私という人間を一冊の本にまとめたとして、それを自分ではなく第三者が執筆したとしたら、きっとそこには天才だの何年に一人の天才だの、孤高の天才だの、きっと天才のたたき売りをされるだろうって事は、自分が一番分かっていることであるからして。きっと、私が一番望んでいるものを欲しがっても、誰にも与えられず、それすら無意味であるというのは、嫌というほど教えられてきた。
だからといって悲観などした所で、なんの役にもたたないし、つまらないなぁと気づいたのは幼稚園で砂遊びをしている時で。まぁ確かに天才なんだろう。
この青葉城西に入学すると決めた時、学校側と話し合いになる程度には。

我が校と篠原さんとでは学力が釣り合わないだの、もっと見合った場所があるだの、うるせーよと言いたかった。家から近くて、学力やその他もろもろで学費免除の所ってここしかなかったのだから仕方ない。公立だって、今や無料らしいが、そういう細かい事は抜きにして、同じ無料なら過ごしやすい設備が整ってる方がいいと思うは普通ではないのだろうか。まぁなんやかんやでもう3年になるわけで、後1年のんびりとしていればいい。これが一番難しい事なのだけれど。

『十で神童十五で才子二十過ぎては只の人』

この言葉に救いを求めた所で、どうやら私の人生、20になっても変わりそうにはない程度にはいやな設計をされているようだ。
ぐーっと伸びをして空を見上げる。高い所は澄んでいる気がして好きだ。だから、学校では屋上が一番好き。田舎の空気って美味しいから、なおいい。







俺という人間を一冊の本にまとめたとして、それを誰かが執筆したら、きっと内容は人当たりがよくて、何をやってもさまになって、バレーでは努力はしているだろうけれど、才能があって周りに比べれば大した苦労もなく色んなものを習得していく天才とか、そんな事が書かれているのだろう。誰が天才なんだよって話だよね、ほんと。

そりゃ確かに、努力してるぜ!とか思ってないけれど、当前のことをしてるだけであって。まぁそれでないものを持ってると思われるのはいいけれど、でも、俺のどこが天才なわけ?って正直思う。
上手く装ってるだけで、分かる人には俺が凡人だって一発でばれる。荒が出ないように必死に補って、澄まし顔で何事もそつなくこなして、波風立てないように立ち振る舞って、それで?その先は?
ないでしょ、あるわけがない。だって俺は天才じゃないんだから。
その先にはいけない。行く資格がない。持っていない。なんかの手違いで、そこに行ったって、何をどうしても越えられない壁に押しつぶされるだろう。分かってる。
だから、俺は天才ってやつが、どうしてもいけすかない。だって、俺がどんなに望んでも、何を犠牲にしても手に入れないものを簡単に手に入れて、そしてその価値を分かっていないのに、当然のように使うのだから。

ね、好きなものに限って、欲しいものが手に入らないのはなんでだろう?
まぁそこからもぎ取っていくのは楽しいし、その過程も辛くとも面白いからいいんだけどさ。
ああ、でも、もう3年になるのか。
きっと、今このときこの瞬間以上にバレーに全力を注げる日々はないのだろう。大学でも続ける気ではいるけれど、大学でも大会はあるだろうけれど、やっぱり高校で、インハイで、春高で、今のチームで全国へ挑戦するというのは、価値が全く違う。
とまぁ何やかんや言いつつ、結局はしょうがない事が多い。しょうがないって言葉は好きじゃないけれど。

取り敢えず、なんか今日は疲れた。モチベーションが上がらない。でも、部活までにはあげなくちゃいけないから、しばらくは一人でいたい。屋上は好きだ。解放感があって。ぼけーっと給水タンクの横で横になっていれば、がちゃりという音が聞こえた。誰かが来たんだだろう。無視するけれど。っと思っていたら、やってきたのは篠原葉月だった。あーマジか。くっそ、余計モチベーションが下がった。



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