Muichiro Tokitou



※R15程度(2019 Helloween企画 吸血鬼パロディ)


街の灯りが徐々に消え始め、街灯の青白い光が足元だけをかろうじて照らす。昼間の騒々しさからは想像もできない静かな夜。コツコツとヒールの音のみが静寂に響き渡る。肩から今にもずり落ちそうになっている鞄の紐を握り直し、帰路を急いだ。

駅から徒歩十分の物件は大体十五分はかかるもので、よく選ばずに即決したことを二週間ほど経ってから後悔してももう遅い。おまけに最短距離には碌に灯りもなく、不審者情報はあとを絶えない。つい先日も近辺で女性の変死体が見つかったばかりと聞く。物騒な事件が続く今日で女の一人歩きなどもってのほかなのだが、一緒に歩いてくれるような頼もしい男性は名前には存在していなかった。防犯ブザー代わりの携帯電話が役に立つかと言われれば心もとない。それでもないよりはましだと言い聞かせた。

妙な気配を感じ取ったのは自宅アパート付近に差し掛かってからであった。女の嬌声と、風に乗ってやってくる鉄のような臭い。名前は生娘であったが、情事を想定させるには十分な要素であった。薄暗いとはいえ道端でやるのは倫理観が欠如している。足を進めるにつれてどんどん嬌声は大きくなっていくものの、足を止めることはなかった。どうせ車の中、もしくは塀の裏といった一応人の目から隠れるところだろうと思ったからだ。目が合わなければいいやと甘い気持ちで名前は帰宅を優先してしまった。それが間違いであった。

電信柱の裏に蠢く長く伸びた人影。鳴らして歩いていたヒールの踵を、薄く着地させて出来る限り闇に溶け込ませる。そのまま通り過ぎようとした名前の目に飛び込んできたのは、ぐったりと体を男に預けた女の手足だった。生気を失ったように弛緩した体は、決して電灯に照らされただけとは言い難い青白さを放っている。乱れた長い髪の間から見える首筋には二本の赤い筋が付いており、とめどなく流れている。出かかった悲鳴を抑えるように口元に手を当てた名前は恐怖のあまり足を止めてしまった。


「…見ちゃったねえお姉さん。」


抱きかかえた女の胸元から顔を覗かせた男の口元は赤黒く汚れている。男の顔色も女同様に青白く、この世のものではないぐらい整っていた。


「結構お腹いっぱいになったけどまあデザート代わりにしようかな。ただで返すわけにはいかないし。」


男は女の体を投げ捨てて手の甲で口を拭った。薄く開いた口元から覗いた牙は鋭く尖っていて、白く発光している。品定めをするように男は名前を下肢から順に舐めるように眺めていく。その瞳に、殺されると本能で悟った名前は、鞄も靴も投げ出して駅までの道を踵を返して走り出す。

吸血鬼とは空想上の存在で、現実に存在するはずもない、夢を見ているのだと思いたかった。しかし、素足のまま駆け出した名前の足はアスファルトに擦れて痛みを感じている。止まれない、止まったらあの女性の様に血を抜かれて死んでしまう。駅に着かなくても誰か一人でも夜道を歩く人がいれば助けてもらえると藁にも縋る思いで走る。


「なんでっ誰もいないの…!」


仕事帰りでよれたスーツを着るサラリーマンも、酔っぱらってふらつきながら歩く大学生もこんな日に限っていない。社会人になってからまともに運動を行ってこなかった体は限界を迎えていて、息が上がっている。このまま走り続けてもどこかで力尽きて立ち止まってしまうのは目に見えている。距離を離すのは諦めて、どこか見つからないところへ隠れたほうが賢明だ。吸血鬼は真夜中しか活動ができなかったはず、ならば朝まで立てこもってしまえばいい。名前は意を決して建設途中のビルの螺旋階段を登った。

鉄骨がところどころ剥き出しになって足場も悪い場所をひたすら進み、隠れる場所を探す。流石建設途中と言ったところか、物はなく、ただコンクリートで塗り固められているのみ。その中でも死角となる階段から一番離れた場所に蹲るようにしてしゃがみ込んだ。カタカタと恐怖で震える体にもう少しの辛抱だと言い聞かせて、肩を抱く。腕に巻かれた時計が指しているのは午前零時で、夜明けまではまだまだ遠い。誰かと連絡を取りたくても、携帯電話の灯りは暗闇を照らし、居場所を知らせてしまうことになり兼ねない。何もせず、ただ時が経つのを待つしか方法はないのだ。

投げ出してきた鞄の中には部屋の鍵や手帳、社員証が入っていて、万が一今日を乗り切っても身元が割れているのだから怯えて生きなけばならない。親や警察に相談してもきっと取り合ってもらえない。音もない、光もない閉鎖空間は人の心を不安で押しつぶさせる。どうして自分がこんな目に合わなくてはいけないのか。運が悪いの一言で決して片付けられる問題ではない。どうか助けて、という祈りは神に通じることはなかった。


「みぃつけた。」


頭上に響き渡る声は間違いなく先程の男の物で間違いはない。足音も近づいてくる気配もなく、急に現れた異界の存在。ぞくぞくするような熱を孕んだ声は獲物を見つけて舌なめずりする雄そのものだ。目を合わせて存在を認識してしまえば、喰われて短い生涯に別れを告げることになる。


「お姉さんの名前、名前っていうんだね。いい名前だね。名前だけでおいしそう。」


名前はぎゅっと目を瞑り、目の前の捕食者に怯えた。男はそんな名前の目の前まで来ると、腰を落として名前の髪を一束掴むとキスをした。


「馬鹿だなあ。吸血鬼は血の匂いに敏感なんだよ。素足で駆けだしたら足裏がズタズタになって血が滲むに決まってる。」


見つけてしまったあの時から、勝者はもう決まっていたのだ。喰われるまでの時間稼ぎをしたに過ぎなくて、結局は掴まる運命だった。ヒールを履いて逃げていても追いつかれていただけのこと。喘ぎ声を上げながら死んでいった女と何一つ変わらない。死んでいくのを受け入れる覚悟なんてものはなく、ただ乾いた笑いが漏れた。


「いい運動になったし丁度お腹も空いたからそろそろ貰うね。安心して、気持ちいいらしいから。」


男は蹲る名前の腰を掴んで無理やり立ち上がらせると、首筋に手を滑らせて位置を確認した。名前はもう抵抗することはなかった。諦めて男のされるがまま抱き寄せられる。首筋をざらざらとした舌が這っても感情は沸かない。

いただきます、の合図と同時に鋭い牙が名前の首筋に突き立てられた。肉を割いて入ってくる痛みにうめき声が漏れ、右頬に一筋の涙が伝った。じゅくじゅくと湧き出でる血を啜る音が耳元に届くと、痛みは次第に快感に変わっていく。


「…っん……あっ…。」


死に向かっているというのに胸を競りあがってくる吐息は熱く、留まることを知らない。足が震え、立っているのもやっとになり、目の前の男に縋り付く。気をよくした男は腰を支えて覆いかぶさるように更に深く牙を沈ませた。


「っひっ……や……ん…。」


チカチカと目の前が点滅して意識を保っていられなくなる。吸い上げられる血液の量に比例して手足は徐々に冷たくなっていく。男が口を離さない限り、このまま快感の波に溺れて死んでいくのみ。薄れていく意識の中、一滴たりとも溢さぬよう本能のままに喰らう男の目は捕食者そのものだった。


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