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馬鹿だというだろうか。
全てを放棄して、俗世を捨てた私に、あなたは馬鹿だというのだろうか。

大学に通うのも三年が経とうとしていたあくる日、私は大学を辞めた。
入学直後から親しくしていた友人にも、両親にも、仲の良い兄弟にさえも何も言わずに、安定した毎日と、約束された将来を、捨てた。
理由なんてなかった。ましてや夢も希望も、保証も保険もなにもなくて、あるのは漠然とした不安と、今まで世話になった人々に対する慰謝、その二つだった。

大学を辞めたその日のうちに、バイト先の久巳さんに電話をした。大学と、バイトを辞める主を告げると、焦ったような声で、嘘だよね?と聞かれた。誰もいないワンルームで携帯を握る。嘘じゃないです、と声が震えた理由は、やっぱりなかった。

世界を見たかった。
この目で。

あなたは馬鹿だというと思う。世界を見る前に、自分さえ見ることができない私を、あなたは馬鹿だとなじるだろう。
むしろそうしてほしい。私はずいぶんと馬鹿で、愚かで、浅はかだ。理解している。それでもどうしようもできなかった私のことを、あなたにはきちんと叱ってほしい。

大学を辞めて数日間のうちに、携帯を解約したり、荷物をまとめたり、部屋を引き払ったりした。友人に借りていたDVDも返した。いらないものは売りに出した。通帳を解約すると、結構なお金が手元に残った。

部屋をなくしてしまったので、ネットカフェで寝泊まりをすることにした。狭くて臭くてうっとおしいが、そんなに悪いところじゃない。
その間に、オーストラリアへ飛ぶための準備をした。この国は、入ることは簡単なのに、出るのはとても難しいから。

出国は六月の初めにした。
それまでに、家族と、親しくしていた友人数名に手紙を出した。こんなことをして申し訳ないということ。恩は必ず返すということ。オーストラリアへ行くということ。こんな私を、許してほしいとは言わない、ということ。そして今後は、連絡を絶つつもりだということ。

オーストラリアへ行くことは、楽しみでもなんでもなかった。
この国を出ることさえできるのなら、どこへ行こうとかまわなかった。それでも選んだ理由があるのだとすれば、やはり、あなたがあの国を第二の故郷だと言っていたからだと思う。

海がきれいだと、あなたは言った。
オーストラリアの海はとてもきれいで、惚れてしまったと。
いつの日かともに行こうと、あなたは言ったのだ。私に。
あなたが忘れてしまっても、私はちゃんと覚えている。

出国の日、空港に母がいた。連絡の手段を持たない私のこの計画が母にどういった経路で知れたのかはわからない。でも母はそこにいた。そして母は私の姿を認めた瞬間に泣いて、私を殴って、勘当する、と告げた。
「帰ってきても、もうあんたにうちの敷居は跨がせない。どこへでも行けばいい。ここにあんたの帰る場所はない」
母は泣いて、私を抱きしめた。私も母を抱きしめた。後戻りはできないのだと、久方ぶりの母の温もりの中で感じた。

こんな私を、あなたはどう思うだろうか。
もう戻ることのできない私に、それでも戻れと叱るのだろうか。あなたはどう考えるだろうか。今の私を、私のことを、あなたは、あなたは。


オーストラリアはひどく美しかった。
あなたが惚れたと言っていたあの海も、空も、空気も何もかも、私にはもったいないくらい、美しかった。

できることなら、あなたと、あなたとこの世界を共有したかった。
世界を見たかった。

こんな私を、あなたは馬鹿だと笑うだろう。
俗世を捨て、全てを放棄したにもかかわらず、あなたのことだけを捨てることが叶わなかった私を、あなたはきっと、馬鹿だと笑う。


それでも構わない、と今ならば思えるような気がする。


20110724
20120203 修正

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