☆side→ヤス




 夕暮れの住宅街。帰宅を急ぐ主婦や遊び帰りの子供とすれ違う。

 住宅に挟まれた狭い路地を少々フラつきながら歩く今の俺から、すれ違う人が恐々と距離をとる。


 人を殴ったのなんて、このまだ未熟な人生の中では初めての事だけど、少々裂けて血が流れる皮膚も、打撃の余韻を残す関節の痛みも・・・どうでもいい事に思えるほどに、大きく沸点を超えた感情が冷めやらない。


「この際だから強引にでも押し倒してみろよ。アイツぜってー待ってるって。なんたってこの俺が仕込んだんだからなぁ。具合良いぜぇ〜ひゃっひゃっひゃっ」


 司が耳元でそう言った。

 最低だ。なんであんな台詞が言えるんだ。

 どうせ俺を煽ってやろうって魂胆なのはわかる。だけど、どうしてあそこまで夏樹を侮辱できるんだ。未練がある筈なのに。


 俺の気持ちを知っていて、夏樹の苦しみを知っていて、最低な言葉を羅列しながら司は笑っていた。

 ああいう一面を知らなかったわけじゃないけど、我慢できなかった。


ヤス
「・・・っ」


 俺は何故あの時、手を差し伸べてやらなかったんだろう。

 何故、俺の元へ来た夏樹の気持ちを察してやれなかったんだろう。

 どんなに傷ついていたか、今ならわかるのに・・・。


 俯く俺の目線の先。立ち止まった足元に赤い雫が落ちて、地面に黒い斑点をつける。

 右手から流れる生ぬるい感触に、ジワジワと先ほどの怒りがぶり返し、強く拳を握りしめた。

 いったいどれほどの力で拳を振り下ろしたのか、ジンジンとする右手はまるで別物のようだ。


 殴られた司は、どんな顔をしていた?

 笑っていた・・・?

 ああ、殴られた場所を押さえて、鼻血を流しながら笑っていた。

 まったくいい根性してるよ。

 俺が殴った事が嬉しいとでも言うかのように、声を上げて笑っていた。


 とにかく、夏樹を苦しめていた理由が、あの涙の理由が、司への未練じゃなかったことはわかった。

 俺がどうしようもなく鈍いことも。


 もうわかった。

 司に、もう遠慮なんかしない。




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