第7話
黒百合と真希と別行動となって棘は特に当てもなくフロアを歩き、ドラッグストアに入りのど薬を買い込む。
もうすぐストックが無くなりそうだったから丁度いい。
荷物持ちとしてやってきた彼がその手に下げる荷物に自分の物も追加して気怠げな店員の挨拶を背後に店を出る。
適当に歩いて目に留まったスポーツショップに足を踏み入れながら棘は陳列棚を見上げた。特に見たいものがある訳じゃない。完全に時間潰しの為だった。
ダンベルのコーナーに差し掛かって流し見ていた目がパワーリスト捉えて棘は少し考えてそれを手に取ってみる。
程よい重さ、少しの負荷を感じ取ってそれが常に手足に下がっているとなれば良いトレーニングになるような気がした。
もう少しパワーつけようかな、と思うが彼自身非力な訳じゃない。同年代からしたら体力はあるし運動神経は抜群な方に分類される。筋力だって付いている方だけど決して満足しているわけではなかった。
これがとにかく欲しいという訳でもないが、瞬発力もつけたいと少しだけ悩んでいれば、思考を遮るように電子音が鳴り響いた。
真希からの連絡だろうかと、手にしていたパワーリストを棚に戻してそのまま自分のポケットから携帯を取り出す。
スマートフォンの画面を覗けばそこに表示されていた名前は真希ではなかったが、予想範囲内の相手ではあった。
「ツナ」
少しだけ出るのに躊躇いつつ無視する選択肢は彼にはない。
短い言葉を口にしながら電話に出てみれば電話越しに聞こえた声はどこか抜け切ったような脱力したように「やっほー棘、元気ぃ?」と言うのだ。
「ツナマヨ」
『あはは、だよね、そろそろかな?って思ってさ』
「おかか!」
黒百合と真希と別行動中だと伝えれば五条悟は知っていた風に答える。このそろそろかな、には彼女達が買う目的の物が五条の指示だった事も暗に含まれている気がして確信犯なのかと非難して声を荒げれば店員から咎めるような視線が飛んできて棘は慌てて口を噤んだ。
だめだ、店を出よう。
踵を返して店の外に足を向けると、心なしか歩くスピードが速くなった。
『今のところ問題なさそう?』
「…しゃけ」
少しの間を置いて問い掛けてきた五条に棘も一呼吸置いて答える。
『まぁ、何かあれば連絡くれればいいし、黒百合に関しては棘の判断で止めてもらっていいから』
「…しゃけ、こんぶ」
電話越しの五条の声は顔が見えないことも相まってその真意を測りかねてしまう。棘の判断という言葉にどこまでの信頼を乗せているのだろうか。
お店を出た棘はそのまま適当に設置された休憩のためのベンチに腰掛ける。側にある別のベンチには母親とまだ幼い子どもが飲み物を飲んでいた。
『多分大丈夫≠フ範疇なんだよね、黒百合に関しては何がトリガーになるか分からないから。と言っても白児が死にかけて犬神はそっちに手一杯だから本当〜に黒百合がピンチにならないと過剰な過保護センサーは発動しないと思うよ』
「しゃけ」
『本当にピンチ≠チて具合も犬神視点だとまー曖昧というか沸点低いだろうから、やばいなって思ったら遠慮しないで呪ってやって』
「…しゃけ」
変にプレッシャーをかけてくるなと思いながら棘は返事をする。
しかも遠慮せず呪えと物騒な言葉まで言われて少しだけ複雑だった。呪いたくて呪うわけじゃない。呪わねばならない場面ならば致し方ないが進んでそれをしたいと棘は思わない。
僅かに言い淀んだ棘に気が付いたのか電話口の向こうで五条が笑った。
『あと、時間いっぱい使っていいから黒百合に色んなもの見せてやって』
「…ツナ」
色んなもの、という曖昧な表現に少し引っかかって色んな?と意味を込めておにぎりの具を口にする。
五条はうん、と相槌をしてそれから言葉を続けた。
『黒百合にとっては殆どが初めての事だからさ、きっと喜ぶ』
そう改めて口にした五条がどこか父親のようで少しだけ可笑しく感じた。彼はまだ独身で子供もいないと言うのに彼こそが過保護の様に思えてしまうのだ。
それも恐らくは黒百合の生い立ちにあるのだろうけど。
「………明太子」
棘が返した言葉に五条がケラケラと笑った。
『そんな棘に一つお願いをしたいんだけど』
お願いと言うより任務に近いかな、して欲しい事だけどどちらかといえば強制寄りだし。遠回しにつらつらと述べる五条に何が言いたいのかと続きを促すと五条はまた少しだけ笑った。
『黒百合をさ、引き止める対象になって欲しい』
何かを含んで言ったその言葉の意味が棘には分からず言われたそれを考える。意図せず沈黙を返す事になってしまったが五条は予想していたのか気に留めた様子はなかった。
側のベンチにいた親子が荷物をまとめて席を立ったのをなんとなしに眺めながら棘はそのまま言葉の続きを待つ事にした。
『棘も聞いただろうけど黒百合はさ、死にたがってるんだよね』
突然脈絡なく告げられたそれに、死にたいと泣いた彼女を思い出すのはあまりにも容易かった。
あれは感情の昂りに任せて口走ったものではない。悲痛に嘆き絶望を口にした彼女は五条の言う通り確かに死にたがっているように棘には見えた。
『吃驚するくらい生きることに執着がないんだ』
それは、まあ…気持ちも分からなくはないんだけど。そう付け足して五条は尚も続けた。
『だから棘には黒百合が生きたいと思わせる存在になってほしい』
相性的に、これから任務も組むことになるだろうし。高専に通わせるっていうのはその第一歩だったけどそれじゃあ足りない。呪縛に溺れてる黒百合はあのままじゃ確実に死に場所を探すように任務をこなし続ける。自分の中に流れる呪いを自ら呪って最後はきっと悲惨に死ぬよ。
『それを運命だなんて思わせたくないだろ?』
「…しゃけ」
誰にも救うことが出来なかったあの頃の自分。棘が救えなかった幼い頃の棘と黒百合を重ねるのは失礼だと思ったけど、重なってしまった今救いたいと思った。過去を変えることなど出来ないし、呪術師の未来など明るいものではない。それでも絶望を抱きしめて明日を怯えながら生きているような彼女をどうにかしてやりたいと思った。おそらくきっと棘のエゴだった。けど、強い意志がそこには生まれて五条のキザったらしいセリフも気にはならなかったのだ。
けど、でも…そうだ。どうやって?
どうやって黒百合を引き止めたら良いんだろう。
そう思って「こんぶ…」と唸った彼に五条は愉快そうに鼻から息を抜くように笑った気配がした。
『簡単簡単、黒百合を誑かしてよ』
なんて事はないと言いたげな口調でそう言った彼に棘は一瞬理解が遅れた。
それからすぐに意味を飲み込んで反射的に「おかか!!」と怒鳴るように声を荒げた。なにを言っているんだこの教師。
『ほら、僕じゃ教師と生徒だし?そもそも黒百合にも犬神にも嫌われてるから無理なんだけど。真希は同性だし憂太には里香ちゃんがいる。パンダはパンダだし、そうなるともう棘しかいないよね』
まるで消去法と言いたげな口調に失礼な奴だなと顔をしかめる。棘にも黒百合にも失礼だと思った。
人の感情はそう簡単じゃないし、それこそそれは黒百合がいつか抱くものとして取っておくべきだ。棘が黒百合を唆す事が出来るかどうかは別として。
黒百合に対してそういう意味で呪いを吐けと言うならば今ここで棘は五条相手に呪言を多用するだろう。跳ね返りなど知るもんか。
ありったけの悪態をおにぎりの具に乗せて電話越しに投げつければ焦った様子のカケラもない五条が「まーまー」と宥めてきた。
『愛ほど歪んだ呪いってないんだよ』
不確かで醜くてそれでいて強力な呪い。持論だけどね、と付け足して五条は「あ、別に本当に呪えって言ってるわけじゃないよ?」と続けた。
『呪言なんて使っちゃったらそれこそ黒百合は人形になるだろうし、それは僕も反対』
学生らしく青春を謳歌してほしい、という本音は飲み込んで五条は努めて口調を柔らかくする。
『棘、頼むよ』
別に恋仲になれって言ってるわけじゃない、ただ引き止められる存在になって欲しい。
誑かせという言葉は何も変わらない。それでは意味はそのままだ。お願いというより任務で強制に近いと五条は言ったが、さてこの発案は五条悟からなのかそれとも上が何か言ってきた果ての妥協案なのだろうか。棘にはちっとも分からない。
返事をしたくない、了承したくない。そう思って沈黙を貫いていた時に、別の電話が入った事を無機質な音が報せてきた。きっと頃合いからして真希だろう。
「明太子」
『そ?長々ごめんね、楽しんで』
キャッチが入った事を告げると五条は拍子抜けするほど簡単に引き下がる。いつもの様子であっけらかんとする彼に棘は納得いかないまま五条との電話を切って真希との通話を始める。
なんだかすごく疲れてしまって、立ち上がったベンチから早々に退散することにした。
*
そんな数日前の会話を思い出しながら棘は目の前の光景から目を背けたい一心だった。止めなくてはと思うのに喉から声が出てこない。じんわり滲んだ手のひらの汗を握りしめる事で実感してカラカラの喉に生唾を押し込んでは大して潤うことの無いそれに不快感を感じる。
べしりと、肩に軽い衝撃を受けて棘は動かなくなった関節を無理やり動かすような重い動作で今し方自身の肩を叩いた人物を振り返り見た。
「何を悲観してるんだよ、お前の仕事をしろ」
面倒臭そうに、けれどイラついたようにそう言った男に棘はゆるゆると視線をまた前へ戻す。
面倒臭そうにしたのは黒百合にだろう、そしてイラついた対象は間違いなく棘にだった。
硯戸善という一級呪術師は花菱黒百合の任務に付き添う事の出来る数少ない人物らしい。端整な顔と五條ほどには満たないがそれでも十分な上背のある男は黒百合の任務に幾度となく駆り出されていた。棘にバトンタッチする為というのもあるだろう、数日前に初めて彼女と組んだ時は様子を見る為と五条が付き添ったが問題ないと判断されて以降は硯戸が一緒だった。
硯戸自身貴重な一級呪術師だ、彼に充てられる任務も勿論ある。だからこそ棘と挿げ替えられる訳で、3人で任務にあたるのは今回で三度目だった。
順調だったと思うのだ、黒百合は安定していたし出向いた任務も彼女が使役する白児で事足りるくらいで棘も硯戸もただ見ているだけだった。
今回向かった先は都内にある高校で、二級相当の呪霊一体を祓うことが任務の内容である。
生徒が呪霊によって取得領域に引き込まれており、何人かの行方が不明となっている。引き込まれる現場を目撃した生徒に話を聞いて場所を特定する。なんでもない、簡単な事のはずだった。
棘が着ている高専の制服は勿論、彼女が身に纏っている制服もここでは浮いてしまうほど喪服のように黒く染まっている。浮いてはしまうが致し方ないと、集まる視線を身に感じながらも目撃者の話を聞いて、そして―――
今は、ただただ泣きそうな顔で笑った彼女を誑かせと言った五条悟が憎かった。