▼月に隠れた言葉の意味は
吐いた言葉に呪が込められてしまうというのは強力な力だと思う反面、とても悲しい力だ。きっと、言いたい事も上手く口にすることが出来なくてもどかしい生活を送ってきたに違いない。
そう思いはしたけど本心は分からない。だって私は彼の本音をきちんと聞いたことがないのだから。
力を使う時以外はおにぎりの具しか言葉にしないでいる狗巻棘は、その力で周りを巻き込まないように配慮しているのだと知っている。
きっと優しい人なんだろうなぁと思いながらも私はあまり深く関わったことがなかった。
なぜなら彼が何を言っているのか私にはちっとも伝わってこないから。
パンダ達には何故かおにぎりの具だけで何を言っているのか分かるらしく、普通に談笑しているけど、私にはやっぱり分からなくて側で愛想笑いを返すので精一杯だった。
そんな狗巻棘と会話も弾む事なく、私は会話をこっそり避けてきた。機微には聡いのだろうか、彼が私に必要以上に声をかけてくることは無かったと思う。
だからおそらくお互いに深く関わるなんてことはきっとない。そう思っていた。
──狗巻棘が、呼んだこともないだろう私の名前を慈しむように撫でている場を見るまでは。
悟に提出しなければいけないノートをうっかり教室に忘れたと気が付いたのは、悟を前にした時だった。探せども姿を現さないノートに教室じゃないのかと笑ったのは悟だ。
言われれば確かにノートを机の中に入れた記憶はあれど、鞄にしまい込んだ記憶はない。初めから持ってなどいなかった物を渡しにきていたという羞恥を抱えながら私は教室に出戻ったのだ。
そこで見かけた狗巻棘は何故か私の席に座り込み私のノートを机に置いてその表紙を眺めていた。
何をしているのかと怪訝に感じたその瞬間、彼は表紙に書いてある私の名前を指でつつりと撫でたのだ。
「……え」
驚きに口から声が漏れてしまった。
それに反応するようにハッとした顔で狗巻棘がこちらを向いた。
そして私と目が合うと、普段は眠たそうにしている気だるげな目が大きく見開かれる。
「こ、こんぶ!」
ガタガタと音を立てて私の席から立ち上がると、焦ったような声色でおにぎりの具を叫ばれた。
もちろん私に意味などこんぶ以上の物は伝わってこなくて、ただ彼の様子に見てはいけないものを見たのだろうなぁと他人事に思いながらも気まずい空気を感じていた。
「ノートを忘れたから…取りに来たんだけど…」
なのでまるっと彼の事は無視をして私は目的のノートを指差す。
彼が今し方私の名前を撫でていたそのノートだ。
私の指先を辿って狗巻棘の顔が大きく左右に揺れる。私の指先を見て、ノートを見て、そしてまた私を見た。
再度、「そのノート」と口にすれば今度こそ伝わったらしい。更に慌てふためいたように狗巻棘はノートをがしりと引っ掴んでズカズカと此方に寄ると「すじこ!」と私にノートを突き出すように差し出してきた。
すじこかぁ…私はいくらが好きだなぁ…
口では「あぁ、どうもありがとう」と言いながらノートを受け取りつつ心の中ではそんな下らないことを考えていた。
私は狗巻棘と会話が成立しない。彼が言っている言葉の意味がその単語以上に何も感じ取ることができないからだ。
だから極力彼と接する事は避けてきたし今だって長居したいわけじゃない。そもそも私はこのノートを悟に提出しなければいけないのだ。
なので、不審なく立ち去る理由は十分に存在している。
「じゃあ私行くね」
さっきの事は見なかったことに――正直気になるけど、彼が説明をした所で私にはおにぎりの具以上に意味は伝わらない。
聞くことを放棄して立ち去ろうとした私の腕を狗巻棘が引いて止めた。え、なに。
「…こんぶ」
私が振り向いたのとほぼ同時にその具を口にしながら腕が離される。
困惑したように再び「こんぶ」と繰り返されて私は首を傾げた。何か用があったのかと思えばそうではないらしい。何より目が泳いでいる様子の彼に私は「じゃあ行くね?」と彼に向き直る。
――と、
「…ちょっと?」
再び腕を取られて引き止められる。
「こんぶ…」
そうしてまた腕を離される。
一体これはなんの試練だろうか。
「うーんと…?」
何の意図があるのか、聞きたくても聞けない。だって何の言葉が返ってこようとも、私には理解が出来ないと分かっていたから。だから立ち去ろうとしているのに引き止められてしまっては八方塞がりでお手上げだ。どうしたら良いのか私には分からない。
それとも狗巻棘は私に何かをして欲しいのだろうか。
機微に敏感な彼は私が困っている事に気が付いたのだろう、「しゃけ…いくら…明太子…」と呟きながら申し訳なさそうに身を縮めた。縮め過ぎて口元を覆う制服の中に顔までもがすっぽりと隠すように俯いてしまって、言葉だけじゃなく目ですら感情を読み取る事は不可能となってしまった。目は口ほどに物を言うとは言うけれど、こうなってしまえば私は何も言うことが出来ない。
「…何か困らせることしたかな?」
絶賛困っているのは私だが、前進しないこの状況に居ても立っても居られず思わず聞く。と、狗巻棘は伏せていた顔をグワッと勢いよく上げた。
「おかかっ!」
食い気味に半ば叫ばれて私は思わず一歩後退する。勢いが怖い。
「ごめん…」
「おかか…こんぶ…」
思わず謝れば気まずそうに狗巻棘がそう言った。
だから嫌なんだ…このよく分からない空気も、彼が口にするおにぎりの具も、私にはその意味まで分からない。おかかはおかかだし、こんぶはこんぶだ。それ以上でも以下でもない。この人の吐き出す言葉は私には伝わらない。
「…ごめん、本当に行かなきゃ」
悟も忙しい身だからノートを提出しておかないと、渡せなくて困るのは私だ。研修任務をレポートとして書いたノートだから、私の評価に直結するし同行させてもらった先輩にも迷惑がかかる。
今度こそと踵を返す私に腕を掴まれるような事はなかった。なかったけど…
「つ……き!」
まだ距離が近いにもかかわらず、背後から半ば叫ばれる様に言葉を吐かれて私は反射的に足を止めた。
「(月……?)」
聞き間違いだろうか、たしかに今月と聞こえたのだけど…。
今はまだ夕暮れでも何でもないし、月など出ていない。そもそも彼はおにぎりの具で言葉を縛ってるんじゃなかっただろうか。
「ツナじゃなくて…?」
だから気付けば足を止め、振り向いて狗巻棘を見てそう聞き返していた。
すれば面食らったのは私の方だ。どこか顔を赤らめて若干こちらを睨みつける様に見てくる彼と目が合って私は聞いてはいけないことを聞いたのかとひやりとする。
「つ、き…」
「ツナじゃないんだ…」
聞き間違いじゃないじゃん、じゃあなんで睨んでくるのさ。
そんな悪態を心の中で吐き出せば、伝わらないことに気が付いたのか狗巻棘の手が口元を覆う制服のファスナーにかかったので私はギクリとした。
彼がファスナーを下げる時は決まって呪言を使う時、呪う時なのだ。まさか…私を…?
ジ、ジ、ジ…とどこか勿体ぶった様にゆっくりと下げられるファスナーの向こうから普段は隠されている彼の口元が覗き蛇の目に牙の呪印が姿を現して私の心臓は大きく波打った。
呪われる心当たりがありすぎる――
避けていたことも言葉の理解が出来ないことも。言い訳をすれば理由なんて沢山つけられたけど、そうする余裕もなく狗巻棘の口がゆったりと開かれた。
――え、?
そうして理解できず怪訝に顔を歪める。
口は動いたにも関わらずそこから声が漏れる事はなかった。何かふた文字、ふた文字を形どってそうして閉じられた唇に私の視線は釘付けであった。
その視線を遮るように狗巻棘は下げたファスナーを今度は素早く上げて口元を隠してしまった。
「ツナマヨ」
万人に大人気なおにぎりの具を口にして、彼は私を置いてそのままスタスタと歩いていく。
「(月、月…やっぱり月かなぁ)」
口パクにした月の意味すら私には月以上の言葉が伝わらない。にしては何故睨まれたのか分からなないしわざわざファスナーを下ろして口パクする様な単語でも無いだろうと考えながら漸く解放された私は今度こそ悟の元に急いだのだった。