ss | ナノ


百八つだ。
私に殺された物語の数は、今ので百八つになる。

黒岩さんにそういってみると、彼女は呆れた。

「先生、締め切りはあと二日ですよ」
「黒縁眼鏡がよく似合うね、黒岩さん。もしかして名字の黒とその眼鏡の色、かけてるの?」
「本当に契約切られますよ」
「あとその黄色いカーデ、素敵だね。全然似合ってないけど」
「訂正します。契約切るように編集長に言ってきます」

くるりと回れ右をして歩き出す黒岩さんの後ろ姿が、私は好きだ。
彼女の黒い髪、切りそろえられた襟足、薄いストライプのワイシャツに似合わないカーデ、きちっと穿いた薄色のパンツは、彼女の綺麗なお尻のラインを鮮明に見せてくれる。
ただ、せっかくの黒縁眼鏡が見られないのは残念だけれど。

「あ、今夏目漱石が降ってきた!今なら書ける、書けるよ黒岩さん!待って!今書くから!待ってて!!!」

折り畳みの椅子に逆に跨り思い切り叫ぶと、黒岩さんはまたもやくるりとまわれ右をして、ツカツカツカと、私のとっても近いところまで寄ってくる。
黒岩さん、眼鏡ぶつかっちゃうよ、眼鏡。

「先生、」
「黒岩さん、眼鏡あたってる、今顔に眼鏡あたってる」
「先生は夏目漱石嫌いですよね」
「いやあ、黒縁さんは私のことなんでも知ってるねえ!私マスターだね、黒縁さんは!」
「黒岩です」

少しばかり顔を離して、うわ、黒岩さん今の顔、とっても可愛いよ、と真顔で言ってみると、彼女もまた無表情に、先生髭生えてますよ、という。
そんな対決に冷静さを失ったのはもちろん私の方で、慌てて洗面所に駆け込んで顎を確認し、ちょろちょろと顔を出し始めていた髭を剃った。そういえば最近、髭剃るのサボってたなあ、と反省をしながら仕事部屋へ戻るとすでに黒岩さんの姿はそこには無かったのだった。

「黒岩さん!!?」

バタバタと廊下を走る。その先にいた、玄関に座って靴を履いていた黒岩さんの後ろ姿は、あまり好きじゃない。大好きなお尻のラインが見えないから。
そういうと黒岩さんはたいてい六法で私の肩を殴る。六法はいつも黒岩さんのかばんに常備されている。
私は背が高いから、彼女は六法で私の頭を叩けないので代わりに私の肩を殴る。
黒岩さんは黒縁眼鏡を掛け直し、腕時計を確認しながら立ち上がった。

「先生、何度も言いますけど、締め切りはあと二日です。もう伸ばせませんからね」

釣り目がかわいい。黒岩さんは、本当に。

「大丈夫、もう煩悩は払ったから」
「ああ、百八つ、ですか?」
「黒岩さんに迷惑は掛けないよ」
「もう掛けてますけどね」

それでは、と部屋を出る黒岩さんを見送って、仕事部屋へ戻る。
指定の椅子に着き、パソコンは閉じて数千枚の原稿を広げた。
締め切りの前、私は百八つの物語を殺す。
原稿にさっと目を通して、それらをまとめて火をつける。
燃えていく原稿と、私の煩悩。
それらの灰をすべて破棄して、初めて私は最初の一行を書き始めることができるのだ。



20110724
先生は男です。一応

「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -