第1話
生まれ育った土地よりもずっとずっと寒いこの地は吐く息も凍り付いてしまいそうだとどこかで思う。吐いた息が白くなるのは、体温と外気温の差で呼吸によって吐き出されたものが急激に冷やされた結果水蒸気が目視できる様になるのだと幼い私に父は説明していたな。
「(あの時はなんて思ったんだっけな)」
祖父は私が学を付けるのを良しとしなかった。女は婿を貰って世継を産め、家庭に入り従事しろと言った。祖母はとても聡明で堅実な人だけど男を立てるのが上手かったから、私にも祖母の器量さがあれば祖父に口うるさく言われる必要はなかったのかもしれない。けど私は学校の他の子の様に上品に慎ましく微笑み突っ立つなんて事は到底出来ないと理解している。華族になりたいわけでも偶像になりたいわけでもない。そうやって聖母の様にあれと理想像を押し付ける祖父が私はどうしても受け入れられなかった。けど、代々続いてきたらしい祖父の家には学校でも読めないような蔵書があり、それは私を惹きつけて縛った。 そんな私が地元を離れて遠く寒空の下にいるのには訳がある。 父が軍医として軍属となり北の地に赴任した。名誉ある事だと祖父は喜んだが、同時にとうとう焦りが出たのか行動を起こしたのだ。 とある朝祖父に叩き起こされ祖母に人生初の洋服を着させられた。腰を締め付ける異様な硬い当て布に吐き気を抑えるので必死だった私は何故これを着るのかと祖母に尋ねれば「お食事会へ行くのよ」とよそよそしく答えられた。社交界でも始まるのかと思っていた私が連れていかれたのは社交界なんて程遠い、言ってしまえばただのお見合いであった。 見合い話は初ではなかったが強行手段に出た祖父にこれはまずいと感じた私はこの話を反故にせねばと躍起になった。淑やかに過ごしていた私に気を良くしたらしい祖父達が席を外し先方と庭を散歩するとなった時私は行動に出たのだ。 つらつらと自身の家柄を述べる男は私と同じ様に医者の家系らしい。そうなんですね、と上品に笑って見せて私は趣味の話を持ち出した。 そして、見合い話はなかった事になり激怒した祖父にこれよしと思って家を飛び出したのに北海道へとやってきた。話の顛末を聞かせれば父は爆笑して私を褒め称えた。 あんなに退屈な場所にいるよりもここにいる方が私には合っている。邪魔される事なく学べる地というのは宝だとよく思う。
「あ、」
ふと、景色から浮く異形を見つけて私は馬を降りた。冬の北海道というのは本当に寒い。吐いた息から凍ってしまいそうな感覚は慣れそうにない。 雪に足が取られそうになりながらも馬と共に川岸へと歩む。この寒さでも負けないように雪の下に眠る草に自然の強さを感じて小さく笑む。ああ、いけないそんな事をしている場合じゃない。
事の発端は軍医である父と師団の人との会話からだった。兵隊さんが1人行方が分からず戻ってこないらしい。どこかで怪我をしているやもしれんから、共に捜索に出て処置を施してほしいと言うのだ。 勝手な行動をして仕事を増やす兵隊など父は捨て置けば良いものをとボヤいたところ、その人はかなり優秀で失くしては惜しい存在らしい。
「ヒグマに襲われた事にして諦めてはいかがだろう」 「なりません桐原先生」
そんな会話を聞いて思わず笑ってしまえば父の視線が私にやってきたのだ。
「江茉、お前が行ってこい」 「桐原先生、ご冗談を。彼女が優秀なのは存知上げていますが、彼女は医師ではありません」
女性が処置など…と暗に聞こえてカチンと来たのもある、その様子を察した父がニヤリと笑んで続けた言葉に乗せられたというのも否めない。父は私をさすが良く理解している。
「その兵の事はお前に任せよう」
死んでいたならそれまでだろうがヒグマに襲われたりしているなら中々見れない怪我の具合だろうな。 それはなによりも甘美な言葉だったのだ。
死体は正直飽きている、だからどうか生きていてくれ。あわよくばそこそこ重体で肉がえぐれて骨が見えているくらいがいい。そうしたら処置後から甲斐甲斐しく世話でもして怪我が癒えるまでの観察をじっくりとしたい。 そんな思いを抱えながら今しがた見つけた川岸に倒れる人影を見つけた。 軍服に、聞いていた肩章を確認して私はまず落胆した。
「綺麗すぎる……」
目立つ外傷が酷い顔の腫れだった。びしょびしょに服を濡らしているところ川を流れて来たのだろう、この寒さで自力で這い上がるなんて凄い生命力だ。 もっとズタズタだったら良かったのにな、と思いながらこの感じたと死んでいるだろうかと思いつつ念のため男のそばに膝をついて頬を彼の口元に寄せた。
「あれ、」
僅かながら呼吸がある。次いで、軍服の前を開き胸元に耳を預けてみる。
「(うそぉ、生きてる…)」
呼吸の弱々しさとは別に、ドクンドクンと心臓はたしかに強く打っていた。 ならばやる事は1つである。 薬箱を背中から下ろし、中から鋏を取り出す。男の軍服をそれで剥ぎ取って私の羽織を絡ませた。遭難してる可能性を考えて毛布を持って来ていた事を思い出し側に控えていた馬に乗せていた毛布を取りそれもまた男にくるませる。 風をしのいで暖めないといけないが、私が男1人を運べるわけもないので、馬を寝かせて風除けにすることにした。体温も馬から伝わり一石二鳥だろう、と思いながら薬箱からマッチを取り出し火種を集めて火をくべた。 急に暖めては心臓や四肢への負担になる。縮小していた血管が膨張する可能性を考えると冷え切った彼の四肢をさするのも良しではない。真っ白な彼の顔色を見て再度呼吸を確認してみれば私の心臓が跳ねた。
とても浅く、ゆっくりとしている。
本当にわずかな呼吸に思わず脈を取る。心臓は動いているようだが、いくらなんでもこれはゆっくりすぎないか。 まるで呼吸が止まる前のような…
「(そういえば)」
低体温の時は暖める事が良いという。外からはもちろん、中からも。中から暖めるとなると飲み物を飲ませるのが一番だろうが男は意識がない。
「(呼吸というのはどうなんだろう)」
吐いた息が白くなるのは外気温との差で息が急激に冷やされて水蒸気が目視できるようになるからだ。つまり人の呼吸は暖かいものである。そして今この男は呼吸が止まりそうなのだ。ならば…
「(人工呼吸って初めてだ)」
するっと男に手を伸ばす。気道が確保されている事を確認して私は無残になった男の顔に自分の顔を寄せた。
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