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仮の、仮の話よ、と彼女は云った。そんなふうに冗談をまるで本当にそう思っているかのように話すのは彼女の悪い癖だ。
「もしも私が、あんたを好きだったって云ったらどうする?」
カラン。音を立ててアイスコーヒーのグラスの中の氷が割れた。それからすぐに彼女の細くて長い指が伸びてきて、薄くなったアイスコーヒーの中をかき回した。汚いなどと思う間はなかった。その動作にただ魅了された。
彼女の指についた整った形の爪には真っ赤なマニキュアが塗られていた。その赤は濁ったアイスコーヒーの中でもよく映える。グラスの表面にある水滴が音も無く流れていった。
「盛大に笑ってやる」
声が震えなかったことに安堵した。だよねえ、と笑った彼女はアイスコーヒーから細くて長い指を抜き取り、当然のようにそれを口元へ運んで奇麗な舌でアイスコーヒーの滴りを丁寧に舐め取った。
なまめかしい、なんて思うそんな動作は、見てはいけなかったような気がして視線を反らしたのに、後ろで一つに束ねられたことでより際立つ首の細さも、ノースリーブのワンピースから惜しみなく披露される白い肌も、全て見てはいけないものに部類されているように思えて、宙をさ迷った視線は結局、氷が溶けて薄まったアイスコーヒーに注がれることとなった。
人知れず漏れた小さな溜息に背筋がぞくりとする。
「私さあ」
彼女の指はグラスの淵で踊る。
「家出るんだ」
ふうん、と云った。それからなんでもないというふうに知ってると云った。
「新見の姓、捨てるんだ」
もちろん俺は、知ってると繰り返した。だって知っているのだ。彼女が結婚することも妊娠していることも海外に行ってしまうこともそして、俺のこの想いが永遠に終わらないことも、俺は全て知っている。
美しい指。その薬指に真っ赤なルビーの指輪が嵌まっていたことも随分前から、俺は知っていた。
20101229
20110817
これをゴミ箱行きにさせた理由が思い出せない