初々しさに影を残して




教師生活も1か月を過ぎれば徐々に慣れてくる。ひとたび廊下を歩けば生徒達から飛んでくる元気いい挨拶を笑顔で返せるぐらいには、初々しさはなくなった。最初は若さに圧倒されて押し潰されそうだった。自分が生徒だった時の恩師もそんな時期があったのだろうか。授業が始まったことで静まり返った廊下を早足で歩く。新米教師なので任されている授業も多くはない名前は、空きコマを使って次の授業の準備をしようと職員室に向かっていた。教室から聞こえてくる声に、ドアの窓ガラス越しに覗くなどして、前方を確認せず歩いていなかったところ、肩に軽い衝撃がはしる。すぐに誰かにぶつかったのだと理解して、慌てて目線を前方に戻すと飛び込んできたのは青いジャージ。この学校で青いジャージを着ているのは一人しかいない。目を合わせるのも嫌だった名前は小声で謝罪をして通り過ぎようとしたが、男はそうはさせなった。


「名前。」
「…冨岡先生、学校では名前で呼ばないでって言ってるでしょ。」


社会人になった名前と冨岡の関係は若干の変化があった。学生の頃は冨岡との会話を拒み、接近も最小限に留めることが来たのだが、社会人になるとそうはいかない。事務連絡などの必要最低限の会話は勿論、同じ大学出身ということで何かと先生方からひとまとめにされる始末だ。また、生徒達の前でも冨岡と仲の悪い姿を見せられないから、譲歩に譲歩を重ね、人が見ている前では笑顔を張り付けて話すことに決めたのだ。冨岡はそれを逆手にとって以前に増して話しかけてきたり距離を近づけてくるようになった。何度も学校内で名前で呼ぶなと釘を刺したのだが、冨岡は話を聞いてはいない。


「授業中で他に誰もいないからいいだろう。」
「そういう問題じゃない。」


誰かが通りがからないとも限らない。生徒達は授業を受けていても先生方に見つかる可能性は十分ある。特に男女関係の噂が好きな宇髄先生にでも見つかったら最後だ。輝かしい教師デビューが台無しにされかねない。そもそも冨岡に呼び止められたからといって素直に従う義理はないのだから足早に去るのが吉だ。前方に立ちふさがる冨岡を避けて、再び職員室を目指して歩き出した私は、彼が「前を見て歩け」と言ったのを無視した。言われなくてもそんなこと分かっている。

目的地である職員室のドアを開くと、中は閑散としていた。静かに席に着いてノートパソコンの電源を入れる。担当教科の国語は基本的に教科書に沿って授業を行うものの、理解を深めるために小テストを行うこともしばしばだ。放課後残って作成し、授業前にプリントアウトする流れは定番となっていた。データフォルダには1か月間の小テストのエクセルファイルが並んでおり、昨夜2時間かけて制作したものはきちんと保存されていた。最終チェックを済ませ人数分の印刷を始めると、静かだった室内にプリンターの稼働音が鳴り響いた。音が鳴りやむまで待って、席から離れているプリンターまで取りに行く。いちいち席を立つのは煩わしいのだが、学校の経費で何台も設置するほどの予算はない。プリンターから掬い上げたプリントの数を呟きながら数えている最中に、ぽんと肩を叩かれた。


「熱心だねー苗字先生は。」


教師にはそぐわない恰好をしている派手な美術教師、宇髄先生は私の頭を肘置きにして数えていた手元を覗き込んできた。私と彼との身長差は頭一つ分軽くあるので肘置きにしやすいのだと以前彼は言っていたが、髪が乱れるのでできればやめていただきたい。しかし、彼も冨岡と同じく人の話を聞かないから、やめてと言っても無駄なのだ。おとなしく肘置きに徹することにした。


「宇髄先生!…あ、何枚数えてたか忘れた…。」
「鈍臭いな。派手に五枚ずつぐらい数えりゃすぐだろ。」
「先生が数えてる最中に話しかけてきたのが悪いんですよ。次は静かにしててくださいね。」


へいへい、と生返事した宇髄は頭上でコーヒーをすする。ただ枚数を数えているだけの私の何が面白いのかは分からないが、彼は離れる気はないらしい。広がったプリントを数えやすくするため、プリンター上でトントンと整えると、飲み物を持っているんだから揺らすなと怒られた。ならば離れればいいものを。文句を言っても言い負かされることは分かっているから何も言わない。再度プリントの端に指をかけて数え直せば、問題なく数は合った。


「数え終わったので退いてください。」


顎を上げて睨むと、渋々といった表情で腕を退かした宇髄は自席へと戻っていった。渋々は乗せてあげている私が使うにふさわしい言葉であるのに。解放された私も自席へと戻り、プリントはクリップで止めて無くならないようにファイルへと押し込んだ。これで一安心。残った時間はどうすべきか考えていると、対面に座る宇髄が話しかけてくる。


「そういえば今日の歓迎会どこの店だっけ?」


机の隅に置いてある卓上カレンダーに目をやれば、今日の日付は丸で囲われて”新人歓迎会”と赤ペンで記載されている。新人である私と冨岡のために企画していただいた交流会だ。着任から一か月が経ってしまったのは、なかなか先生同士の予定が合わなかったためや、四月の学校行事の多さからだ。


「駅前のイタリアンレストランですよ。地図渡しましょうか?」
「店の名前だけ教えてくれ。後は調べる。」


椅子に深く腰掛けた彼に店名だけ教えると、それきり何も言ってこなかった。机の引き出しを開けて、花のイラストの入った女性らしい一枚のメモを取り出す。三日前に胡蝶先生が手渡してくれた歓迎会のお知らせだ。美味しいお店を予約したから楽しみに来てくださいね、とお言葉つきで。先生方と交流を深めるいい機会になりそうだった私は二つ返事で了承の意を表した。しかし、一つだけ危惧する点がある。大人の嗜み、お酒だ。二十歳になってすぐに真菰と二人で飲んだチューハイは苦く、グラスに一杯飲んだだけで眠り込んでしまった。それ以来何度か飲む機会はあったのだが、対して飲める量は変わらなかった。教員という生徒の模範になる職業でアルハラはなかったとしても、最初の一杯の付き合いは恐らくあるだろう。頼れる錆兎や真菰はいないのだから、自分の身は自分で守らねばなるまい。お酒は一口まで、と心に決めて、メモを手帳に貼り直した。

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