Sabito



名前が風呂場に行って二十分ほどが経ち、シャワーが床を打つ音が聞こえてくるようになった。長いとも短いとも言い難い時間だが、先に風呂から上がって一人で待つ錆兎にとっては何故だか長く感じる。時間潰しにと読み始めた推理小説は、登場人物が出揃ったばかりで面白くなってくるのはこれからだというのに、意識は風呂場から聴こえてくるシャワー音に向いてしまう。悲しきかな男の性だ。好いた女が湯に当たっていると想像させられれば興奮せずにいられない。ましてや二か月ぶりの泊まりだ。ここ最近はお互い仕事で休日も忙しく、すれ違う日々が続いていた。外で食事をとる時間ぐらいは作っていたが、肌を重ねたのはもう随分前になる。早く触れて愛し合いたいという気持ちを表に出しては男らしくない、と錆兎は名前の前では着丈に振舞っていた。甘えるのは女の特権であって、男がすべきことではない。求められれば応えるのが男の責務だと。名前がどんな風に自分を求めるか考えれば考える程、ページを捲るペースが落ちていく。向けられる意識が完全に小説から名前に切り替わってしまったところで栞を挟み、ローテーブルに小説を置こうとすると、名前のスマートフォンの画面に通知が浮かび上がった。


「…は?」


覗くつもりは全くなかったのだが、タイミングが悪かった。表示された通知はメッセージアプリのもので、送り主は二人の共通の友人である冨岡義勇であった。そこまでならまだいい。異性とはいえ自分の知っている間柄であるし、信用もしている。しかし、表示されたメッセージは”明日は何時に来るんだ”と、逢引の約束を思わせる内容で目を疑った。冨岡は錆兎と名前が付き合っていることを知っているし、唯一無二の親友で、人の彼女を盗る趣味はないだろう。同じように彼女も浮気するような人間だとは思えない。しかしながら、彼女が明日冨岡と出掛けるという報告は一切受けていなかった。報告を受けていたとしても男と二人で出掛けるなんて勿論許しはしないが。自分に何か至らぬ点があったから義勇に相談でもしているのだろうかと考えてみても、ここ最近で思い当たるような出来事はない。それに、相談事なら義勇よりも同性で面倒見の良い真菰の方が向いているだろう。

何度画面を見ても通知の文字は変わらず錆兎の目に焼き付いて消えてはくれない。先程までの触れあいたいと愛しく思う甘い感情は塗り替えられてしまった。二人を信じたい気持ちと浮気を疑う気持ちが混雑している中、がちゃりとドアが開く音が部屋に響いた。


「お風呂あがったよ。」


タオルで髪をまとめ上げて呑気に口笛を吹きながら名前はソファに背を預ける錆兎に後ろから声をかけて冷蔵庫へと向かうと、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出してコップに注いだ。火照った身体を冷ますように喉を鳴らして一気に流し込んで息を吐く。錆兎が鬱々と悩んでいる様子など全く気が付いていない。


「…名前、明日はいつも通り夕飯を食べたら車で家まで送っていく予定でよかったよな?」


疑いをかけ続けて楽しい時間を台無しにするぐらいならばさっさと晴らしてしまった方がいい。時に人は辛い局面に追い込まれると、都合のいい想像をして何とかやり過ごそうとする。錆兎も名前からの肯定の言葉が紡がれるとばかり期待していた。そうしたら冨岡とのメッセージは綺麗に頭から消して、他の男に目移りさせないほど愛してやればいいといいと思っていた、のに。


「明日は昼には帰るよ。お互い時間が取れたから夜までゆっくりしていたかったんだけど…、ごめんね。」


期待は薄い硝子のように小突いただけで簡単に砕け散ってしまった。申し訳なさを浮かべつつも戸惑いなく告げる姿に、後ろめたさも感じないぐらい逢引に抵抗がないのかと無性に腹立たしく思えた錆兎は名前のスマートフォンを手に掴んで豪快に立ち上がると、大きな足音を立てて名前に詰め寄る。


「これはどういう冗談だ?」
「…あ、それは…。」


名前の顔の高さまで持ち上げて嫌でも目に入るようにしてやれば、初めて名前が狼狽える。沸々と腸が煮え滾るのを感じるが、怒鳴れば聞き出す前に泣いて家を飛び出すかもしれない。吊上がる眉に冷静にと言い聞かせて口角を上げ、名前から事の顛末を聞き出そうと努める。笑顔で詰め寄る姿こそ何よりも恐ろしいのに錆兎は気づかない。


「俺に黙って義勇と連絡を取っていたんだな。」
「別に疚しい話をしているわけじゃないから…。」
「逢引の約束が疚しくないとは笑わせるな。気付かれなければいいとでも思ったか?欺くには容易かったか?なあ?」


声を荒げないよう意識すればするほど反比例して口が悪くなる。結局冷静ではいられず語尾を強めて捲し立てる始末だ。反発の一つや二つすればいいものを、気圧されてか名前は俯いて黙って聞いているだけ。無言は肯定とみなす錆兎にとっては耐え難い行為であった。それでは浮気を認めたと同義ではないか。本人の口からはっきり聴いたわけではないのに頭に血が上っていては正常な判断は出来ない。


「何か言ったらどうだ?」


痺れを切らした錆兎は名前の胸ぐらを掴むと身長差から名前は爪先立ちになって顔を見上げざるを得なくなった。その目尻には薄っすらと水滴が滲んでいたが、気にも留めない。泣いて許してもらえるなどと思うな。泣きたいのはこっちの方だ。ぎりぎりと握り締める寝間着は、初めての泊まりの際に近所のショッピングモールで買った大切な思い出の詰まったものなのに破り割いてやりたくなる。掴む力が次第に大きくなるにつれて名前の目尻から零れる水滴の量は増えていき、ついには頬を伝って錆兎の手の甲まで落ちた。


「ごめんなさっ…もう、行くの止めるからっ…怒らないで……。」


嗚咽交じりの声で涙ながらに必死に訴える名前が漸く謝罪の言葉を口にしたことで少しだけ気が収まった錆兎は胸ぐらを掴んでいた手を緩める。地に足をつけた途端に啖呵を切ったように泣き出した名前を見ても、涙をぬぐう気にはなれなかった。それどころか煩わしいとすら感じる。


「さっさと泣き止んでくれないか。」
「ごめん…なさい…。ごめんなさ…い。」
「それはもう聞き飽きた。」


うんざりした口調でため息を吐きながら言うと分かりやすく名前は肩をびくつかせる。何よりも早く理由が聞きたかった。関係が崩れるかもしれないと分かっていながら他の男と出掛けるに至った理由が。ぐしゃぐしゃに濡れた顔を手の甲で拭って兎のように目を真っ赤に腫らしながら名前は胸ぐらを掴んでいる錆兎の手に自らの手を重ねる。一回り小さな手は湿り気を帯びており、かさついた錆兎の手を濡らした。


「…最近仕事で疲れてるみたいだったから、美味しいもの作ってあげたくて冨岡くんに錆兎の好きな食べ物聞いたの。」
「別に会って聞く必要はないだろう。」
「冨岡くんもよく分からない、錆兎は好き嫌いせず何でも食べるって…埒が明かなくなって錆兎を一番よく知る鱗滝さん?を紹介してもらうことになって…。」


ぽつりぽつりと紡がれていく理由を繋げ合わせていくと大体のいきさつが見えてきた。それと同時に理由を聞きだす前に怒りから捲し立てて追い詰めた自分に嫌気がさす。相手を想っての行動が裏目に出ただけで、頑なに口を割らなかったのもサプライズを諦めたくなかったからではないか。彼女を心から信じ切れていなかった己の不甲斐なさが招いた結果だ。すっと血の気が引いて恐怖を植え付けてしまった罪悪感が襲う。


「すまない…、怖かっただろう。」
「ううん、私が最初にちゃんと話せていれば良かった。」
「いや、名前は悪くない。どうか気の済むまで殴ってくれ。」
「…殴らないよ。その代わりいっぱい甘やかして。」


手を解いてぎゅうと抱き着いてきた名前の細い体躯を潰さないように慎重に抱きしめ返す。背と腰に回した手は怖がらせないように添えるだけに留めていると、名前から不満の声が上がった。いつまでも引きずるなんて男らしくないと言われてしまえばそれまでだが、別れを切り出されてもおかしくないことをした自覚はあった。目の前の幸せを二度と壊さぬよう心に誓い、ほんの少しだけ抱きしめる腕に力を込めた。


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