Sabito



学生の本分である学業を終えた後の放課後といえば、部活に打ち込んだり、友達と遊びに行ったりと有意義に過ごす者が多い中、名前は剣道場の裏で退屈そうに小説のページを捲りながら待ち人を待っていた。じりじりと焦がす真夏の太陽と違い、三月の太陽は人を包み込むかのような優しい温かさを届けてくれるから外で待っていても苦にならない。ここが縁側だったなら、飼い猫と共に横になって微睡の中に落ちていたに違いない。それぐらい心地よく、思わずうとうとしてしまうような陽気だ。一度瞼を閉じてしまったが最後、集中力が切れた名前はついに小説を閉じて鞄にしまった。決して飽きたのではない、気候が悪かったのだと言い聞かせて。

さて、本格的にやることがなくなってしまったが、急に待ち時間が進んでくれるわけもなく、何か面白いものを発見すべく周りに目をやった。幾度となく通ったこの場所に未知などないことは重々承知の上だ。そうでもしていなければ意識を保ったまま待っていられそうもないのだから仕方がない。持たれていた壁から反動をつけて姿勢を正すと、天に向かって大きく両手を上げて身体を伸ばした。両手の先には雲一つない快晴と、手のひらを広げるように大きく張り出した桜の枝がある。春がもうすぐそこまで迫っているのか枝の先に着いた蕾は大きく膨らんで今にも零れそうになっており、二週間後に控えた入学式には満開を迎えることだろう。在校生の名前には関りのない行事であるが、同じく桜を連想させる卒業式が脳を過ると、定番の桜の歌が独りでに頭の中を流れるぐらいには一年後の情景が容易に浮かんだ。お世話になった先生方に名前を呼ばれて卒業証書を貰い、別れの歌を歌って、桜吹雪が舞う校庭に列を作り胸を張って歩く。アルバムにメッセージを添えて、写真を撮って、連絡先を交換して、ずっと好きだった人に告白なんかしたりして。思い思いに過ごし、校門をくぐれば慣れ親しんだ校舎ともさよならだ。毎日顔を合わせた級友とも簡単には会えなくなる。肩を抱き合って別れを惜しむ後ろ姿に鼻の奥がつんとした。


「きっとあっという間なんだろうな。」


高校三年生ともなると本格的な受験シーズンも到来し、思い出を作る時間は限られてくる。一日一日を大切に過ごさなければ、後で振り返った時に後悔してしまいそうだ。勿論新たなる門出への期待もあるのだが、どうにも独りだと悪いことばかり考えてしまう。そんな感傷的になっていた名前の心を突然聞こえてきた威勢のいい掛け声が切り裂いた。ほぼ同時に竹刀が勢いよくぶつかる心地のいい音には来年の話をすると鬼が笑うと、少し遅れて上がった黄色い悲鳴には青春を謳歌せよと言われている気がした。

剣道場の裏には入り口も窓もないため中の様子は伺えないが、起きたことには大体予想がつく。待ち人が相手から一本取り、見学に来たファンの女子達が燃え上がったのだろう。練習試合でもないのに人を集めるとはアイドルさながらの人気ぶりである。中等部から高等部までさることながら、一か月前のバレンタインは他校からも見学に来てチョコレートを差し入れする女子の姿を見た。顔を赤らめながら渡す彼女達の後ろを偶々通って帰ろうとした名前にわざわざ手を振って大きな声で、気をつけて帰れよなんて言うものだから刺さる視線に殺されそうになり走って逃げたのをよく覚えている。ただでさえ普段から近くに居るせいでやっかみが絶えないのに、わざわざ火に油を注ぐような真似をしなくてもいいだろう。ただ友達を気遣うセリフでも、彼の口から出るだけで彼女たちにとっては特別なのだ。本人は至って無自覚なのだから怒るに怒れない。案の定次の日から一週間は休憩時間毎に呼び出されてあんたは彼のなんなのよと問い詰め寄られたが、名前の方が聞きたかった。私は彼のなんなのよと。中等部から現在に至るまでずっと同じクラスの腐れ縁で、ちょっと仲のいい異性の友達なだけ。彼女だと間違われる謂れはないはずなのに。

そんな女子達の攻撃に耐えながらも、名前が彼を待つ理由は部活終わりまで待っていてくれと言われたからだった。律儀に従ってしまう名前も名前だが、面を被って相手の動きを見定める時のような真剣な瞳で射貫かれてしまっては誰しもが首を縦に振っただろう。約束を破って帰るわけにも行かず、人目に付かない剣道場裏で部活が終わるまで時間を潰すことにしたのだった。

上がる歓声が次第に小さくなっていって、バタバタと足音が聞こえるようになった頃にはすっかりと陽が傾いて道場壁に張り付く影が伸びてきた。冬に比べて随分と日の入りが長くなったものだ。まだ空は明るくても決められた時間内で終了するのが部活動で、そろそろ片付けて着替えに入る時間のはずだ。果たして彼が更衣室の外に押しかける女子達の間を抜け出てすぐに撒いて来られるかは分からないが、立ち尽くしたままで足腰が限界なので出来るだけ早くして欲しいものだ。


「悪い、待たせたな。」
「…もっと遅いかと思ってた。」
「校舎に忘れ物を取りに行くと言って走って撒いてきた。正直部活より疲れたよ。」


息を切らせて鞄をリュックのように背負った彼、錆兎の頬には一筋の汗が垂れていた。ポケットから取り出したハンカチで拭ってやると、ありがとうと言って瞳を細める。鍛えている彼が息を上げているということは、校舎を全力で一周して裏口から出て剣道場まで見つからないように走ってきたのだろう。女子達が帰るのを見届けてから来た方が労力はかからないのに、待たせている名前を気遣っての行動だ。色男と呼ばれる所以が分かった気がした。


「校門のあたりにまだいるはずだから、ここで少し時間潰しに話をしていいか。」


鞄を肩から降ろして地面に置いた錆兎はしゃがみ込んで名前に手招きする。誘われるがまま幼子がひそひそ話をするように身を寄せ合うと、汗と制汗剤の匂いが名前の鼻孔を擽った。運動後の男の子の香りは想像よりも汗臭くなくて爽やかだ。消臭ミストのテレビ広告に誇張したイメージを刷り込まれていたのかもしれない。汗に濡れた首元をじっと見つめていると、視線に気づいた錆兎が急に名前の方を向いたことで二人の顔の距離はぐっと縮まる。


「わ、悪い!」
「私の方こそごめん!」


揃って勢いよく顔を背けて口元を手で覆った。普段生活している中で異性とこれほどまで顔を近づけることなどない名前には刺激が強すぎる。夕日に照らされても分かるほど赤くなった顔は隠せても、耳は隠せていない。それは錆兎も同じだったようだが先に平然を取り戻し、鞄のジッパーに手をかける。ゆっくりとファスナーを下げることで発生する金具の擦れる独特な音が不思議と名前の頬に溜まった熱を解放させた。人の鞄の中身を見てもいいものか若干の戸惑いはあるも、見える位置に置くあたり見てもいいものなのだろう。覗き込めば、整頓された鞄には教科書や弁当箱の他に、素行のいい彼からは珍しく淡いピンクの紙袋が顔を覗かせる。錆兎は傷がつかないよう丁重に取り出すと、名前の目の前にそっと掲げた。


「バレンタインのお返しだ。」
「……誰に?」
「俺の目の前にはお前しかいないが、それともなんだ?幽霊にでも渡しているように見えるか?」
「見えないです…。」
「ならば受け取ってくれるよな。」
「ええ、でも…。」


中々受け取ろうとしない名前に痺れを切らした錆兎は名前の膝の上に紙袋を押し付けるようにして置いた。視線を真下に落とせば開いた紙袋から中身が露になって、袋と同じピンク色のリボンがかかった小さな箱が入っていた。誰が見ても分かる明らかに気合の入ったお返しに、やはり渡す人を間違っているのではないかと視線を錆兎と紙袋との間で行ったり来たりさせる。挙動不審な姿に、錆兎はいつまで疑っているつもりだと大きなため息を吐いた。

名前が中等部一年生の時から、毎年バレンタインにはチロルチョコやコンビニで売っている大袋のお菓子の中の三粒といった義理チョコ感万歳のチョコレートを錆兎に渡していた。またこれか、なんて錆兎は言いつつも必ず受け取ってはそれ相応のお返しをくれた。これは二人にとっての恒例行事であり、今年も変わらず執り行われると名前は確信していた。なのに返ってきたのは義理へのお返しとは言い難いピンクの紙袋で困惑するのも無理もない。ただ、去年と違うところを挙げるとするならば、名前自身も既製品のチョコレートではなく手作りのマフィンを渡したことだろうか。友人に、安く沢山の人に渡すなら手作りしたほうがいいよと言われ、まんまと乗せられた結果錆兎にもそれが渡ったのである。味にはそこそこ自信があれど、柄のない透明なビニールに包まれてメッセージを添えられてもいない量産型のマフィンは、名前にとっては手の込んだ義理のつもりだったのだが、受け取った錆兎は義理だと感じなかったのかもしれない。勘違いから用意されたお返しを受け取るには申し分なく、汚れる前に返そうと袋の端をそっとつまむ。


「あのね錆兎、マフィンなんだけどね、」
「ああ、とても美味しかった。貰ったのに感想を伝えるのをすっかり忘れていてすまない。」
「そうじゃなくて、」
「今度部活の差し入れに持って来てくれないか?試合に勝てる気がするからさ。」
「お願いだから話を聞いて!」


わざと名前の言葉に被せるように喋る錆兎を制するには声を荒げるしかなかった。それは流石に予想できなかったのか錆兎が怯んだところですかさず義理だったことを告げて錆兎の胸元に袋を押し付けた。ちくりと心が痛む。義理と疑わず用意してくれた錆兎へと、仮にも一度受け取ったお返しを返すような失礼極まりない行動をとっている自分に。紛らわしいことをするなと怒られる覚悟をしていたのに、錆兎は俯いて肩を震わせたかと思えばくつくつと喉を鳴らすだけに堪えきれず笑いだした。何処に笑いだす要素があったのか分からず頭上に疑問符を浮かべていると、ひとしきり笑って満足した錆兎は大きく一つ咳ばらいをする。


「分かってたよ義理だって。」
「それなら何で!」
「…義理に本気でお返ししてはいけない決まりはないだろう。そろそろ暗くなってきたし帰るぞ。」


腰を上げて鞄を再び背中に背負うと紙袋を片手に下げ、名前に向かって手を差し出した。厚く豆の出来た手のひらに小さい自分の手のひらを重ねると、ぐっと力強く引っ張り立たされる。


「これは名前に俺が送ったもので間違いないし、返されても困ってしまう。だから受け取ってくれるな?」


錆兎は握った手を開いて名前の手のひらに紙袋の取っ手を通すと、指を優しく折り曲げてしっかり握らせた。絶対に受け取らせると意思の持った行動に名前も流石にもう返す気にはなれなかった。いや、気になれなかったというより、放心状態だったと言った方が正しいか。名前の脳内には"本気のお返し"と言った錆兎が耐えずリピートされており、ショート寸前まで追い込まれている。それもこれも錆兎の狙い通りなのだが、名前は気付かない。揃って剣道場裏を後にする頃には学生の姿はすっかり無くなっており、先生に見つからないようこっそり門をくぐるのであった。


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