Giyu Tomioka



柔らかい布団に横になってから半刻ほど過ぎたが、一向に眠りの世界へは誘われない。何度も寝返りを打っては態勢を変え、意地でも睡眠を貪ろうとしているのに目は冴えていく一方だ。鬼殺隊として夜を駆ける身は、すっかり夜型の生活が板についてしまい、任務がない日は落ち着いて眠れなくなってしまった。ひと時の休息を大事にしたい気持ちはやまやまなのだが、心と身体は完全に切り離されていて言うことを聞いてくれない。明日は多忙な師範との久方ぶりの稽古だというのに、睡眠不足では何を言われようか。鍛錬の前に生活習慣を正せ、と言われる未来が見える。お怒りの際の師範は、普段とは想像もつかないような大声を上げて説教をするのだ。継子になってから何度か彼の怒りに触れたことがあるが、出来れば避けたい。尤も、彼が怒る大体の原因は名前を思ってのことだと十分理解はしているため、なるべく心配を掛けたくないのである。

あれこれ考えているうちにどんどん脳は覚醒して来てしまい、うっすらと閉じた瞼を開けば、障子を通して月明かりが部屋に差し込んでいた。今宵は雲隠れしていない月が煌々と地上を照らしていることだろう。その光を全身に浴びたくなり、名前は体を起こし、音を立てないよう障子戸を開けてそろりと縁側に出る。鳥さえもが寝静まる夜は、昼間の喧騒を忘れ静寂のみが広がっている。名前の生活の拠り所にしている人里離れた山奥の師範の邸宅は明かりもなく、夜空を眺めるには丁度良い。縁側にそっと腰を下ろして、夜風に当たりながら眠気が来るのを待つのも一興だろう。


「…何をしている。」


一人だった空間に突然声が降ってこれば身構えない者はいない。それが足音無く近づいてきていたら尚更のことで、振り向けば寝間着に包まれた師範、冨岡義勇が漆の塗られた盆を持って立っていた。月明かりに照らされた濃紺の髪は艶やかさを一層際立たせている。白い肌も透き通り、まるでこの世には存在しないのではないかと疑ってしまう絵画のような井出立ちだ。魅入っていると、冨岡は名前の隣に腰を下ろし、二人の間に隔てるように盆を置いた。そこには柄が揃った徳利とお猪口が乗っている。


「眠れなくて、月を眺めていました。師範も寝たはずでは?」
「似たようなものだ。」


目を合わせることなく冨岡は徳利を手にし、お猪口へと中身を注いでいく。波紋を広げながら水位がみるみるうちに上がると、水面に月が浮かび上がり、幻想的な光景へと変わる。一杯になる直前で流線形は細くなり、徳利は垂直に戻されて再び盆へと置かれた。そして冨岡はお猪口を手に取り、薄く引かれた口元に運んでいく。名前は先程から食い入るように所作を見つめているのだが、冨岡は視線を気に留めず一辺に口をつけた。上下する喉仏に釣られて何も口に含んでいないのに名前まで喉を鳴らした。


「…欲しいのか。」


漸く名前に横目を向けた冨岡は自分の口をつけた部分を指で拭いお猪口を名前へ差し出してくる。中身はまだ残ったままで、丁度一口で飲みきれそうな量だ。両手で包むように受け取ると、冨岡の冷たい指先に触れて思わずお猪口を落としそうになる。師範とはいえ、彼は立派な成人男性で意識せずにはいられない。初心な態度を隠すように勢いよく飲み干してお猪口を押し返した。


「これでよく眠れるといいのですが。」
「一口程度では変わらないだろう。徳利を空けるつもりで持って来ているから付き合え。」
「師範の分が減ってしまうのでは?半分では酔わないでしょう?」
「構わない。」


酒に弱い名前とは違い、冨岡はそこそこ耐性がある。丁度よく眠れる量を持って来ていたのに、自分が半分も貰ってしまってはかえって目がさえてしまうのではないかと心配に思っていると、きっぱりと否定の意を示された。言い切られてしまってはこれ以上何も言うまいと、お猪口を持った冨岡にお酌する。


「お酒を酌み交わしていると鬼殺のことなど忘れてしまいそうになります。」
「全ての鬼を滅したら夜に怯えることはない。」
「…そうしたら私は師範の傍にいる理由がなくなってしまいますね。」


師範と継子であるから寡黙で人を寄せ付けない冨岡の傍に置いてもらえているが、鬼舞辻を倒せばこの生活も終わりを告げるに違いない。実際に告げられてはいないものの、想定できる未来である。せめて同性であれば友好関係を築いていけたかもしれない。しかし、どう足掻いても生まれ持った姓を変えることなどできないのだ。家族を鬼に殺され天涯孤独となった名前にとって冨岡は唯一の心の拠り所であり、手放したくはない。そんな名前の想いを冨岡は微塵も知らないだろう。

傍にいることを許してもらえるまでとはいかなくとも、何らかの反応は貰えると思っていたが、冨岡は口を閉ざしてしまった。問いではなかったから返答は不要だと思ったのかもしれない。否定的な言葉で心を打ちのめされるよりかは幾分か良かった。胸に蟠りは残したまま交互に呑み進めていき、いつの間にか徳利は雫が滴るのみとなっていた。最後の一滴まで飲み干すと、とろりと睡魔が襲ってきて頑なに休もうとしなかった身体は酒の効果で弛緩している。冨岡も名前までとはいかないものの、目尻を緩ませて時折擦っていた。寝るには丁度いい頃合いだと思った名前は腰を上げて盆を両手でしっかりと支えた。


「血行もよくなって身体も温まってきましたし、よく眠れそうですね。後は私が片付けておきますので師範は先に横になってください。」


ここで寝られては運べないので声だけはかけておく。後は自分で部屋に戻るだろうと、背を向けて台所へと歩みを進めようとした時だった。寝間着の裾を引っ張られてつんのめりそうになる。身体は咄嗟に踏み出した足で支えて難を逃れたが、盆は傾いて徳利とお猪口が滑り出した。固い床に叩きつけられれば間違いなく割れる。数少ない彼の生活の証を壊すわけにはいかない。鍛え上げられた反射神経は良い反応を見せてくれたので、盆を身体側に傾け、胸に陶器を滑り込ませて何とか抑えることができた。ほっと胸を撫でおろし、悪戯をした正体に首だけ回して向き合う。


「…師範?」
「……傍にいていい。」
「ええ、っと?」
「傍にいるために理由などいらない。」


名前の寝間着を握る冨岡の手は震えていた。しゃがみ込んで盆を下ろし、震える冨岡の手を取って握ってやる。大切なものを失ってきた彼にとって、また失うのが怖かったのかもしれない。そんな深い存在に自分がなれていると自惚れるつもりはないが、期待するぐらいはいいだろう。


「お傍にいてよいのなら私はいつまでも師範の傍にいます。」
「…ああ、そうしてくれ。」


交わされた契りは二人を照らす月だけが証人となった。


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