▼心を貪る
あんな事があっても、さも気にしていないという風を装って名前の家に上がれるのだから俺は本当に狂っているなとどこか他人事に思う。
実際放っておけば名前が酷い有様になってしまうと想像出来てしまうから、それを回避する為なのだが。
目の前の名前だけは気にするべきなのではとひそめそうな眉を堪えた。
「けーじも入ればいいのに」
鼻歌交じりにそう口にして名前は言う。
浴槽に浸かり淵に腕を乗せて、その上に顎を置く名前は完全にリラックスムードである。
俺はと言うと向かい合うようにバスチェアに座ってシャワーの温度を確かめていた。その光景で異様なのは俺が服を着ている事なんだろうけど、俺たちの関係は全裸で風呂に入りあう様なものではない。
もし仮に「じゃあ入る」なんて言おうものなら名前はきっと喜んで無邪気に笑うだろう。冗談でも何でもなく本気で風呂に入らないかと誘っているあたりがタチが悪い。
「家に帰ってから入るよ」
「だって部活後だと汗かいてるでしょ?」
誰のせいで汗を流すのが後回しだと思ってるんだ。そんな言葉は飲み込んで。
正直この甘ったるい匂いのする浴室は好きじゃない。この匂いを纏った名前は毒だ。蝶を誘い出す花のように漂う匂いの中で裸で密着なんて俺の理性が崩壊するだろう。
「髪流すよ」
「ん、」
言えば名前は目を瞑り俺を待つ。本当に無防備だ。
シャワーを頭から被せてトリートメントを流す。艶々とした名前の髪が俺は好きだから頭を洗ってやるのは割と好きだ。浴室は嫌で髪を洗うのは好きって本当におかしいなと思いながら流れ切ったか名前の髪に触れて確認する。
「はい、おしまい」
「ありがとう」
幸せそうに「ふふ」と笑った声が特有の響きを持って俺の聴覚をくすぐる。
表面には出さないように堪えてチェアから立ち上がりいつもの様に上がったら教えてと伝えて甘い匂いが充満するそこから退散する。
今朝放り込んだままの乾燥機から乾ききった服を取り出して畳み、チラリと時計を見る。
時間的にはそろそろかともう慣れたキッチンに立って炊飯器のご飯を皿に取り出し冷めたそれをレンジに入れる。
冷蔵庫から鶏肉を取り出して適当に切り分け油を引いたフライパンへ。
鶏肉に軽く火が通ったところで電子レンジが愉快な音を奏でた。その音を合図にフライパンの火を消してた時だった。
「ひいあああ!!」
名前の悲鳴が聞こえ何事かとそっちを向けば、風呂場への扉が開き言葉通りずぶ濡れの彼女が飛び込んできた。
「ちょっ、!?」
頭から足先まで拭いてはいないのだろうと言う程に濡れた名前を受け止める。
自身のシャツが水分を吸うのが分かって、ついで訪れる名前の体温に、もう頭はパニックだった。濡れる、離れろ、服を着ろ、体を拭け、何を言っていいかわからない。分からないから抱きつかれた現状に俺の手は行き場を彷徨っていた。
「く、くもが、京治。くもが…」
俺の胸元に抱きつきながらそう言った名前に、漸く思考が戻ってくる。くも…蜘蛛か。蜘蛛が出て悲鳴をあげたというのか。
紅潮した頬も濡れた髪も正直見慣れたし名前の裸なんてほぼ毎日見ている。が、風呂上がりの体なんて見たのは溺れかけた名前を掬い出した時以来じゃないだろうか。
元々白い肌が熱を持って赤みを帯び濡れたままの体が妖艶に俺の目に刺さる。
「(ああやばい)」
勘弁してくれ頼むから。
反応しそうな己に咄嗟に思い出したのは己の先輩。「赤葦ー自主練すんぞー!」「いいトス寄越せよ、あかーし!」「ヘイヘイヘーイ!」「飯いくぞあかあーし!」「俺って最強ー!!」ああうん、無事萎えた。
パニックだった頭が冷静を取り戻しつつ反応しそうだった己が収まったのが分かって、木兎さんパワーに感謝した。すごいなあの人。
「蜘蛛って…名前虫平気じゃなかった?」
カブトムシの幼虫やミミズなど嬉々として素手で捕まえていた記憶がありそれを聞いてみれば、裸のままだった彼女が「いつの話してるの」と潤んだ瞳で俺を見上げる。
ゴキブリすらも喜んでスリッパ片手に追いかけ回していた気がするのだが、なるほど変わるらしい。
「とりあえず…風邪引くから何か着なよ」
ずぶ濡れの名前を拭ってやれるタオルは残念ながらキッチンにはないし、先程畳んだ服はすでにしまい込んでしまった。
風呂場に向かえばタオルはあるので、脱衣所に歩もうとすれば目の前の名前が全く動かない。じとりと彼女を見下ろせば、潤んだままの瞳で彼女は俺に懇願するかのように抱きつく手に力を込めた。
「でも蜘蛛やだよ」
「…はぁ、分かった。タオル取ってくるから」
思わず溢れた溜め息を隠すことも出来なかったのは、俺に余裕がなかったからだ。そろそろ本気で理性の限界というものを経験しそうだなとどこか他人事に思いながら名前の体が離れたのを確認し彼女の横を横切る。
ふわりと香るボディーソープに混ざった名前の甘い匂いに頭がクラクラとなりそうで、気付かれないように目をギュッと瞑った。
脱衣所にある大きめのバスタオルと名前の寝巻き、下着を引っ掴む。一応と思って周りを見渡し件の蜘蛛の姿を探すが、逃げた後なのか見当たらなかった。
でももしまた出てきたりして、名前に騒がれるのは勘弁してほしい為、彼女をここに連れてくるという選択肢はなく。
「はい」
「ん、ありがとう京治」
先ほどのまま突っ立った名前の元へ戻りバスタオルを肩にかけてやる。床は拭くからいいとしても、名前に風邪を引かれるのは正直面倒だ。
体の大半をバスタオルで隠す事に成功し、とりあえず名前をリビングに移動させる。
「俺は床を拭くから名前は自分の体拭いて服着な」それからご飯食べよう。そう告げて彼女の服をソファーに置いて床を拭きにキッチンに足を向ける。雑巾は確かあの辺だったかな…と探し、ふと違和感。
名前の返事がない。
いつもならちゃんと返事をする名前に不審に思って彼女を振り返る。と、
「…名前?」
今まで見たことが無いような、心を抉る表情をした彼女がいた。
呆然としているようにも取れるが、目を見開いて何か言いたげな、今にも泣き出すのではというような、こちらを揺さぶるその表情は。
「どうしたの、」
中総体や高校のインターハイ、春高。よくではないが、見たことのあるその表情に俺は名前に声をかけた。だって分からなかったから。
「京治は、」
その表情をそのままに、体を拭うこともせず名前は俺を見つめていた。
言葉を紡ごうとした名前の声がそこで途切れる。何かを言いたい、でも言えない。そんな風に口を閉ざして諦めたように顔を伏せた幼馴染の姿を、俺は知らなかった。
「…どうしたの?」
何を言おうとしたの、なぜそんな顔をしているの。それを聞き出したくて再度俺は尋ねる。だって本当に分からなかったんだ。
無邪気に無垢に笑う名前があんな表情をするなんて。俺の知らない名前の、
「……今日ご飯、なに?」
顔をゆっくりあげて俺を見た名前は、すでに何時もの名前だった。
ふわりと笑みを乗せて微笑む彼女に、なんでだろうか胸が痛くて。
「オムライスだよ…」
「わーい、京治のオムライス大好き」
「…すぐ作るから、まってて」
「はーい」
何事もなかったかのように振る舞う名前に俺はもう何も言えなかった。
だって、分からなかったから。
名前が、絶望の表情をしたその訳を。