Sabito



ぽたり、と顎から垂れた汗が水面に波紋を起こし揺らめいた。熱さで火照る体からは健康的な汗が流れ、毒素を吐き出している。肌も乳白色の湯に包まれて触り心地が良く、鬼との戦闘によってついた傷を癒してくれる。浸かっていた手を湯から引き上げ、刷り込むように肩から胸にかけて撫でれば、先程よりも大きく水面が揺らめいた。


「そろそろ上がったらどうだ。」
「そっちこそ、倒れても知らないよ?」
「なんだと。」


真っ赤な顔をして少し離れたところに座り、湯浴みをする錆兎は苦悶の表情を浮かべながら腕を組む。元より長風呂をする気質ではない錆兎にとっては拷問に近いような時間であるが、上がる気は更々ない。言葉とは裏腹に滴り落ちる汗は肌を伝ってどんどん湯へと流れていく。鍛え抜かれた精神力のみが支柱になっていて、他に気を遣れば簡単に折れて崩れ去ってしまうほどには追い詰められていた。

男女で同じ風呂に入るなどと、他の者が見たら誤解されかねない状況で始まった我慢比べは終わりに近づきつつある。互いにどちらかが上がれば自分も、と音を上げるつもりはない。同期であり、階級も同じ名前と錆兎は言わば好敵手で、目を合わせればどちらからともなく勝負を持ち掛け、競い合う間柄である。刀鍛冶の里で偶然顔を合わせ、里の者に勧められるがまま露天風呂に向かった二人だが、混浴であるとは知らされていなかった。幸い湯気や手拭いで大事な部分は隠していたものの、体躯は分かる。互いのあられもない姿に目を見開き固まりそうになるも、開放的であるがために吹いてきた横風によって湯気が断ち切られると、慌てて湯に飛び込んだ。名前と錆兎は、脱衣所に戻ればよかったと後悔したが、時を巻いて戻せる術はない。このまま湯に浸かっていても、先に上がれば裸体は相手の眼下に晒される。今後顔を合わせる度に揶揄されかねないと考え、一定の距離を保ち様子を伺い見ることにしたのである。


「一々肌を撫でるのをやめてくれないか。目に余る。」


効能のある温泉水を身体に染みこませているだけなのに、青年には刺激が強いらしく、時々こちらを見ては慌てて視線を逸らす。そんなに気になるのならば背を向ければいいものを。


「…私のことそういう目で見てるわけ?」
「な…!?」


珍しく動揺した錆兎は思わず上体を湯から勢いよく上げ立ち上がりそうになるが、寸でのところで裸体であることを思い出してすごすごと肩まで湯に浸かった。錆兎のせいで波立った湯が名前まで押し寄せては返ると、今まで見えていなかった胸の谷間が露になる。流石にこれはまずいと思った名前は肩を抱いて隠すと、錆兎から弱弱しく謝罪の言葉が零れ出た。


「今のは不可抗力だ。」
「分かってる。でも別に錆兎に見られるならいいよ。」


男女の仲を越えた好敵手と錆兎を認識している名前は、ちょっとした事故で裸を見られるぐらいでは何も間違いは起きやしないと信じていた。筋の真っすぐ通った男であるから、欲に駆られて好いてない女に乱暴はしないだろう。絶対的な信頼を寄せている相手だからこそ、混浴を許しているのだ。他の男ならば遠の昔に叩き出している。名前の言った何の気なしの言葉を聞いた錆兎は水面に拳を振り下ろした。


「俺は男だぞ。」
「?知ってるけど。」


怒りを前面に表した錆兎は湯に浸かったまま身体を名前の傍まで寄せる。手を伸ばせば触れてしまう距離に向かい合うように座れば、嫌でも錆兎を男として意識してしまう。どこか居心地の悪さを感じて詰められた分だけ離れようとするが、錆兎が掴んだ腕のせいで身動きが取れなくなってしまう。逆鱗に触れる様なことを言った覚えはないのに、責められている理由が名前には分からない。


「目の前で女が肌を晒していれば触れたくもなるし、吸い付きたくもなる。」
「別に誰でも良くはないでしょう?私は対象外なんじゃないの。」
「誰が名前を対象外などと言った?」


熱を孕んだ目をしているのは逆上せているのか、はたまた名前に向けた想いからか、どちらとも取れなくもない。まるで名前を女として見ているという口ぶりに思わず声が上ずってしまい、ひゅっと喉奥が狭まった。


「お前は危機感がなさすぎるんだ。男女の友情を否定するつもりはないが、少なくとも俺は友情なんて生温い関係で終わらせる気はないからな。」


錆兎は掴んだ腕を滑るように撫で、肩まで差し掛かるとそっと離した。触れられたところが湯に浸かっている部分よりも熱く、今まで感じたことのない高揚感を得た。否が応でも肩を見れば触れた手の感触を思い出してしまう。何も初めて触れられたわけではないのに、差し向けられた感情の正体に気づいてしまったらこうも変わってくるものなのか。


「…嫌か?恋慕の情を向けられるのは。」


饒舌な錆兎の言葉はとめどなく湧き出して名前の心をかき乱す。強い口調で断言したかと思えば、次に来る弱弱しい言葉のせいでうっかり承諾の意を唱えそうになる。


「嫌ではないけど、錆兎が私をそういう風に見てるなんて考えたことなかったから、戸惑ってて。」
「これを機に意識してくれればいい。あと、変な気を回すなよ。」
「うん、わかった。」
「…では今回は俺の負けでいい。」


名前に背を向けて立ち上がった錆兎は、囲んでいた岩を跨ぎ完全に湯から上がった。置いてあった手拭いを腰に巻くと、脱衣所に向かって歩いていく。自ら負けを認めた錆兎を不思議に思い、もう終わり?と問いかければ、ぴたりと足が止まる。


「…好いた女の裸体を見て何もしない自信がなかった。名前も早めに上がれよ。」


ひらひらと後ろ手に手を振って脱衣所の引き戸を開けて入っていった錆兎を見送ってから顔に手を当てて項垂れる。試合に勝ったのに勝負に負けた気分だ。名前とて程よく筋肉のついた背中や腰を見れば何も思わないことはないのに。こんな情けなく赤くなった顔を見られていたら、一目で分かってしまっただろう。


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