Giyu Tomioka



日差しが傾いてきた頃、橙に染まる縁側で洗濯物を畳んでいた名前の元へ冨岡がそっと近づいてきた。日が暮れたら任務へ赴く為、先刻まで睡眠を取っていたようで、まだ寝起きで覚醒しきってないまま名前の隣に座る。二人の間に交わす言葉はなくともゆっくりと時間は進んでいく。時折うつらうつらと首を傾けて起こす動作を見せては、冨岡は名前の手元をじっと見つめていた。何の面白みもなければ、特別な畳み方をしているわけでもない日常的な反復動作である。しばらく見つめていた後、冨岡は名前の膝の上に頭を乗せて横になった。洗濯物を畳むにはこの上なく邪魔であるのだが、さして多くない冨岡からの触れあいだと思うと名前はそのままにしておいてやろうと何も言わず膝を貸す。

また眠りにつくのかと思えば、冨岡は下からずっと名前の顔を見つめていた。視線がむず痒くて、敢えて洗濯物のみに視線を集中させる。出会って数年、共に暮らし始めて数か月が経とうとしているが、未だに初恋のような初々しさが残っている。それ程までに冨岡が名前に向ける視線は一般の隊士が想像もできないくらい甘いのだ。好きだ、愛している、そんな言葉が込められているように感じて気が気でない。しかし、二人分の洗濯物とシーツは瞬く間に畳み終わってしまう。行き場を失くした手を彷徨わせていると、冨岡はそっと名前の手を取って自分の髪へと触れさせた。自らの手を被せながら数回梳き、目をうっとりと伏せる。その様子はさながら猫のようだ。


「…もっと、」


欲求を漏らした冨岡は被せていた手を退けて名前の着物の袖を引っ張った。答えるように前髪に触れようと顔に影を落とすと、横髪が目の傍まで来て邪魔をする。煩わしく思い、耳に髪をかければ先程まで目を伏せていた冨岡は目を見開いた。


「どうしたんだその傷は。」
「あ…、うーん、…ね?」


しまったと思っても時すでに遅く、名前の頬に走る一筋の赤い線を目ざとく見つけた冨岡は急に覚醒してはっきりと喋り始める。視線を彷徨わせて歯切れの悪い言葉を口にしながら耳に掛けた髪を戻そうとすれば、誤魔化すなと睨まれ身体はぴしりと固まる。蛇に睨まれた蛙とはまさにこのことだ。冨岡は慈しむように人差し指で瘡蓋になった傷を撫でた。

年の暮れの大掃除で倉庫の整理をしていたら、落ちてきた木箱を支えきれず脚立から足を踏み外してしまった。脚立の高さはそれほどなかったから大怪我には繋がらなかったのだが、受け身を取って棚にぶつかった際に頬に痛みが走った。慌てて胸元にしまってある手鏡を取り出して覗き込めば、耳から然程離れていないところに眉から口元まである赤い線が描かれていた。線の所々にはぷくりと膨れた血溜まりが出来ている。傷が残るかと血の気が引いたが、表面に浮き出た血を拭えば後から血は出てこず、見た目よりも浅い傷であることが分かった。しかし、ほっとしたのも束の間、名前の頭を過ったのは冨岡の顔であった。

冨岡は名前に対して異常なほど過保護だ。常日頃から危ないことはするな、危ないことをするなら必ず自分が居る時にときつく言われている。きっと頬の傷を見つけた途端、二度と一人で倉庫の整理をするなと言われることだろう。既にいくつかの行動を制限されている身としては、自らの失態でこれ以上行動範囲を狭められたくはない。何より、長い説教が待っていると思うと無意識に体が震える。ただひたすら責められるだけの説教は鬼も青ざめる程怖いのだ。正直に話そうか、隠し通そうか、何度も天秤を行き来した結果、般若のような冨岡の顔を思い出して隠すことに決めた。幸いにも冬場であり、髪を括らず垂らしておけば見つかることはない。かさぶたが剥がれ落ちるのを待つだけであった、のに。

とてつもない威圧感が名前の身体にひしひしと刺さる。冨岡は名前の膝から身体を起こし、隣に正座で座りなおす。名前も向き合うようにして体の向きを変えれば、冨岡の額には青筋が浮かんでいて、相当ご立腹なのが伝わってくる。


「…全然痛くないよ?」
「そういう問題ではない。大体お前は、」


危惧していた終わらない説教が始まってしまった。普段は一言二言喋ればまだいい方なのに、小言は無限に出てくるのだからこの男は。折角の温かい縁側も、聞き終わる頃には冷え切っていることだろう。途中で洗濯物を箪笥にしまいに行こうものなら、聞いているのかと怒られ説教の時間が伸びるだけだ。


「何故俺を呼ばなかった。」
「自分の力だけで十分と思ったからです。」
「では何故お前は怪我をしている。」


凄みに思わず敬語になって首を垂れてしまう。しおらしさを見せても冨岡の怒りは収まっていないようで原因を追究するかの如く何故を繰り返してくる。納得のいかない答えであればさらに掘り下げる姿は警察官の尋問に等しい。


「己の力量を見誤るな。お前は女なのだから力仕事は男に任せればいい。」
「今日はたまたま怪我をしただけで次は気を付けるから、」
「駄目だ。」
「お願い、」
「駄目だ。」


何度頭を下げて嘆願しても冨岡は頑なに首を縦に振らない。倉庫の整理のみの制限であればここまで食い下がる必要もなかったが、冨岡は"力仕事"と表現した。つまり、重いものを運ぶことすべてを指すのだと長年の付き合いから察してしまったのだ。まともに家事が出来なくなったら屋敷にいる必要がなくなってしまう。何のために存在しているのか分からなくなってしまう。断られてもなおも嘆願し続ける姿を見た冨岡は、名前の両肩をぐっと掴んで自分の胸に押し付けると強く抱き留めた。


「……お前にもう怪我をしてほしくはない。」


冨岡が執拗に行動を制限する理由は、名前がまだ鬼殺隊に籍を置いていた頃に起因する。冨岡と肩を並べるほどの実力だった名前は、柱の座に就く日も遅くないと囁かれる剣技の優れた隊士だった。その技は美しく研ぎ澄まされ、見る者を魅了した。また、怖いものなしに突っ込んでいく姿は勇ましく、下級の隊士からの人望も厚かった。向こう見ずな戦い方に冨岡は注意していたのだが、名前は己の力を過信していた。結果、一人で下弦の鬼と対峙し、死闘の末に左脚に負った深い傷で二度と戦えない体になってしまった。

刀を握らない自分など生きる価値もないと自暴自棄になっていた名前に、冨岡は身の回りの世話をやいてほしいと申し出た。初めは冨岡が刀を携えて家を出ていく姿に、自分は何故家で帰りを待つことしかできないのだろうと嘆いたものだ。自ら刀を置くより前に剣士生命を絶たれる苦しみは誰にも理解できまい。抜け殻だった名前を冨岡が手を差し伸べなければ命を絶っていた可能性もあった。そうさせなかったのは冨岡の監視の目と子供かと思わせるぐらい生活力のなさだった。

家事は育手の屋敷に住まわせてもらっていた際に一通り教え込まれていたから苦労はしなかったが、何かと脚の怪我はついて回った。背伸びをすれば足先に力が入らず、高いところから物を落とすたびに冨岡が飛んできては無理をするなと名前に注意した。注意しても辞めなかった場合は説教後に禁止された。徹底的に危険から排除された生活は実につまらない。多少無理をしてでも前のように怪我に縛られない生活を送りたいだけなのに冨岡は邪魔をする。でも冨岡の気持ちも分からなくもないのだ。自分が冨岡の立場なら、同じことをしていたと思うから。


「…心配してくれてありがとう。」
「分かってくれたか。」
「ごめん、やっぱり私は出来ることは一人でやりたい。守られてるだけは性に合わない。今の私に出来るのは冨岡が万全の状態で鬼と戦えるよう支えることだから。」


一線を退いても一緒に戦う道を選びたいのだ。背中に回された腕を解いて手を包み込むように握る。


「家のことは任せてほしい。他事に囚われず鬼を滅ぼすことだけを考えて。」
「……名前がそう言うのなら。」


初めて名前は説教を聞き流すだけでなく意見をはっきり述べた。冨岡は納得しきってない様子だったが、すっかり日が落ちて暗くなった空に同化した冨岡の鎹烏が任務を告げに飛んできた。洗濯物の山の中から洗ったばかりの羽織を手渡すと、おもむろに袖に腕を通す。太陽の匂いが鬼から身を守ってくれることだろう。


「いってくる。」
「気を付けて。必ず生きて帰ってきて。」


肯定も否定もせず出ていった冨岡を玄関まで見送る。後は翌朝に帰ってきた時の為に替えの衣服と布団を用意すれば今日の仕事は終いだ。無事に帰ってこれますように、玄関先に消えた面影に祈った。


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