「みっつむすんでおいぬさま」
少女は続ける。
「よいよいないてはなきもせず」
「いついつはははこをなでて」
「むっつちちはひひをさす」
都心とはかけ離れた山奥にひっそりと拓かれた村はこの現代社会では珍しくも自給自足が成り立っていた。今や珍しくもない文明機器などこの村には存在しない。
「ななつをなせばおいわいを」
少女がそう歌うと老婆は漸くハッとしたような表情を見せた。
7つ、そうかもう黒百合も7歳になる年頃だ。感慨深いと長く息を吐くと老婆は目を細める。綺麗な着物に身を包み、赤生地に金の糸で装飾された鞠は黒百合への捧げものであった。
数ある物の中でも黒百合が大層気に召したのはその赤い鞠で、ほとんど毎日それで遊んでいるのだ。
「ややこもむすびむすばれて」
「ここのつついぞめされては」
「とおにちぎりをまもりましょう」
数え歌が終わるまで鞠を叩けた黒百合は、最後を歌い終えると鞠を抱きしめ老婆の方を向いた。
「おばあちゃんみてた?みてた!?」
天真爛漫な笑みを向けて黒百合が頬を紅潮させながら駆け寄ってくると、老婆はその小さな体を正面から抱きとめて「見ていたよ、上手だったねぇ」と頭を優しく撫でてやった。
「ふふふ」と嬉しそうに笑う少女はどこからどう見てもただの女の子だ。
老婆にとってはただの可愛い孫でしかなかった。
*
*
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正にかんかん照りと言うに相応しい今日は、刺すように降りかかる日光にじわじわと体力が奪われているようだった。
暑いと言葉を吐くことすら体力を消耗する気がして流れた汗も拭うのが億劫な程。
近くで水でも買いたいと思った五条悟はまさか任務地がこんなにど田舎だと想像しておらずげんなりとしていた。サッと仕事をしてサッと帰ろうだなんて思ったのに出鼻をくじかれたようで、なるほど今回送迎もなかったのはこんな理由かと周りを見渡す。
生い茂った草木、日照りで底が見える田んぼ、枯れた川。夏の日差しのせいか雑草など上背ある五条と同じくらい成長していた。点在する家だっただろう建物は嵐にでも見舞ったのか剥がれたり折れたりしてほとんどが半壊している。文明社会に置き去りにされた廃村がそこには在った。
そうして五条は村の様子を見回った後、ずっと奥から感じる禍々しい空気に首を大きく一度だけ回した。
「鬱陶しいなー…」
ぽそりと小さく呟く。
おそらく村の外れ、山奥の村なのに更に少し登ったところから五条はこの廃村に訪れた頃から視線を感じていた。様子を窺うような纏わりつく視線はこの天気も相まって非常に不愉快だった。
それでも何かをしてくる様子ではなかったから、村を少し歩いてみたがやはり視線はじっとりと変わらず絡んでくる。
元よりこの村の事は資料を読んで知っていた。
犬神によって栄えて今なお信仰が続く村。犬神を崇め奉る事によって恩恵を受けていたこの村は自給自足を成り立たせることが出来ていたと。
だとしても電気も通っていないとは思っても居なかった。これでは外界と遮断された世界そのものだ。
犬神は深い怨みで生まれる呪詛である。首から下を埋めた犬の前に餌を巻き飢えさせて首を跳ねる…現代では考えられない外道な類の呪いだ。その呪いは強力で繁栄させることも呪った相手を末代まで祟ることすらできる。
そんな犬神がこの村では神として畏怖されていたのだろう。時代錯誤も良いところだがきちんと自立していたこの村に一体何が起こったのか。
山を降りて街に逃げ込んだ村人曰く、「犬神様が村を祟り始めた」と言う。村人を食い殺し遊んでいる――と。
程なくしてその村人は錯乱したように声を上げ暴れまわり自身の喉を掻きむしって死んだそうだ。
人の念の重さによって呪いは生まれる。犬神を作った念も犬自身の念も恐らく重い。
風習としてその土地に棲まう信仰ならば本来呪術高専の案件ではないが、域を越えればただの呪いに過ぎない。犬神は暴れ過ぎた。
だから五条は仕事として犬神を祓いにきたのだった。
「来ないならこっちから行くよー?」
じっとりと絡みつく視線の先に向かって五条は大きく手を振った。途端、ガサガサガサと草木が揺れ始め彼は口元をにやりとさせる。
言葉が分かっている、なるほど犬といえど古くからある呪いだ。知性があるらしい。
これは退屈せずに済みそうだと思ったのと同時、高く育ち過ぎた草むらから象牙色の巨大な犬が頭を出した。
飛びかかってくるかと構えれば、犬は威嚇するように歯をむき出しにしグルグルと喉を鳴らすだけで五条に喰らいつく様子がない。
言葉に反応して襲いにきたわけじゃないのだろうかと五条は僅かに首を傾げた。
本音を言うならこのクソ暑い中動きたくはない。時間をかけるより短期決戦で決着をつけたいと思った。だから犬神が襲いかかってくればカウンターでも食らわせて片付けようと思っていたのだが何やら違和感を感じる。
「んー…お前じゃないね」
目の前の犬は確かに呪いの産物だろう。異様な大きさと出で立ちと空気がそう教えてくるが、絡みつく視線はこの犬からではない。何より感じる呪力が話に聞いていた犬神と釣り合わない。
そう行き着いた考えを口にすればその言葉をも理解したのか象牙の犬がゆっくりと逆立てた毛を寝かし警戒を解いていく。グルグルと鳴らしていた喉の奥で僅かにわふんと鳴くと、犬は来た道を戻るように草むらに引っ込んだ。
「んん?」
目を見張る五条に再度草むらから顔だけをガサリと出して象牙の犬は今度こそ「わふ」っと息を吐くように鳴き、そのまま頭を引っ込める。
それを見て五条はまさか…と笑った。
「ついてこいって……?」
村人を食い殺した呪いが祓いに来た呪術師を招き入れるなど、知性がある呪いならば己の力を見せつけたいがために行う行動だろう。
おそらくそう解釈する呪術師が大半だろうが、五条は違和感の正体を拭えずにいる。
絡みつく視線の主が一体何を企んでいるのか、象牙の犬に付いて行かねば分かりはしない。動く気配のない視線にこちらから出向いてやるかと指の骨をパキリと鳴らして五条はその足を進めた。
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獣の道と化した雑木林は背丈のある五条が歩むには少々困難だった。象牙の犬は慣れたように進んでいくが、五条は体を屈めなければいけなかったし倒れていた木を潜った時は腰をぶつけてしまった次第だ。もっとマシな道はないのかと象牙の犬に悪態を吐いても犬は見向きもしなかった。
山を少し登った先に褪せた人工物が建っていたのが目に付いて五条は目を覆う布を少しずらしてそれを見た。
これだけ緑一面なのだ、人工物が溶け込むことはない。だが褪せすぎてそれが何なのか一瞬分からなかった。
土汚れと年季で塗装が剥げて茶色くなっているが、所々赤く塗られていたその木。途中で折れてしまい上がどうなっているのか分からないが支えるように支柱の土台があり、少し離れた先に点を線で結ぶかのように同じ土台と折れた人工物の木があって五条はそれを一撫でした。
「鳥居か…これ…」
だとしたらここが犬神を祀っていた所となる。
パッと象牙の犬を見れば犬は少し先の草むらで五条が来るのを待っているようだった。行儀よく背筋を立たせて座る姿はさながらお座りの状態だろう。ここまでデカイと可愛くも何ともないが少しだけ感心してしまう。
象牙の犬に向かって足を踏み出した五条に犬は腰をあげて再び歩き出した。
鳥居があるならば、ここは境内になるのだろうが酷い有様だと五条は少しだけ顔を歪めた。
本来神域とされる境内はその力が弱くとも結界と呼ばれるものが張られて空気が澄んでいる。それは神がいるのだから当然のことで、呪いとはいえ神の名前を冠しているしこの村の犬神は鳥居まで建てられている。例えそれが紛い物だとしても奉られていたならば力がついていたはずだ。
今、ここからは禍々しい呪いの気配しかしない。
鳥居は折られ、境内は荒れ果て、目の前に姿を現したおそらく社だったものが殆ど全壊している様子に、感じていた違和感が大きくなっていく。
崩れてしまって形を成していない社に象牙の犬が入り口と見られる隙間から中に入った。おそらく柱が折れて崩れたのだろう、元々は立派だったろう社は見る影もなく大型の台風によって荒らされたかのような姿をしていた。これでは雨風も凌げないだろうしまだ村の壊れた家の方がマシだ。
倒れていた入り口の柱を退かして五条は象牙の犬を辿る。膨れる違和感を手繰り寄せるように。
これだけの犬神信仰だ。長年外界と世界を遮断して生きてきたのは頷ける。犬神があっての繁栄ならば村人も犬神を崇めたはずだし、だからこそ神として祀っていた。
ここ数十年で出来たような村ではないし社の古さを見てもおそらく百年単位で存在しているはず。
犬神と村はおそらく良好な関係だったはずだ、長年に渡り双方の望みを叶え均衡を保っていた。
ならばなぜ、犬神は均衡を破り村人を殺したのか。逃げおおせた生き残りすらも祟殺してまで……
感じていた違和感はそれだった。
村に来た時から付き纏う視線は執拗で粘着で決して気分の良いものでは無かったが、村を練り歩いたとしても襲ってくるでもなくただ様子を見られていただけだった。まるで五条を値踏みするようにしていた視線が寄越したのは象牙の犬。
向こうから来るのではなく迎え入れるようにして五条を招いた犬神は一体何を考えているのだろうか。
社の中に足を踏み入れて五条は鼻をつく異臭に顔を歪めた。肉の腐った臭いが充満し胃が拒否を起こして唸った。
肩口で鼻を覆いその正体を見れば象牙の犬が社の奥で鎮座していて、その隣に倒れる人影に目を見張る。
――子供
一瞬、けむくじゃらの何かかと思ったが暗がりに目を凝らせば汚れた布切れに身を包んだ子供だった。ぼさぼさになった髪の毛で表情は愚かその体勢がどうなっているのかもよくわからない。
分からないながらも近寄ってみれば象牙の犬と子供の側に鼠や猫、鳥といった死骸が大量に落ちていた。
「臭いはこれか…」
腐敗臭の原因が意図せず分かり五条はますます顔を歪める。死骸の随所に齧ったような跡が見られる。近寄ることによってその側に何かが乾いた跡があったことに気がつき、それがツンとした臭いを漂わせていたから恐らく吐瀉物の類だろうと理解する。
子供の元に膝をつき身を屈めた五条に行儀よく座っていた象牙の犬が腰をあげる。そして五条と子供の周りをぐるぐると回りながらグルルルルと威嚇の声を上げた。
まるで五条が不審な行動をすればすぐさま噛みつかんとするように、牙をむき出し爪を立てる象牙の犬に合点がいった。
「お前、白児か…」
ならばこの子供が犬神憑きなのだろう。
主人の為に餌を取って運んで来たのだろう残骸も犬であるが故にそのままでしか差し出せない。
同じ年頃の人間に白児を憑かせれば良かっただろうに、なるほどこの呪力ならば耐えられる器が身近に無かったのかもしれない。そうして導く様に五条を迎え入れたとなるとこの子供は恐らく死にかけているのだろう。
人間を呪う為に生まれた呪いが救いを求めてくるなんて健気だねぇ、と五条は象牙の犬を撫でようと手を伸ばした…が、勢いよく吠えられて手を引っ込める。
ガルガルと口を開いた象牙の犬に本気で噛まれそうだと五条は視線を目の前の子供に落とした。
手をすっと差し伸ばしまず生きているかを確認しようと、その体に触れる。
「――っ」
途端電気が走るかの様に体を駆け巡る呪力。地を這う様に重く背中からのしかかられている様で、禍々しく異臭も相成って吐き出しそうになったのを生唾を飲み込むことでどうにかやり過ごす。
ガリガリに痩せて汚れ塗れの体は薄汚いを通り越す勢いで不潔に感じる程だった。それでも丁重に扱わなければ恐らく白児が噛み付いてくるので五条は象牙の犬を見て小さく笑みを向けることにした。
「今から君のご主人様を連れ出すけど…良い子にしてね?」
抱えた小さな体からほとんど体温を感じない。この蒸し暑い中でむしろひんやりとするほど冷めきっていた子供を五条は少しだけ哀れんだ。