「相変わらずこの匂いに弱いですね、ななこさんは」
「ごめんなさい……」

何回嗅いでいたって慣れないものは慣れない。しのぶの私邸であるこの蝶屋敷は、いつ来ても藤の花の香りと消毒液のようなつんとした匂いで溢れかえっている。うちにも藤の花は咲いているけれどここの数は比じゃない。麻酔のような効力に頭をくらくらさせながらも、吸い寄せられるように傍にある椅子へと腰を落ち着かせる。

「ほらこれを。心が落ち着きますよ」
「……これは?」
「ココアです」
「ココア?」

そう言って差し出されたのは甘くて茶色い変な飲み物。聞けばカカオなる粉末を牛乳に溶かしたもので、 最近巷で流行り始めたらしい、栄養価も高いからと私にも少し分けてくれた。それだけじゃない。おもむろに前を横切ったと思えば、液瓶を持ちこれ以上匂いが充満しないよう棚の中へと仕舞い込んでくれた。美人な上に優しいなんて、あまりに尊すぎてお喋りしているのさえなんだか申し訳なく思えてくる。私みたいなのに気を遣わないでください、本当はそう言いたいところだけれど、また匂いにやられると困るから今は大人しく見ているだけにしておく。

そもそもなぜ私がここへやってきているかというと、婆やが風邪をこじらせて寝込んでしまっているから。医薬品は街じゃなかなか手に入らないし、なによりしのぶに調合してもらった薬が一番効能が良い。だからしばらくの間屋敷を離れ、遠方はるばる分けて貰いにきたということだ。

「では、これをお婆さんに飲ませてあげて下さい。朝晩忘れないように。もしも飲み辛ければ白湯と混ぜてあげてもいいですよ」
「ありがとうございます」

まるで聖女のような笑み。私も婆やも、今この人のおかげで生きていられるようなものだから一生頭が上がらない。幼い頃流行り病にかかって死にかけた時も、二人揃って谷から転げ落ちた時も完治するその日まで献身的に介抱してくれた。しのぶだけじゃない、カナヲやアオイや女の子たちも。きっと忙しいだろうに、一日に何度も病室へやってきては怪我の具合を聞いてくれて、気を落とさせないよう流行り物の話や大好きな本の続きまで丁寧に教えてくれた。今だって私が呑気に寛ぐ中、せっせと部屋を行ったり来たり。

「みなさん手際が良くて見入ってしまいます」
「手際が良いのは当然です。鬼殺隊員の命がかかっていますからね」

そしてそれを当たり前と言えるのも凄い。彼女たちは一体どれほど優れた器量を持っているのか、きっと血の滲むような努力があってこそだろうけれど、そんな常人離れした人たちのことを思うとあまりの別世界ぶりに悔しさが込み上げてくる。でも「私も役に立てたらなぁ」ぼんやりとそう呟くと、聞き捨てならないとばかりにしのぶが目を向けてきた。

「何を言っているんですか? 貴方方藤の花の家紋の屋敷の人達の協力があってこそ鬼殺隊は成り立っているんですよ。ななこさんこそ、若いのに屋敷を切り盛りして本当に偉いですね」
「偉くないです。当たり前のことをやっているだけで。それにしのぶさんだって若いじゃないですか」
「貴方よりはうんと年上です」
「ほんの数年だけでしょ? なのに私は家事や身の回りのお世話くらいしか出来ないから」
「十分です。貴方は貴方にしか出来ない事をやればいいんですよ」

そう言われて思わず目を伏せる。やがて何も言えなくなった私を、しのぶはあやすようによしよしと撫でてくれた。やっぱりこの人は聖女だ。立場に天と地ほど差があるのにここまで分け隔てなく接してくれるなんて、こんな篤行、誰にでも出来ることじゃない。私もいつかこの人みたいに優しくて人望があって、困っている人々に手を差し伸べられる人間になれたらなぁ、心の底からそう思っている。

「あっ、それはそうとななこさん」

そんな中突然のパン、という音に驚いた。跳ねた拍子に膝から転げ落ちた薬瓶を慌てて拾い上げる。何なんだいきなり手を叩いたりして。ムッとして顔をあげればしのぶはニコニコと手を合わせていて、どうやら気になる事を思い出したらしい。こっちをジロジロと観察するように見ている。

「な、なんでしょうか」
「あの噂は本当なんですか?」
「噂? ……噂って?」
「また恍けたことを。時透君とのことですよ」

その名前に一瞬どきりとはしたものの、噂の話が何なのか分からずきょとんと首を傾げる。対するしのぶはおほほとなにやら意味あり気な様子で、その表情はさっきまでの尊いものではなくまるで悪神が乗り移ったかのようである。「分かりませんか?」そう聞かれ「分からない」と素直に答える。しばしの沈黙が流れ、和かなはずの小鳥のさえずりが今は鬱陶しくてしょうがない。やがて彼女は控えめに咳払いをすると、耳を疑うような浮評を口にし始めた。

「なにも逢引を繰り返しているとか」
「……へ?」
「隠しても無駄ですよ。みーんな知っていますからね。若いからと侮っていちゃいけないわ」
「??」

一体、彼女は何の話をしているのか。
あまりに唐突すぎて腰が抜け動くことが出来ない。それだけじゃない、背中に冷や汗がドッと湧いて滝みたいに流れてくる。肌着はびしょ濡れでひと仕事した後のよう。ああなんて気持ち悪いんだ。屋敷に戻ったらすぐ服を脱いで体を綺麗に洗い流さなければ。いやそんなことよりも、一体全体誰がこんな噂を。怒りや焦りを通り越し、これまで出会った人々の姿が猛烈な速さで浮かんでは消える。

「ど、どこで……どこで聞かれたのですか?」
「あらまぁ、否定はしないんですね」
「し、します! 急におかしな事を言わないでください」

おかしなこと? としのぶは首を傾げる。その様子からしてどうやらおかしな場所がどこなのか本気で考えているらしい。論理的な彼女の行動に思わず唇を噛む。こんなしがない女の噂なんて放っておいてくれ! そう叫びたい気持ちをうんと堪えながらも、次何を言われるのかとハラハラしながら身構える。
そしたら、

「何もおかしなことは言っていませんよ。彼が会いに来ているのは事実でしょう? 時透邸から貴方の屋敷まで一体どれだけ距離があるかご存じですか?」
「し、知っています! でも無一郎様がいらっしゃるのはうちが担当警備区域内にあるからで」
「それはどうでしょう」
「どうでしょうって……」
「私は担当医なので時透君のことがよく分かります。今は記憶を失っているので読み辛い部分もあるかと思いますが、彼は頭が良く無駄な行動は一切取りません。つまり非常に合理的です」

彼女は裏付けを交えながらも話をどんどんと掘り下げてくる。そんな理屈っぽく言われては反論の余地がなくなってしまう。しかもそれだけでは飽き足らず、「その上で言わせてもらうならば」と持論を重ねようとする。

「自分の邸宅へ帰ればいいものを、わざわざ藤の花の屋敷で寝泊まりをする。その上行くのは決まって貴方のいる屋敷なのだとしたら、彼の中にはそれ相応の理由があるということです」
「それ相応の、理由?」
「例えば居心地が良いとか、ご飯が美味しいとか……あるいは貴方に対し好意を持っているとか」
「!」

まぁ本人に自覚は無いみたいですが。そう言っては口に手を当てうふふと微笑んでいる。かたやそれ以降何も言えなくなった私は、恥ずかしいやら動揺するやらで挙動不審に陥ってしまい本日二度目、膝から大切な薬瓶をまんまと落下させた。パリン、と音が鳴り液体が床へと流れ広がっていく。

「あら、大丈夫ですか? ななこさん。……おーい」
「……」

破片が刺さってやしないかとしのぶは心配してくれている。でも衝撃的な話を耳にしてしまった今、彼女の声は最早私の耳には一切届いてはいない。
言われてみれば、どうして無一郎は毎回うちの屋敷に。ふわふわした意識の中で今までの無一郎の行動を思い返してみる。夜出歩く時は言えっていわれたり、他の奴には構うなって理不尽な要求をされたり。かと思えば、風邪の時ずっと傍にいてさりげなく見守ってくれていたり。今思えば、そのどれもがしのぶの言った最後の理由に当てはまるような気がして目の前がくらくらする。そして、床に溢れた霞色の液体へふと視線を移した瞬間、まるで連鎖したように過去の光景が鮮明に脳裏を過ぎていった。無一郎に助けられた日や一緒にお団子を頬張った日、他愛もない話をした平凡な日まで。そのどれもが楽しくて幸せで、かけがえのない思い出だったと気付かされたとき、何とも言い表しようのないもどかしい気分に陥り無一郎を見る目が著しく変化した。

「(ああ、どうしよう。顔が緩んじゃう……)」

でも、もしこれが全て事実だとするならばこれから一体どう接したらいいのだろう。鈍感なくせに人一倍緊張しいだからまともに顔を合わせることなんて出来なくなるかもしれない。ましてや会話したりご飯を食べたり身の回りのお世話をしたり。あまりの難易度の高さに思わず両手で顔を覆う。

「――、もしもし。ななこさん、聞こえますか?」
「? あっ……! ご、ごめんなさい」
「大丈夫ですか?」
「はい……多分」
「では念の為言っておきますが」
「……は?」

だが、今までのはほんの序章にすぎず。彼女の悪戯はここからが本番だった。
警戒する私に顔を寄せ何を言い出だすのかと思えば、不気味なほどの満面の笑みで「時透君、もうすぐここへ来ますよ」なんて悪魔の如く囁いた。いきなりのことで状況をのみ込めない私。でも頬を突っつかれ指差された方を見れば、診療予定欄にははっきりとした字で『時透無一郎』と記されている。それをしばらくまじまじと見つめ、ようやく頭で理解したその瞬間、私は今度こそ、込み上がる感情を爆発させた。

「どうして黙っていたんですか!」

ひどい、あんまりだ。私は泣きべそになりつつも残りの薬瓶を持ち椅子から立ち上がる。ああ悔しくて堪らない。だけどこれ以上、好き勝手からかわれるのはもう御免だ。半ば投げるように礼を言い残すと、「今は出ないほうがいい」というしのぶの忠告を無視し部屋をバッと飛び出した。

だが、視界は即真っ暗闇に。「ぅぶっ…!」とまぁひどい声が漏れる。避ける間もなく何かとぶつかった身体は、反動で後ろ方向に弾かれそうになった。ほれ見たことかと背後からは苦言が。しかし思っていた衝撃は来ず、代わりにやってきたのは軽く抱き留められる優しい感触。目を開ければ隊服の黒が見えて、もしや怪我人かと慌てて顔を上げれば、そこにいたのはまさかのあの人で――。

「む、む……」
「どうしてななこがここに」

ああ、どうしよう。ものの見事に鉢合わせてしまった。顔を見た直後から心臓が物凄い速さで音を鳴らし始める。落ち着け、落ち着けと言い聞かせても一向に収まる気配はない。これだけ近いと鼓動が伝わってやしないだろうか。焦りや恥ずかしさもドッと押し寄せて最早平常心じゃいられない。かたや無一郎は私の顔が赤いのに気付き「ん?」と疑問符を浮かべている。まずい。これじゃ明らかに不審だ。誤魔化そうと目を逸らしても、それすら不自然に見えてしまう。

「どうしたの」
「や……あの、別に何も」
「身体が物凄く熱いんだけど」
「っ! か、風邪を……私また風邪を引いてしまって」

ちゃんと喋りたいのに、どう頑張ってもしどもろどろになる。終いにはそんな自分が情けなさすぎて薄っすら涙が溜まり始める。後ろではしのぶがうふふと笑い声をあげているし、もう今日は散々な日だと自らを哀れむしかなかった。その上、

「離レロ! 図ニ乗ルナ!」
「やっ、ちょっとやめて! 痛い、痛い!」

銀子ったら、決してわざとじゃないのに私達の間へ割り入ってはくちばしで頭を突付いてくる。一方の無一郎はというとただぼーっと突っ立ったままジッとこっちを見ているだけ。もう駄目だ、これ以上この人達と一緒に居たらきっとどえらい事になってしまう。心情を掻き乱され最早爆発寸前に陥った私は、思い切って霞柱様を押し退けると、その場から一目散に逃げ出してしまった。






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