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父が泣いた。
母が死んだときも、兄が消えた時も泣かなかった父が、泣いた。
あらしの夜だった。

私のちいさな村では、市原家といえば相當な名家だった。
製糸工場を営んでいた父は厳粛な人であったが、私と兄は自由に育てられた。そんな私たちはたびたび問題を起こしたが、家の中ではもちろんのこと、外でも、市原家の子供といえばたいてい何でも許された。
そういう時代でもあった。

私が十三になるころだろうか、母が、死んだ。
もともと病弱だった母は、私が幼いころから日に日に衰弱していたが、ある日死んだ。
いつかこんな日は来るのだろうと、私も兄も考えていたから、哀しくなかったし泣きたいとも思わなかった。父も泣いていなかった。

十六になるころ、兄が消えた。
行方不明となった兄はこれまでもひどく自由な人だったので、このちいさな村に留まるほど小さな人間でないことは判っていた。
父は老いていたが厳粛は変わらず、けれども私たちの生き方に異論することはなかった。
二人きりになった大きな家の中で父は、哀しみも泣きもしなかったが、淋しいとだけ、言った。
父の本音を聞いたのはそれが初めてだった。
母が死んだときと同じ顔をしていた。

床に臥せた父に、入籍を報告したのが二十五になったつい昨日のことだ。
製糸工場はとうの昔に潰れており、私は家を出て海外で自由に暮らしていた。

古びた薄い布団に横たわる父の隣に正座する。
久しく見ていなかった父はひどくやせ細り、頬は殺げまるでミイラのようだった。
以前の面影など、なかった。
けれどその枕元には、私と兄と父と、そして美しい母が写った写真が一枚飾られていた。

「父さん。」

父の容姿はまったく変わっていたが、その瞳だけは変わっていなかった。
まっすぐに天を見つめる父は、微動だにしない。

薄い窓の外では雨風がそれを叩き、あらしの大きさを物語っている。

「午前には明雄が来た。」
「…はい。」
「夜にはお前が来るので、驚いている。」

父はそう言った。
今にも折れてしまいそうな声だった。

「お父さん。」
「……。」
「今日は父さんに、許可をいただきに参りました。」
「……希世子。」
「はい。」
「自由に生きなさい。」
「……、」
「希世子。」
「…はい。」

父は動かなかった。
先ほどと同じように天だけを見つめ、私を見てはくれなかった。あるいは父はもしかすると、見ることができないのかもしれなかった。

「幸せに生きなさい。」

父は泣いた。

母が死ぬ時も兄が消えた時も泣かなかった父が、泣いた。
ああ、そうか。
そうか、そうかと、私はこの人のように、うれしいときにだけ流れる涙もあるのだなと、そのとき初めて知ったのだ。

あらしの過ぎぬその日のうちに私の隣で父は死んだ。

私は泣かなかった。



20110423

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