Giyu Tomioka



アパタイトの続き


名前が冨岡の家を訪れる名目が変わったのは初デートを終えて間もなくのことであった。以前は連絡を入れて訪れていたものの、今では合鍵を渡されて好きな時に好きなだけ出入りを許されている。恋人になってまだ一か月も経っていないうちに合鍵を渡すのは、と渋った名前に冨岡は強引に押し付けたのだ。断り切れない性格を熟知した上の策略である。会いたいけれど上手く伝えられない冨岡が呼び出す口実としてもってこいだった。まんまと策に嵌められて、週末はほとんど一緒に過ごしている。幼馴染から恋人に昇格することで関係に歪が出来るかと幾度となく心配もしたが、テーブルに並べて置かれているお揃いのマグカップが杞憂だったことを証明している。マグカップ以外にも茶碗、箸など持ち込む食器も増えて同棲とは言わないまでも、半同棲状態と言って差し支えない。

冨岡の膝の間に座りながらスマートフォンを弄っていると、腹に腕を回されて抱きしめられた。髪をひとまとめにして左に流しているから剥き出しになった項に唇が押し当てられる。そのまま角度を変えて何度もキスを落とされてくすぐったさから身を捩った。意外にも甘えたがりの一面にドギマギしているとメッセージアプリの通知が届いた。急用の可能性も考えて冨岡に構うことなくアプリを開けば、最上位に表示される母の名前とお見合いと書かれた件名。動揺からぴくりと肩が揺れてしまったことで不審に思った冨岡は、名前のスマホを持つ手に自分の手を被せて画面を見えるように引き寄せた。


「…これはどういう冗談だ?」
「え?」
「俺がいるのだから見合い話なんて来ないはずだろう。」


先程までの甘えたモードから一気に冷え切った態度に急変し背筋が凍る。そういえば恋人になってから冨岡に見合い話はどうなったと聞かれていなかったような気がする。静かに怒りを露にする冨岡に恐る恐る恋人がいると親に言っていないと告げると、更に背後からの怒りが強くなったように感じた。


「付き合って一か月も経っていない相手を紹介するのはどうかなと思って。」
「結婚を前提に付き合っているのにか。」
「ある程度結婚の話が固まったらね?逆に義勇はどうなのよ。」
「付き合ったその日に姉さんには言った。」


あまりの行動の速さに唖然としていると、別れる気が一切ないからと断言された。嬉しい言葉を貰っても名前の不安は拭えない。


「幼馴染の時よりも嫌な部分を見るだろうし…。」
「お前の駄目なところは熟知している。今更幻滅はしない。」


失礼な言い方だとは思ったが、名前も同じように考えてはいた。これだけ長い時間を共に過ごしてきて片時も離れなかったのは冨岡の全てを受け入れているからだ。それが簡単に変わるとは思えない。考え込んでいるうちに腹に回っていた腕に力が入り、無理やり立ち上がらされる。お手洗いにでも行きたかったのかと冨岡を避けて座り直そうとすれば、腕を掴まれて引っ張られるまま歩く。彼の突拍子のない行動は今に始まったことではないが、只事でないと感じたのは部屋を出る前に冨岡が車のキーをポケットに入れたからだ。どこに行くのか問う前に車に押し込まれた。


「何処に行くの?今日の夕飯の材料なら昨日買ったよね。」


無言で運転を続ける冨岡から返事を貰うのは不可能だと察した名前は車窓に目を向ける。冨岡の家の近所の地理は大体把握しているが、ひとたび車を走らせれば新しい景色だ。食い入るように見つめていれば徐々に見知った風景が目に入る。赤い屋根の家、落書きされた看板、いつも美味しい匂いがしていたパン屋のどれもが冨岡と学生時代に通った通学路で見ていたものだ。もしかしてと嫌な予感が過った頃には車が名前の自宅前に緩やかに停止してエンジンが切られた。


「降りないよね?」
「ただのドライブに見えるか?」
「ですよね…。」


中々車から降りようとしない名前にしびれを切らした冨岡は車を降り、名前側に回りとドアを開けて腕を掴んで引っ張り出す。このままでは横暴な彼氏にDVを受けているように見られる可能性がある為下手に抵抗は出来ない。渋々従って降りてから普段より少し強めにドアを閉めた。人目に付かないようにそっと門扉を開けて家に入ろうとすると、冨岡が名前を止めてインターフォンを押す。


「ちょっと!私の自宅なんだからわざわざ押す必要ないでしょう!」
「礼儀として当然だろう。」


嫌な予感は的中するものだ。冨岡は名前の両親からはよく娘と遊んでくれた男の子として映っている。決して悪いイメージではないが、いつまでも幼い頃の面影を追われても困る。名前の恋人として並び立つためには簡単に家に上がってはいけない。玄関先で挨拶を交わし、家人の許可を得てから上がる必要がある。一方で名前は、両親に恋人を連れてくるなんて一言も話しておらず、心の準備も整っていない。きちんと段階を踏んでから行いたかったなんて冨岡に言っても無駄に終わるだろう。

内蔵カメラ越しに自分の姿を認知しているだろうにインターフォン越しにどちら様?と上機嫌な母の声が聴こえてきて、もう逃げられないと悟る。名前が喋る前に冨岡が名乗ったことですぐに玄関の扉は開いた。


「あら、冨岡くん久しぶりね。また名前が迷惑でもかけたかしら。」
「お久しぶりです。いえ、今日は挨拶に伺いました。」
「挨拶?」
「名前と、…娘さんとお付き合いをさせていただいているのでご報告に。」


迷いなく喋る姿に、頼もしさと誠実さを感じて少しだけ胸が高鳴ったのは秘密にしておく。突然の訪問だったのに緊張感や不安を感じさせないのは前々から挨拶の言葉を選んでいたからだろう。どこまでも抜け目のない男だ。冨岡からの願ってもない話に気をよくした母はすぐさまどうぞと扉を開けて中に入るように促した。冨岡の半歩後ろに隠れながら歩く名前が敷居を完全に跨ぐとドアは閉じられる。

慣れた家の廊下だというのに母に連れられるまま揃って歩く。会話はなく、フローリングの板を踏む揃わない足音だけが木霊する重々しい空気の中、リビングの戸、最終関門が開かれた。木漏れ日が差し込む広い部屋の中央に鎮座するダイニングテーブルに座って新聞を読む父が三人に気づき顔を上げる。


「…義勇くんかい?」
「ご無沙汰しております。」
「どうしたのかな、改まって。」
「折り入ってお話がございまして。」


母と同様に幼い頃の冨岡しか知らない父も同じ反応を見せた。冨岡の真剣な表情から何かを察知した父は座りなさいと新聞を畳んで対面の椅子を指す。冨岡は名前の父の前へ、名前は母の前へ腰を掛けた。


「突然の来訪ですみません。本当はご予定を伺ったうえでお邪魔したかったのですが。」
「つまり急用なのだろう?」


男同士の会話が始まると、名前は固唾をのんで見守るしかない。どんな結論を下されるのだろう。いきなり押しかけて怒るような父ではないと分かってはいるが、無礼だと非難される可能性はある。しかし、元を正せば名前が親に恋人ができたと話しておけば起きなかった話だ。そのせいで冨岡が非難されたら自分が謝ろう。そして、認めてもらえなければ何度でも説得してやる。ここまで来たのだから隣に並ぶ男と共に頭を下げる覚悟は出来ていた。


「彼女の元に見合い話が何度も来ていると聞いて焦りまして。」
「…それで?」
「見合い話を寄こさないで欲しいのです。俺、…私が彼女を一生涯かけて幸せにしますのでどうか預けてくださらないでしょうか。」


部屋がしんと静まり返った。冨岡の言葉はどう考えても付き合いの報告ではなく結婚の許しを請うものである。これには覚悟を決めていた名前も呆気に取られる。初の顔見せで娘をくださいと言われて頷く父親はいないだろう。印象も悪くなったかもしれない。先程までの覚悟は砕け散り、名前は緊張した面持ちで冨岡と父を交互に見つめた。


「直球だね。」
「回りくどいのは苦手なので。」


父も流石に驚いたようで苦笑を浮かべ、真っすぐ冨岡を見つめる。冨岡もまた、視線を一切動かさず父を見つめていた。


「逆に言えば誠実、か。この挨拶を持って娘をやるわけにはいかないけれど宣言した以上責任は取ってもらうよ。」
「勿論です。」


父から握手を求める手が伸ばされると、冨岡は頷いてその手を取った。静かに見守っていた母は満面の笑みを浮かべ、見合いの話は全部断っておくわねとスマートフォンを取り出して席を立つ。一連の動作を見守った後、緊張感から解放された名前は情けなくも机に突っ伏す。


「だらしない娘ですまないね。よかったらご飯を食べて行かないかい?」
「お言葉に甘えて。」


正直に言えば冨岡の家に戻ってソファに寝ころびたかったが、今後の良好な関係の為にも我慢するしかない。その日の晩御飯はやけに気合の入った母の料理が何品も並べられ、威厳を保っていた父は冨岡に酌をされ上機嫌だった。父への挨拶で惚れ直したことは、後で二人きりになった時に伝えておこう。


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