▼見知らぬ土地にはご用心
野宿にも慣れて硬い地面でも睡眠が取れるようになった頃、ぼろぼろの空き家で今晩は過ごすこととなった。隙間風もありそうで、雨が降れば雨漏りもあるだろうけど屋根があるだけずっといい。
長年使われていないだろう囲炉裏もアシリパさんの手にかかればきっちり整備されて使えるようになるのだから彼女の存在はとても大きい。そしてなんといってもご飯が美味しい。
いつもの様にみんなでご飯を食べてヒンナした後、各々寝床につく。
私も例外ではなく、適当に枯葉で見繕った即席ベッドに横になり目を瞑った。そのまま朝まで熟睡……のはずだった。
―――ぼとり
胸元に感じた軽い衝撃に反射的に顔が顰められるのが分かった。
なんだろう、誰かの寝返りついでに腕でも飛んできたんだろうか。
そんな疑問を持ちながら薄目を開けると、パチパチと心地良く燃える囲炉裏の火がまず視界に入り、その向こうの入り口近くで壁に背を預けて眠る尾形さんの姿もついでに捉えた。
残り三人の姿を探そうと目をきょろりと動かすと、三方の姿より先に胸元へ与えた衝撃の正体が目につく。同時、それが何か理解をして私の意思とは別に絶叫が喉から縛り上げられた。
「なんだ!?」
可愛くもない私の悲鳴に間髪いれず飛び起きたのは尾形さんだった。
「どうした!?」
次いで身を起こしたのは杉元さん。
銃を手にする尾形さんと無意識にだろう眠るアシリパさんを背後に隠す杉元さんに私は半泣き状態で助けを求めた。
「とって…これとってぇ…」
衝撃を感じた体勢のまま起き上がることも身をよじることもできず私は自分の腹の上にいるそれに恐怖を感じて泣いていた。
なるべく刺激しないように動かないで、首だけを壊れた機械のようにゆっくり二人に向ければ、私の腹の上を凝視する二人が確認できた。
「え……でかくない?」
口元を押さえて若干身を引いたのは杉元さんである。やめて引かないで助けて。
「……」
尾形さんに至っては顔色を変える事も何か発言する事もなかった。お願い助けて。
「い、生きてるのぉ?」
「生きてるよ!落ちてきたんだよ!取って!はやく!!」
杉元さんの弱々しい呟きに思わず叫んだ。そんな言い方したって状況は変わりやしないし可愛くもないんだからな!
そんな思いを込めた叫びに反応したのは私でも尾形さんでも、ましてや杉元さんでもなかった。
数多の脚を動かして蠢きながら腹の上を徘徊する。その感触が着物越しに伝わって目をそれに向ければ二歩三歩私の顔へと近付いてきた。
「ひっ、ぎゃあああ!!!」
拳の大きさはあるだろうか、巨大な蜘蛛が何を狙ってか就寝中の私の上に落ちてきたのである。こんなに大きな蜘蛛が北海道にいるなんて聞いていない。
「無理無理無理無理!取って杉元さん!!早く!!」
地球上の八百万いるだろう生物の中で、何を隠そう私は蜘蛛が一番嫌いである。
身をよじっても離れない蜘蛛に手で払い落とす事も出来ず私は杉元さんに助けを求めた。が、彼はおろおろとしだすではないか。嘘だろおい。
「え…ええ…ちょっと大きすぎるのは…」
「私も無理だよ!見放さないでよ!!」
いつも優しく頼もしくにこやかな笑顔で助けてくれる杉元さんが蜘蛛に気圧され狼狽えている。そういえばこの人バッタ嫌いだったな。
私の叫びに尚もおろおろとする杉元さんに心の中で役立たずめ!と悪態を吐く。いつもかっこよく助けてくれるのに!なんて完全な八つ当たりだったけど、そんな事を冷静に分析出来るほど私の心は穏やかではなかった。
「尾形さん!尾形さん!!」
杉元さんが役立たずとわかった今頼れるのは尾形さんである。
馬鹿みたいに彼の名前を繰り返し叫びながら尾形さんに目を向けて助けてくれとピンチを訴える私は、顔面から涙と鼻水と涎が垂れ流しであった。それを拭う余裕もないくらい私は必死なのだ。
だが彼はそんな私と目が合うと途端に顔を歪めて嫌そうに「汚ねぇ」と言うではないか。
「取って!尾形さん助けて!!」
だがそんな顔に構ってる余裕も気にする平静さも今の私には持ち合わせてない。
曰く汚い顔面で助けを求めると尾形さんは無情にも身を引いた。
「…噛まれたら嫌だから」
「私が噛まれそうなんだよ!?」
助けるどころか心配すらされず己の保身を優先した冷たい男に私は涎を撒き散らかす。冗談じゃない、腰抜けめ、それでも北海道が誇る北鎮部隊なのか。そんな思いも腹から胸元に移動した蜘蛛に私は「ひぎゃあああああ!!」と叫びを上げて思考が吹っ飛ぶ。
「あー、ほら蜘蛛って基本益虫だって聞くし」
「悪いようにはならんだろ」
「ふざけんなよお前ら!!?」
想像以上に簡単に見捨てられた事に私は絶望と憤りを覚えて怒声を上げた。体液という体液を顔から垂れ流しながら緊張と嫌悪感と怒りとが混ざり合って叫んだ拍子にもう吐きそうになっていた。
「アシリパさん…起きてぇ…お願い起きてぇ…」
自分よりずっと年下の女の子に頼るなんて情けないがもう頼れるのは彼女しかいない。きっとアシリパさんなら快活に笑って助けてくれるはずだ。
「起きてぇぇぇぇ」
だが、一度眠ってしまったアシリパさんは滅多なことでは起きてくれない。その滅多なことが今起こっているのだが目を覚ます気配は到底なくて私はぐしゃぐしゃの顔をさらにぐしゃぐしゃにした。
そんな私を突然制したのは、アシリパさんでも杉元さんでも尾形さんでもなく、
「んもぉ〜みんな騒いでなに〜?」
眠気まなこで瞼をゴシゴシと擦る白石さんだった。
「し、しらっしらいしっさん!」
過呼吸寸前な私が辛うじて上げた声に「えぇ、大丈夫…?」と心配そうに口にしながら側によってくれる彼に私は恥も何もかも捨てて汚い顔面で「とってぇぇぇ」と泣いた。
「蜘蛛じゃん、え、何これで騒いでたの?」
「へ…」
ぼろぼろと泣く私が思わず呆けたほどに、なんて事はないと言ったそぶりで白石さんは私の胸元を陣取る蜘蛛をひょいっと両手で包み込むように取り上げた。
予想外の出来事に三者三様、しかし皆目を丸くする。目を点にする尾形さんと、「やだ…男らしい」なんて杉元さんの声が聞こえて若干苛立ちを覚えつつ、私はようやく上体を起こした。
「じらいじざんっ゛」
「こんな大きな蜘蛛じゃ怖かったよな、もう大丈夫だぜ」
手のひらに居る蜘蛛が白石さんの手の甲に回りもぞもぞと動き回る。それを大して動じた様子もなく白石さんは空いた方の手で私の頭を撫でてそう口するので、私は緊張が緩んで鼻水がまた鼻から垂れるのがわかった。
優しいその手付きにいつも頼りない彼が輝いて見えて、
「うわああああん」
「えぇ…きたなぁい…」
思い切り彼に抱きつくと、顔面を汚した私に心底嫌そうな声が降ってきた。
後日、蜘蛛にエリザベスなんて名前をつけて連れて行こうとした白石さんを力の限り蹴飛ばして阻止をしたのは言うまでもない。