Giyu Tomioka



がやがやと煩い居酒屋の一角で、名前はただひたすら甘い声色で愛の言葉を囁き続ける冨岡に迫られ続けていた。可愛い、好きだ、付き合ってくれないか。恋愛のテンプレートともいえる口説き文句に精神的にも肉体的にも限界が近づいていた。横を向けば整った顔、下を向けば膝に乗せられた手、壁に追い込まれてるように隣に座られてしまっては逃げ場はない。少しでも席を離れようものなら冨岡の手に動きを制するかの如くに力がかかる。サテンのスカートの上から揉むように撫でるしなやかな指が中年男性のものならば今頃悲鳴を上げていたに違いない。だからと言って、美丈夫なら許されるといった話でもないのだが。

顔色こそ変わらないが、肩と肩とが触れ合う至近距離で言葉を発する冨岡の吐く息には濃くアルコールの香りが入り混じっており、かなり出来上がった状態にいるのは明らかだ。口数が少ない冨岡が酔っていなければこれほどまで絡んでくることもないだろう。そもそも冨岡と名前の関係は錆兎と真菰を通じた友達の友達止まりであるのだから。

今日も初めは冨岡は錆兎に誘われて、名前は真菰に誘われて引き合わされた壁際のテーブルで四人で飲んでいたのだ。グラスを片手に運ばれてくる料理に舌鼓を打ちながら、近況報告をしたりして楽しくやっていた。とはいえ会話の中心は冨岡を除いた三人で、冨岡はグラスに口を付けながら相槌を打ったり錆兎に話を振られて一言で返す程度に留まる。こうして四人で会うのは十を超える回数になっているはずなのに、冨岡と二人でまともに会話をしたと数えられるのは一桁がいいところだろう。元々口数が少ない上に大抵は居酒屋で会うことが多く、食事をとりながらの会話を苦手としている冨岡と話すのは至難の業だ。名前から積極的に話しかける勇気は出なかった。同じ男性でも錆兎は気さくに話しかけることが出来るのに、何故か冨岡には目を合わせるだけでも緊張してしまうのだ。


「誰のことを考えている。」
「…えっ、な、何で?」
「……先程から上の空だ。」


酔っ払いの戯言など聞き流してしまえばいいのだが、冨岡はそうはさせてくれない。はいはい、と適当な相槌を打てば聞いているのかと咎められ、分かったと言えば受け入れたと捉えられ唇を近づけられる。一つでも対応を間違えれば簡単に食われてしまうから注意していたつもりだった。名前の煮え切らない返事が面白くなかったのか、冨岡は名前の肩に摺り寄せるように頭を乗せると、拗ねていますと言わんばかりに肩口にぐりぐりと押し付けた。


「冨岡くん、そろそろ帰ろう。」
「帰らない。まだ返事を貰っていない。」


うつらうつらと意識が船を漕いでいて、何度も肩からずるりと滑り落ちそうになっては戻るの繰り返しで身体はもう限界のはずなのに中々折れてくれない。頑なな冨岡を止められる二人は終電時間を気にして引き上げてしまっている。本来ならば二人が帰宅する際に名前も帰宅するつもりだった。真菰にデザートの存在を知らされるまでは。彼女は以前もこの店に来たことがあるらしく、大方メニューの把握をしており、おすすめされた料理はどれも美味しかった。だからこそ、帰り際に言われた"デザートを食べてから義勇に送ってもらったらいいよ"という言葉に素直に頷いてしまったのだ。その時点では冨岡も酩酊していなかったしお酒が入って気が緩んでいたのもあった。あと、酔った勢いなら少しは話せるのではないかと期待も入り混じっていたと思う。

二人が店の外に出るまで見送ってから、ちらりと向かいに座っている冨岡に目を向ければそこはもぬけの殻で、いつの間にかグラスを持って名前の隣に移動していた。何故二人きりになったからといって隣り合って座る必要がある?対面の方が互いの顔が見れて話しやすいではないか。真菰より近い位置で、少しでも足を開こうものなら膝と膝が触れ合う距離に、緩んだ気は一気に引き締まった。肩を竦め、手を重ねて膝に置き、面接さながらの委縮した姿勢でちらちらと様子を伺ってしまう。隣に掛けた理由を聞きたくてたまらないのに、元凶である本人は何食わぬ顔でメニューを間に置いて何を飲むと聞いてくるものだから、何でと言いかけて開いた口は反射でレモンサワーと告げていた。それはデザートを食べてすぐに帰る計画が先延ばしになった瞬間であった。デザートを頼んだのは結局名前が二杯、冨岡が三杯飲んだ後で現在に至るというわけだ。


「寝たら連れて帰れないよ。」


本格的に瞳を閉じて寝ようとしている姿を見て不味いと思った名前は肩を揺らして起こそうとする。叩いてでも酔いを醒まさせた方が楽なのだが、酔った成人男性の世話などしたこともない名前に知る由もない。名前を呼びながら遠慮がちに肩を揺らすだけでは更に眠りの世界へ誘うだけだ。その証拠に名前にかかる体重はどんどん重みを増してきている。


「私、酔って迷惑かける人は嫌いだよ。」


痺れを切らした名前から怒気を孕んだ声が出た刹那、冨岡の瞼は上がり肩の重みがふっと消える。あまりの起き上がる動きの速さに今までのが全て演技だったのかと思うほどだ。名前が呆気に取られて瞼をぱちくりさせていると、冨岡はいそいそと置いてあったコートを着て鞄を片手に、伝票を持って金額を確認している。"嫌い"は冨岡が最も聞きたくなかった言葉であり、正気に戻させるには十分であった。


「帰る。」


バッサリと言い放って席を立つと財布を取り出しながら会計の方へ進んでいく。取り残された名前はワンテンポ遅れて置いていかれたことに気づき、コートに腕を通しながら背中を追いかける。行動に突拍子がなさ過ぎて普通なら呆れてしまうところなのに不思議と嫌いになれないのは、好意を告げられたことで無意識に補正がかかって見えているのせいなのかもしれない。追いつく頃には既に会計は終えられており冨岡は店の外で空を見上げながら待っていた。財布を取り出して立て替えて貰った分を払おうとすれば、首を振って断られる。食い下がっても決して受け取ろうとせず歩き出してしまったから、名前はご馳走様と告げた上で渋々財布をしまった。次回会った時にお菓子など受け取ってもらいやすい物を用意してお礼をするとしよう。


「家はここから遠いのか。」
「二駅だからそれほど遠くないよ。冨岡くんは?」
「二駅だ。」


たかが二駅、されど二駅。隣を歩く冨岡の覚束ない足取りに一人で帰れるのか心配になる。同じ方向なら近所の可能性が高いから送ってから帰った方がいいかもしれない。


「一人で帰れる…?送ろうか?」
「問題ない。迷惑はかけないようにする。」


よっぽど名前に言われた"嫌い"が堪えているらしく、冨岡はきゅっと口を真横に結び駅に入るまで静かに歩き続けた。終電間際の駅構内は昼間の喧騒など忘れ去られたかのように静寂で、足音が響いて聴こえるほどだ。改札をくぐり、名前は行き先を手で指し示すと、冨岡も後に着いてホームへの長い階段を下り始める。途中で電車が到着する前のアナウンスが聴こえてきて、早足で駆け下りれば、狙いすましたかのように二人の前で電車は緩やかに停止した。息を整える間もなく乗り込むと、空席の目立つ列車のドア付近の座席に腰を下ろす。


「息荒くてごめんね。いつもはここまで息が切れたりしないんだけど。」
「酒を飲んだ後だからだ。心臓への負担が大きい上に怪我に繋がるから出来ればやめてほしい。吐き気はないか?」
「ありがとう、大丈夫。冨岡くんこそ大丈夫?私より飲んでたのに急がせちゃってごめんなさい。」


心配で送るつもりでいた名前だが、優しく背中を擦られたら完全に立場は逆転してしまった。未だ顔は少し赤く、酒の匂いも変わらないのに彼元来の思いやりの心は酩酊状態にあっても変わらないのだろう。先程までの甘えていた姿とは打って変わった大人の対応にきゅんと胸が高鳴る。それから一言や二言話した気もするが、無理をするなと言われ気が付いたらもう最寄り駅だった。仄暗い駅校舎を抜けて外に出ると街明かりは消えて等間隔に設置された白色の街灯だけが照らす暗闇の世界で、一人で帰れると思っていた名前は心細くなる。冨岡を送るなんて大見えを切っていたのに、寧ろ送って貰いたいぐらいだ。中々踏み出せずにいると冨岡は心配そうに名前の顔を覗き込む。


「どうした、行かないのか。」
「思ったよりも暗かったからびっくりして…、足を止めてごめんね。冨岡くんの家はどっち?」


冨岡は少し考える様子を見せた後、こっちだ、の言葉と同時に名前の左手を一回り大きい己の右手で絡めとった。そして合意を求めぬまま意のままに手を引く。進む道は名前の家の方角とは真逆。同じ最寄り駅のはずなのに進む方向が違うだけで知らない街に見えてきて、連れていかれたはいいものの一人で帰れるのか益々不安になる。携帯の地図アプリがあると言っても心許ない。冨岡を無事に帰せて自分が帰れなかったら笑いものだ。振り払ってしまえれば不安は解消されるのに、指先から伝わる熱を離してしまうのはどうにも惜しかった。心が簡単に揺れ動いてしまうのは酒に酔っているからなのか、はたまた冨岡の言葉に酔っているからなのか回らない頭で考えても無駄なことだ。

必死に周りの景色を覚えようときょろきょろ視線を彷徨わせていると冨岡の歩みがぴたりと止まる。いつの間にか目の前には如何にも高級そうな新築マンションが聳え立っており、冨岡が手慣れた手つきでオートロックマンションのエントランスの鍵を開けていた。


「送ってやれるほどの余裕がないから連れてきたが…、すまない、やはり帰す気にはなれない。」


繋がれた手に力が篭り、自動ドアの向こうへと誘われる。口でそうは言っても抵抗しようとすれば出来る程度の力に留めるあたり、まだ冨岡は優しい。酔った男が勢いで女を持ち帰るなんてよくある話だが、まさか自らが体験することになるとは夢にも思わなかった。その場に偶々居合わせて一夜限りと割り切った間柄なら兎も角、顔見知りで共通の友人がいる間柄ともなれば今後の関係の在り方を考えなくてはならない。終わらせるのか、続けるのか。存続を選択する、即ち冨岡の好意に応えるということ。


「いいんだな?」


最終確認ともいえる問いかけに名前は首を横に振ることが出来なかった。この手を離したくないと思ったのと、熱の込められた視線から逃げられないと本能で感じたからだ。ここに来るまでに余るぐらいの好意をぶつけられて、更に優しくされたら落ちない方が可笑しい。何も言わない名前の意を汲み取ったのか、冨岡もまた何も言わず自動ドアという境界線を越えさせると足早にエレベーターの中まで手を引く。そして部屋の前まで辿り着き、性急に鍵を取り出した冨岡は勢いよくドアを開けて名前を引き入れると靴を脱ぎ散らかしたまま寝室へと導いた。

電気を付けぬまま名前をベッドに仰向けに倒し、覆いかぶさって息をつく間も与えないまま唇を重ねる。ほんのりアルコールの味のするキスを角度を変えて繰り返している内に、自然と開いた唇の隙間から舌を差し入れて歯列をなぞった。舌を吸い、絡めるのも忘れずにやんわりと性感を刺激していく。名前も動きを真似るように舌を絡めれば、冨岡は嬉しそうに目を細めて絡め返した。次第に水分量が多くなって音を立てるようになると、より一層二人の間を流れる空気は淫猥なものに変わっていく。口端から零れる唾液が惜しい。でも舐めとる余裕など与えられない。激しく求められるキスに、名前が無意識に身を捩って快感を逃がそうとすれば、すかさず腰を挟んだ冨岡の大腿に力が籠められる。滾った雄の元に雌は無力だ。互いに味わいつくしたと言える頃には名前の瞳にもすっかり熱が宿っていたが、冨岡は熱っぽさを浮かべながらも眉間に皴を作っていた。


「………酔っていて勃ちが悪い。」


これからだという時に意思とは反対に身体が反応しなくては出来るものも出来ない。折角目の前の女をその気にさせたというのに反応しない自分の身体が腹立たしい。こんなことならば緊張感を和らげるために普段よりも多くの酒を飲まなければよかったと冨岡は後悔した。男の生殺しも辛いが、女の生殺しもきっと辛いはずだ。手や舌で愛撫して発散させてやりたいけれど、どうしても名前の初めては自分でありたい。大きく一つため息を吐くと腕の力を抜いて名前の隣に倒れこみ、細い身体を抱き寄せて眠りの態勢に入る。急に臨戦態勢を解いたことで名前に嫌われやしないか心配するのは後にして、起きたら絶対に最後抱くと決めて、目の前の彼女の温もりを感じながら夢の中へと落ちていった。


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