その音を止めないで




日常の一コマが変わる瞬間は案外突然訪れるものだったりする。例えば、昨日まで固く閉じられていた蕾がこぼれんばかりの大輪を咲かせていたりだとか、普段より一つ早い電車に乗ったら気になるあの子と一緒になって話しかけれられたりだとか。はたまた、長い廊下を行き交う二人のすれ違いの一秒にも満たない間にも。


「……おはよう。」


絞り出すように喉から出た声は、独り言とも捉えられるほどか細い。きっと隣を通り過ぎる冨岡にしか聴こえていないだろう。いや、冨岡にすら届く前に生徒達の笑い声にかき消されてしまっているかもしれない。しかし、生徒達の上履きとは異なるゴム底が擦れる音がぴたりと止んだことが、耳に届いたことを確かに証明していた。つられて私も足を止めたが、振り返りはしなかった。振り返ったところでどんな顔をしたらいいのか分からなかった。段々と俯いていく顔は窓から差し込む光を遮り陰っていく。

高等部三年生が自由登校期間に入り登校する生徒数は減ったものの、相変わらず校内は騒がしい。来年は同じように受験生になる二年生達はまだ先の話だと気にも留めず、グループで仲良く談笑をしながら通り過ぎていく。一年生男子なんて廊下を駆けまわるやんちゃぶりだ。普段ならばこの時点で冨岡の注意する声や竹刀が廊下を叩く音が聴こえてきてもおかしくないはずだが、今日はどちらも聴こえてこない。私が自発的に挨拶したことで感情が揺すぶられ、教師という立場を忘れてまた"あの頃"の冨岡義勇に戻っていやしないか。仮にそうだとして、私には彼を引き戻す術を知らない。新人歓迎会からの帰り道、初めて二人で花火を見た夏祭り、初めて心情を吐露した初詣。揺らぎのない湖畔の水面のように冷静な冨岡の感情が波打つきっかけを作ったことはあれど、それを静めていたのは常に錆兎と真菰だった。逆もまた然り、私が感情的になった時は彼らが静めてくれていた。結局私も冨岡も、彼らがいなければ満足に話一つできやしないのだ。こういう時、真菰なら何と声をかけるだろう。錆兎なら手を引いて歩いてくれるだろうか。

教師二人が廊下で何をするでもなく立ち止まっていることに疑問を覚えた生徒達の心配する声によって俯いていた顔を上げる。私の心もいつの間にか"あの頃"に戻ってしまっていたようだ。周りを囲む生徒達は口々に大丈夫?と告げ、中には手を引いて保健室に連れて行こうとしてくれる子もいる。大丈夫と答えても簡単には散ってくれず、この集団の物珍しさに野次馬までやってくる始末だ。私がこのように囲まれているならば、後方の冨岡の元にも同じように生徒達が集まっていることだろう。もし、この騒ぎが不死川先生に知られたとしたら。悪い人でないのは分かっているが、同時に几帳面で規律にも厳しいことも知っている。このままでは昼休みの胡蝶先生との楽しいランチタイムは取り上げられ、数学準備室でお腹を鳴らしながら厳しい説教を受けること間違いなしだ。想像するだけでもぞっとする。そんな中、厚い生徒の壁を押しのけて出て来たたんぽぽ色が私の右手首を掴んだ。


「我妻くん!?」


私の見間違いでなければ善逸の姿は見える範囲にはなかったはずだ。私も彼も背は平均的なのに、背の高い男子もいる壁の中に何故私がいると分かったのだろう。もしかして炭治郎が匂いで感情が読めるように、彼にも秀でた能力があったりするのだろうか。まあ今はそれは置いておくとして。善逸の口に手を添えて手招きする仕草を見てそっと耳を寄せた。


「苗字先生、ここは俺にお任せ下さいな。」


耳を離すと善逸はドンと胸を叩いて星のエフェクトが飛びそうなほど完璧なウインクを決め、独特な呼吸音を立てながら大きく息を吸っていく。その異様な様子に、私を含め周りにいた全員が善逸の姿に注目する。


「はーいちょっと退いてくださいねー!廊下を塞いでたら怖ーい不死川先生が来ますよーーーー!」


廊下の端から端まで届きそうなくらいの響きのいい声が右耳から左耳を駆け抜ける。その声に怯んだ生徒達が一歩下がったことで厚い壁に隙間が出来た。行くよ、先生。と聞こえた時には既に手は引っ張られており、あれよあれよと申す間もなく隙間を縫って壁の外へと連れ出されていた。しかし、それに飽き足らず善逸はぐんぐんと私を連れて走ってゆく。当然振り向く暇などなかったから、去っていく私の背を冨岡がじっと見つめていたことなんて知る由もなかった。


――――――――――


職員室を目前にして漸く善逸の足は止まった。ほぼ全力疾走で駆け抜けた私の足は疲労でがくがくと震え、脇腹は引きつるように痛い。社会人になってから碌に運動をしていなかったとはいえ、肩で息をしなければならないほど体力が落ちているとは思わなかった。それに比べて善逸は息一つ乱さない余裕っぷりだ。やはり高校生男子の体力は底なしなのか。炭治郎や伊之助といった体育会系に比べれば、彼は文科系に見える節があったから意外だった。


「どうですかこの完璧な救出劇!惚れちゃいましたか!?」
「惚れはしないけど助けてくれてありがとう。」
「そんなぁ…。」


善逸はあからさまにがっくり項垂れて廊下にしゃがみ込むと床に指先で円を描きいじけ始める。校内の噂で求婚癖があることは知っていたが、まさか年の離れた教師にまで有効だとは思っていなかった。この調子なら誰彼構わず求婚しているのだろう。必死にならずとも、根は真面目で困っている人がいたら迷わず手を差し伸ばせる優しさがあるのだから、いつかきっと素敵な女の子と巡り合えるだろうに。どうせ俺は何をしたってモテませんよなんて独り言ちる善逸の背にそっと手を乗せた。


「かっこよかったよ。私にはあんなに大勢の人の中に飛び込んでいける勇気は出ないから尊敬する。」
「本当!?なら俺と結婚、」
「結婚はしないよ。」


言葉を聞くなり立ち直り、めげずに求婚を続ける善逸にはしっかりと断りを告げる。待っているだけでなく自ら掴みに行く姿勢は私が見習わなければならない部分ではあるが、彼の場合は全力投球過ぎるのが玉に瑕だ。またもや凹んで座り込むかと思いきや、善逸は腕を頭の後ろに組んで唇を尖らせる。


「ちぇっ、苗字先生は俺のことなんて眼中にないか。誰かさんしか見てないんだから。」
「え?」
「俺や炭治郎に隠し事は難しいけどさ、それにしたって先生の音分かりやすすぎ。下手なバイオリニストでもまだうまく弾くだろってぐらいの不協和音に最初は耳がちぎれるかと思った。」
「どういうこと…?バイオリニスト?不協和音?」


まるで私から何らかの音が漏れ出ていて、聴こえているかのような口ぶりだ。炭治郎が匂いで感情を察知できるように、善逸もまた音で感情が察知できるとでもいうのか。人間離れした能力だが、あり得ないとは言い切れない。現に炭治郎は私と冨岡の関係性を匂いから読み取っていた。善逸が騒がしい廊下で生徒達の壁に阻まれた私を見つけることが出来たのも、秀でた聴覚があると考えれば何ら不思議ではないのだ。まさか人間が発する音まで感知できるとは思ってはいなかったが、おおむね推測は正しかったと言える。

もし、善逸が冨岡の揺らがない感情でさえ聴き取ることが出来るならば、と邪な考えが頭を過る。でも、あくまでそれは考えるだけ。誰かの手を借りてしまえば胸に蟠りは残るだろうし、根本的な解決とは言えないからだ。それに、私利私欲のために使っていい能力ではない。なおも私の音の解説を続ける善逸を横目に腕時計を見やれば始業まであと五分と迫ってきていた。


「我妻くん、そろそろ始業のチャイムが鳴るから教室に戻りなさい。」
「え〜もう少し…。」
「我妻くんのクラス、一限目って伊黒先生の化学じゃなかった?」


まだまだ話足りない様子の善逸には申し訳ないが、学生の本分の勉強を疎かにさせるわけにはいかない。引き合いに伊黒の名を出させてもらったところ効果は覿面だったようで途端に青ざめ慌て始める。


「伊黒先生怖いから行きますけど!またお喋りしましょうね!」


絶対ですよと私の手を両手で握りしめて念押しすると、善逸は腕を大きく振りながら早歩きでずんずんと廊下を進んでいく。風紀委員ということもあり、緊急時以外は走らず冨岡の言いつけをしっかり守っていて微笑ましい。姿が見えなくなるまでは見送ろうと立ち止まっていると、廊下の角を曲がる直前で善逸は足を止めた。何かあっただろうか。駆け寄ろうとしたところで善逸は振り返ると、距離の離れた私に聴こえるように口元に左手を添えて叫ぶ。


―苗字先生、頑張ってる音を止めないでくださいね!


その後手を大きく振って善逸は姿を消したが、私はしばらく動けないでいた。小さな変化は積み重なっていつか芽吹く時が来るのだと言われた気がした。

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