「
師範」
曲がることのない凛とした背中。歪む事なく前を見据えて、霞むことのないその瞳に自分が映るのが好きだった。
半々羽織という珍しく個性の強いそれも、この人が身につけると自然と馴染むのだから
師範は眉目秀麗だと呼ぶに相応しいのだと思う。
そんな人の隣に立つのは忍びなくていつも二、三歩後ろを歩んでしまう。そもそも柱の隣に立つ事は烏滸がましいのだと以前隠の人が言っていた気がする。
そんな事を思い出しながら広い背中に呼びかけると師範はゆっくりとこちらを振り向いた。
感情を読み取らせることのない表情は初めて会った時から何を考えているのか分からなくて、分からないままに導かれていた私は、読めない表情がただただ怖かった。
何か怒っているのですか、と聞いたのは割と最初の頃だ。蔑んだ目で見られることもなく厭わしいと罵られるわけでもなく淡々とされる師範に私は我慢ならず聞いた。そうすれば彼は相変わらず無表情で「怒っていない」と一言だけ吐くのだ。抑揚のない声に絶対嘘だと正直思った。
それが数年経った今では師範の言う通りだったと分かる。
「ただ今戻りました」
任務を終えて屋敷に戻ると、丁度師範も帰っていたらしい。
側に駆け寄る私を見て師範は表情を変えることも労わる言葉を口にするわけでもなかった。
ただゆったりと挙がった師範の手に気が付いて私はそっと目を閉じてそれを待つ。するとその後すぐに私の頭にふわりと師範の大きな手が着地する。いつもちょっと強いんじゃないかなと思う圧力で慣れたように私の頭を撫でる師範は、お世辞にも人を撫でるのが上手いとは言えない。むしろ下手なのだと思う。けど、下手なりにもこうしてくれるこの人は言葉よりも行動で体現するのだ、例えお疲れと言葉にしていなくても。
武骨な手で少し荒く撫でられる、これが始まったのがいつ頃だったかはもう思い出せないけど、私はこの人のこの手も好きだった。
「怪我は」
名残惜しくも手が遠のいて渋々目を開けると、変わらず無表情の師範が私に問いかける。
「あ、え…っと…」
思わず口籠ると師範の目が細められた。聞き逃してはくれない、見逃してはくれないという目に途端居心地悪く目をそらすと、それを許さないと言わんばかりに「見せろ」と短く吐かれれば私はもう観念するしかなかった。
そろそろと隊服の腕をまくり左腕を師範に差し出す。肘から手首にかけて巻かれた包帯を見ると師範は、はぁと溜息をついて私の右腕を取る。
「あの、師範…?」
そのまま歩み出す師範に引かれるように私の足もその背を追う。一見引きずられるかのように見えるだろうこれも掴まれた右手は大して力を込められていないから加減をされているのだろう、こういう節々に師範の優しさが垣間見えるのも、私は好きだった。役得だ、継子になれて本当に良かったと思う。思う反面不甲斐なくも思う。
基本的に継子を取らないと言われていた水柱の冨岡義勇は出会った頃から無愛想で苦手だった。それが今や一転二転して私は彼の珍しいと言われる継子となり、稽古をつけてもらっている。誇らしいと思う、けどこうして私が無様になれば師範の顔に泥を塗っているようで居たたまれなくなるのだ。
彼ならばきっとあの鬼も無傷で斃したに違いないのに。そんな風に柱と自身を比べるのも烏滸がましいのに、思わずにはいられない。
自室へ連れてこられた私は、部屋に入るや否やその手を離され、多少の自己嫌悪で居心地の悪さに身動いだ。それを気付いていないのか、特に何か言うでもなく師範は私を振り返ると「座れ」と短く口にする。
師範の部屋だ。閑散として必要最低限のものしか置いていないこの部屋にはいつも緊張する。
師範と向き合う様に畳の上に正座をして座ると、彼はそんな私に見向きもせず執務用の机の横に備えていた木箱を引き寄せた。
「腕を」
木箱を携えて私の正面に座り直す師範は気のせいでもなんでもなく距離が近い。短い言葉とその行動に私は何をされるのかもう分かってしまい包帯を巻いていた腕を彼に差し出す事となる。
目の前に出された腕に師範は表情1つ変える事なく包帯を解いていく。無言で行われるその様に私はやはり居た堪れない。
師範は私が怪我をする事を酷く嫌がる。
柱であるからその実力は確かな彼は、滅多に血を流したりはしない。そればかりか羽織や隊服を汚すこともあまりない。理由は単純、ただ強いから。
だからだろうか、そんな彼の継子である私が怪我をして帰ると師範は決まって具合を確認し治療を施してくれるのだ。まるで咎める様にされる行いは、私が怪我をするごとに師範の顔に泥を塗っている気分になってとても不甲斐ない思いでいっぱいだった。
「ごめんなさい師範…」
鋭い爪痕の残る左腕を見て小さく溜息を吐いた彼に私は思わず謝罪をした。
どんなに小さな溜息も、この距離だと聞こえてしまう、拾ってしまう。
縮こまって小さくなりたい、消えてしまいたい思いで呟く私に師範は少し目を丸くしたように見えた。
「何故謝る」
師範の溜息や、彼が私が怪我をすることを嫌がっていると気が付いている事、諸々おそらく分かっていないのだろう。師範は、機微に見えて随所で鈍感だ。隠したい怪我を見抜いたにも関わらず、私の謝罪を何故と問う。
だからそう口にした師範に今度は私が目を張る番だった。
だって私はこの人に幻滅されたくない、見放されたくない。
継子が柱に破門される、なんて私は聞いたことがないが可能性がないわけではない。私がされる事だってあるやもしれないのだ。
何故と聞かれてなんと答えるのが正解か分からず口を噤む。彷徨ってしまった視線を呼び戻す様に師範が私の手の甲を撫でた。
促される様に泳いでいた視線を戻せば、いつのまにか新しい包帯が腕に巻かれている。痛み止めを飲んでいたからだろうか、それとも師範の手際が良すぎるのだろうか、おそらくきっと両方だろう。全く気がつく事ができなかった。
「…怒ってますか」
落ちていた視線を上げると、真っ直ぐにこちらを見ている師範と目があった。その表情からは、やはり感情が上手く読み取れなくて霞む事のないその瞳に自分が映っているのが、今は少しだけ怖かった。
私の言葉に師範は視線は揺らがなかったものの怪訝そうに眉を顰めてみせた。
「怒っていない」
相変わらず抑揚のない声色だ。
でも、彼が嘘をつかないことは私が良く知っている。
そうか、怒っていないのか。そう思って安堵した私に師範は尚も言葉を続けた。
「怒っている様に見えるのか」
安堵してついた息をすぐさま吸うことになったのは、師範のその言葉のせいだった。まさか聞き返されるとは思わなかったし、顰めた眉がそのままだったことも珍しいものを見た気がして喉がしまった気がする。
師範が持つその木箱は蟲柱からの貰い物だと彼は言っていた。怪我をする私を見かねてか蟲柱は師範に治療道具の揃った木箱を渡したのだと思う。そうやって柱である師範に治療をさせてしまっているのだから私は出来損ないの継子だ、とても不甲斐ない。
するりとまた手の甲を撫でられて師範に目をやれば、霞まない瞳とまた目が合った。
無表情のその顔は凍てつくほどに整っている。音柱の彫刻された様な美形とはまた違う少年ぽさを残した師範は、きっと童顔とも言うのだと思う。
「私はいつも怪我をして…師範に迷惑ばかりかけて…」
真っ直ぐに見つめられた視線からは逃げることなど出来なくて、思っていることをぽつりぽつりと私は吐き出した。
私が任務から戻ってその報告をすると師範は決まっていつも私の怪我を診る。執務中であろうとその手を止めてこちらに来いと私を側に呼びつけるのだ。おそらくきっと、信用に至っていないのだろう。師範の中で私はいつまでも未熟なままで、私が負傷するたびに私と延いては師範の評判までも落としてしまう。
「名前」
落ちていく思考を遮る様に師範が私の名前を呼んだ。温度を感じないようで、それでいてどこか力強く彼の背筋と同じくらい凛とした声。私はこの人のこの声色も好きだった。
多弁ではないから長く聞くことは叶わないけど、圧を感じるでもなく早く話すでもなく、その口唇から静かに紡がられる言葉はまるで水のようにするりと私の鼓膜を揺らすのだ。
「迷惑などと思っていない」
はっきりと言われたその言葉に私は口を噤んだ。
想像もしていなかった台詞に思わず師範の顔をじっと見る、が手元から感じた温もりに視線を下げる事となった。
「あ、の…師範?」
取られていた手が師範の手に包み込まれるように覆われた。撫でるとか、そう言うのではなくまるで手を繋ぐことを促すかのように包み込まれ、そのまま彼の親指が私の手を優しく摩る。
手元よりも首元がぞわりと擽ったく感じて私は困惑した。豆ができても潰れてしまうほど剣を握り続けている手のひらはお世辞にも柔らかいとは言えないけれど、確かに感じる温もりはとても心地いいものだった。
「前にも言っていたな」
その時も答えただろうが怒っていない。迷惑だとも思っていない。
「なのに何故そんなに怯えるんだ」
一定の調子で吐かれた言葉は、注意して聞いていなければ疑問をぶつけられたと気が付かないほどにただの呟きなように聞こえた。
私の挙動を見守るように視線を向けられて私はその目から少しだけ視線を逸らした。
師範は多弁ではない、寡黙な方だから極端に言葉が少ない。大半の事を口にする事がないので、この人の思慮を理解するのは到底不可能である。
けどこの人が嘘をつかないと言うのは私が良く知っている。
何故と投げられた言葉の返答を待つように此方を見ているだろう師範にそろそろと視線を戻す。
「師範の手を煩わせていますよね」
「そんな風に思ったことはない」
間髪入れず返された言葉に私が押し黙る。
僅かに怪訝そうな表情をした師範が続けて「何故そう思う」と問いてきた。
何故、と先程から聞かれているような気がして少し居心地が悪い。
私の思いは変わらない。師範に見放されたくない、この人の継子でありたい。でもそんなのは女々しくて口にできるものではない。ただでさえ忙しい柱に稽古をつけてもらっているのに、こうやって私に時間を割いてもらっている。これ以上私の我儘を押し付けていい訳がない。
「俺が怪我を診ているのが厭わしいのか」
「まさか、そんな!何を仰います!」
黙ったのがいけなかったのだろうか、何も言わない私に業を煮やしてか師範がそう口にする。思ってもいなかった台詞に私は慌てて否定した。
不甲斐ないと思うことはあれど、治療してもらう事を嫌だと感じたことはない。
「ただ、私は……あなたに失望されたくないのです」
口にしてしまった言葉に、師範の顔が面白いくらいに歪んだ。見事なまでの顰めっ面に、この人はここまで表情筋が動くんだなぁと場違いにも思ってしまった。
「失望…?」
取られていた手がその言葉と共にゆっくりと離される。
「申し訳ありません、烏滸がましい事を口にしました…」
思わず吐いてしまった言葉にパッと顔をそらす。慌てて取り繕った言葉を許さないように師範が「名前」と私の名前を呼ぶので、自然と背筋が伸びた。
「言いたい事があるなら言え」
真っ直ぐにそう言われて自由になった手は思わず拳を作った。膝の上で握りしめた拳の力をどうにか和らげようとくちびるも噛み締める。これ以上失言してたまるかと、言いたい事は特にないのだという意味を込めて首を横に振った。
そんな私に返ってきたのは師範の溜息だ。
その溜息の真意が怖くて、私はまた拳を握りしめた。
「お前に失望などする訳がない。怒ってもいないし迷惑に思った事も一度だってない。なのに何に怯えているんだ」
霞む事のない瞳が真っ直ぐにこちらを見てそう言う。
失望などする訳がない…その言葉に何かが絆された気がして力が緩む。こんなに手がかかっているのに、師範は本当に言っているのだろうか。一瞬疑問を持ってすぐに叱咤する。この人が嘘をつかないと私が知っているじゃないか。
ゆっくり恐る恐る私は口を開く。
「師範は、私が怪我をするといつも溜息をつかれますよね…怪我の程度を確認されるのも、私が不甲斐ないからではありませんか…?師範に治療されるのは嫌ではありません、とても有り難い事だと思っています。ただ、私のこれは師範の評判を落としているのではと…怖いのです」
ゆっくりと言葉を口にする私を師範はただじっとこちらを見て待っていた。
そうだ、この人は聞いてくれる人だ。多くは語らないけど、だからといって聞かない訳じゃないのだ。
「師範に捨てられたくないのです」
意を決して続けた言葉に師範が目を見開いた。驚きと取れるその表情の真意を私は知らない。でも失望なんてしないと言ってくれた言葉を信じたい。
すぐに表情を消した師範は少しだけ俯いた。何と言うか考えているのだろうか、凛とした背中が僅かに丸まって珍しいものを見たと私は少し驚いた。
「…溜息をついていたか」
顔を僅かに上げて視線をこちらに寄越した師範が呟くように私に聞いた。伺うような聞き方に私は頷きを二、三度入れて肯定を返すと、師範は目をそらして自身の手で己の口元を覆い隠した。
少し視線が泳いで、それから一点を見つめて間を置くと、漸く覆っていた手を取り払いまた顔を上げて真っ直ぐにこちらを見た。
「俺は喋るのが得意じゃないからその分を行動で示そうと思っていた」
いつも汲み取ってくれるお前に甘えていたのだと思う。
そう口にした師範が私に向かって頭を下げ、こう続けた。
「流石に怠慢だった、すまない」
師範の謝罪というものを真正面から受けて、私は僅かに思考が停止した。謝られる理由が分からなかったというのもある。何故謝るのかと疑問を持ったのと同じ程に師範の行動に私は一瞬理解が追いつかなかったのだ。
「師範!そんな!おやめください!頭を下げるなんて…!」
慌てて口から出た言葉が単語を叫ぶだけのものだったけど、それは私の心情をよく表していたと思うのだ。
「階級が上がれば上がるほど、振られる任務は重くなる」
なのに師範は私の言葉を聞こえなかったかのように振る舞い尚も続けるので、無意識で前に出た手はオロオロと行き場を失ってしまった。
「どんなに優秀な隊士でも命は無限ではない事を俺は知っている」
鬼と比べれば人はとても脆いものだ。
「中には厄介な血鬼術で、一見かすり傷に見えても後に致命傷となるものもある」
ゆっくりと顔を上げた師範は、その視線は落としていて霞まない目と交わることはなかった。そうして口を閉ざした師範が、まだ何か続けようとしている気がして私はそれを待つ。
数秒、数十秒だろうか、たっぷりの間を置いて師範の視線が漸く追いつくように上がってきた。
元々近かった距離を利用するように徐に彼の手が上がる。反射的にその手元を追えば普段やるのと同じように私の頭にその手の平が着地をした。何度繰り返されてもお世辞には上手いと言えない撫でる行為は、いつも少し強く圧がかかる。
「名前が無事だと確かめたいんだ」
上辺ではなく、しっかりと。
そう続けた師範の顔はいつもと同じ涼しげで表情らしい表情が見られなかった。
怪我を毎回確認するのは、この身の安否を確かめたかったから。そう頭の中で変換されて私は間抜けにも呆けてしまった。
「心配して…下さっていたのですか」
溢れた言葉に師範の私を撫で付けていた手が止まった。
「それ以外に何がある」
柱が継子を心配しない事などない。
どこか不満そうな口調で言われた言葉に伸ばしていた背中が思わず脱力した。だってそんな、分かりにくいよ。
でもこの人が嘘をつかないというのは、私が良く知っている。だからこれは本当なのだ。
良かった、良かった本当に。
「そ、そういうのは口にして下さい…!」
捨てられてしまうといつも怖かった。そんな思いが私の勝手な勘違いだった癖に、無礼にもそう声を上げた。
不安から解放されたお陰でついでに涙腺も緩みそうだった。
「ああ、すまない」
なのに師範は私を怒るどころかいつもの調子でそう言うのだ。いや、どこか柔らかな声色だったように思える。
ゆるゆると頭から私の頬に移動してきた彼の手が不器用にも涙を拭うように撫でるので、私は我慢しようとしていた涙をわざと流すことにした。
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