第2話
顔色が幾分か良くなったのを確認して私は口元を舐める。鋭い痛みと鉄の味がしてまだまだ死ななそうじゃないかと心の中で悪態を吐き彼のその他の処置を施すことにした。 そうしていれば手分けで探すために分かれた他の兵隊さんが焚き火を見つけて来てくれるだろう。
「(顎はこれ折れてるな)」
下顎骨が筋肉によってぶら下がっているような状態なのを見てとりあえず包帯と当て木で固定する。血は止まっているようだったので傷口に関しては消毒だけしておいた。
「他は……っと、」
腕を確認したところ左は無事だが右が物理的にあり得ない方向に曲がっている。軍服を脱がした時に気付かなかった自分の見落としに思わず舌打ちをして、右腕も同じように当て木をする。 他の外傷を探して、特にない事が分かるとその怪我の原因が気になった。顎は折れるというより割れている感じだし、腕は無残な折れ方だ。多分これ何箇所か折れてるぞ。 噂のヒグマだとして、ヒグマは内側の破壊を狙えるのだろうか。あいにく私はヒグマと会った事がないので想像でしか出来ないが食べられたり引っかかれたりだとしたら爪痕や牙の痕があったりして血みどろなのではないだろうか。 だとしたらこれはヒグマによるものではないだろう。 他の野生動物って何がいるだろうか、猪とかかな北海道にいるのか分からないけど。突進されて、とかなら…いやでもこんな部分的に折れるものかな。胸骨あたりが無事なのが妙に引っかかるというか……まるで…
「(そこ≠狙われて折られたみたいな…)」
人為的に感じてしまって唸りながらゆっくりと目を瞑った。
「桐原さん!」 「あ」
背後から呼ばれ振り返れば一緒に捜索に出た人達がこちらに慌ててやってきた。
「見つけていましたか!ご無事で?」 「あと少し遅かったら低体温症で死んでたかも…とりあえず体温を上げて怪我の応急処置をしたから帰るまでは保ちますよ」
担架を組んで男を乗せる様子を見ながら状態を伝えると、安心したように声をかけてきた男がこちらを見た。
「おや桐原さん、口元お怪我されましたか?」
その問いに曖昧に笑みを返した。 あの状態で良く噛み付いてきたものだ、意識はなかったと思う。割れてるくせに無意識の反射だったのだろうか。 数人の歩む音に反応して側にいた男が何処かに向かって敬礼をした。それを横目に私は背後を振り返る。
「無事かね?息はしているのか?」
馬から降りる事なく開口一番にそう聞いてきた彼は第七師団の鶴見中尉だった。 従える様に周りにいる人々が松明を持っている事であたりが暗いことに気がついた。随分時間が経っていた様だった。
「無事です鶴見中尉殿。夕方に川岸で見つけました」
一言二言、続けられる会話を聞き流しながら担架で運ばれる彼を見ていた。 軍から借りてきた馬が役目を終えてゆっくりと私の元に戻ってくる。賢い子だ。
「さすがは桐原先生のご息女、聡明で良い腕をしてますな」
不気味な笑顔を浮かべて今度は私に話しかけてきた彼に馬から視線を移す。 どっかの戦いで脳みその一部が吹き飛びそれ以来額当てをしているらしい彼は時たま謎の液を垂れ流すと噂を聞いた。どの戦いでそうなったのか興味はないが脳みその一部が吹き飛んでもなお言語などに障害なく中尉の地位に居続ける彼には興味があった。その脳みそが吹き飛んだ場に立ち会えなかったのが非常に残念だ。
「医療に男女は関係ないからね、鶴見さん」 「…これはこれは、気に障ってましたか」
興味があると言っても鶴見さんが好きなわけではない。それに出発前に言われた事を忘れたわけでもない。 私の言葉になおも不気味な笑みを浮かべる鶴見さんから視線を外して運ばれて行った彼の方向を見る。
「あの人、名前は?」 「運ばれていった兵の事ですかな?尾形上等兵です」 「尾形……」
なかなか無残な姿だった。腕の骨折はもちろん、下顎骨まで割れて、あれではきちんとした処方を受けないと噛み合わせは悪くなり咀嚼に支障が出るだろう。
「鶴見さん、父との約束なので」 「はい?」
ここに来る前に父はたしかに言った。じぶんが面倒だからというのもあるだろうが、私に任せると投げた。私は今まで死体を相手にする事が多かったし、ここに来てからは擦り傷程度の治療や栄養食を考える補助くらいしかしていない。つまり手伝い程度しか許されなかったのだ。それは私が軍属ではないからだろうと理解しているし国の定であるから納得もしている。ただ看護婦として働きたいわけではなかったのでこれはチャンスなのだ。
「尾形さんは私のですからね?」
そこでやっと鶴見さんは不気味な笑顔を消し去った。
部屋の外で騒ぎ立てる輩に私はため息をついた。 くつくつと笑っている父は機嫌が良いのか面白がっているのか不明だが、私は自分の父親のことが一番良く分からないので理解しようとするだけ無駄なのだと諦めている。ただし、医学に関しては父の受け売りが多いのでこれは除く。
「それで人工呼吸をしたところ百ちゃんに噛み付かれたと…愉快じゃないか」 「笑い事じゃないよ父上」
私が処置をすると言って部屋に入れば尾形さんの仲間だろう人達が騒ぎ立てた。医師でもない私に任せられないと言いたいのだろう。 部屋に一緒に入った鶴見さんはベッドで意識を手放したままの尾形さんをじっと見つめたまま何も言ってこないのが不気味だが、その間に私は父に状況の報告をすませた。 百ちゃんて誰だよ、と聞けば尾形さんの事らしい。私の父はしばしば人との距離を取るのが下手くそで馴れ馴れしい。鶴見さんの事を鶴ちゃんと呼んだときは側に控えていた彼の部下が目をひん剥いていたほどだ。
「だが人工呼吸というのは良い手だ、意識のない相手に内側から暖める手段は多くないからね」
「しかし、生娘の行動を考えれば実家の父が聞いたら卒倒するだろうな」と続けた私の父はからからと笑って私の口端に絆創膏を貼った。確かに祖父なら怒りを通り越して倒れてしまうかもしれない。想像が容易なことに苦笑いをして、それから首を振るう。 とりあえず直ぐにでも尾形さんの処置を行いたい。腕に関してはもうすませたけど、顎はまだだ。ちゃんとした位置で顎を固定させないと変に癒着しては困る。
「桐原さん」
不意に鶴見さんが声を上げた。この話桐原は2人いるが鶴見さんは父のことを先生と呼ぶ事を思い出して呼んだのは私かと彼を見れば、鶴見さんはまだ尾形さんを見つめたままこちらに背中を向けていた。
「尾形上等兵はとても優秀な部下です」 「尽力するよ鶴見さん」
だから任せてよ、と続ける。 優秀な部下だからお前に任せられないと言われた気がしたのだ。 遮るように言った私に鶴見さんは漸くこちらを振り返った。
「美男子の条件は、左右対称であることです」 「は?」 「治せますか?あなたに」
そこまで言われてやっと理解する。 馬鹿にするなよ、クソ狸。
「男前にしてみせますよ」
にっこりと、出来るだけ口角を上げて努めて笑顔になるようにしてそう返すと鶴見さんは一瞬目を見張って、それかは高らかに笑った。
「良いですな!その負けん気の強さは我が部隊にも是非欲しいところです!」
婦女子というのが非常に残念だ、と続ける鶴見さんに煽られまくって我慢の限界だった。私は確かに女であるが、ここまで罵られる謂れはない。祖父もかなり酷かったがあれは固執した考えのもとだったとわかる。だが鶴見さんはどうだろうか、悪意と意図が見え隠れしていて故意に私を怒らせようとしているように思う。 チラリと父を見れば、なにやら楽しそうにニマニマと笑いながら事を見守る体勢で加勢してくれる訳ではないらしい。父は私の性格を熟知している、だからこのままなら私が鶴見さんに殴りかかっても不思議ではないはずなのに止める様子が全くない。
「………」
その違和感に登った血がスッと冷めていくのがわかった。 そうだ、今は鶴見さんに言い返しをしている場合ではない。私の初めての患者が私を待っているのだ。
「鶴見さん、外にいる人たちを連れて行って。尾形さんは私が診るので部屋を移します、もし邪魔したら許しませんからね?」
言い切った私に鶴見さんは「では意識が戻ったら教えてください、聞かねばならない事が山ほどあるのでね」と言ってやっと部屋を出て行った。
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