期待しているから動けない




波打つ心臓を大きく息を吸って落ち着かせてからドアをノックしドアノブへと手をかける。怒っているともとれる声色の「どうぞ」の合図を聞いて入室し後ろ手でドアを閉めると、廊下に響き渡っていた予鈴は忽ち締め出されてしまった。時計の針の動く音が鮮明に聞こえるほど静かなこの部屋では自らの鼓動を耳が拾ってしまう。どくどくと必死に動く心臓は全力疾走をした後と同様に落ち着きがない。それもこれも目の前の人物が緊張感をより高めているからだ。

入室した私に声をかけるどころか一瞥すらせず椅子に掛けて足を組んだ彼は参考書を読みふけっていてぴくりとも動かない。動かないのに存在だけで十分に威圧している。見た目はさることながら、授業中に窓から男子生徒を投げ飛ばす横暴さを兼ね備えていると知っていたら委縮しない者はいないだろう。投げ飛ばされた件については男子生徒に非があったようだが…。沸点が低いのは事実。手が出るのも事実。要は逆鱗に触れれば誰でも投げ飛ばされかねないということである。特に私のような非力な女を投げるのは容易いだろう。窓との距離を妙に意識してしまってドア付近から動けないのも致し方ない。

ぐるりと部屋全体を見渡すと、凄みのある顔とは不釣り合いに整理整頓された棚や机が目に付く。年代や科目ごとに分けられて何がどこにあるか直ぐに分かる棚は、無理やり詰め込まれた国語科準備室のとは大違いだ。暫く使われていなさそうな三角定規やコンパスでさえ新品同様埃一つ被っていない。細部まで管理が行き届いている。豪快に開いた胸元と同じく、部屋も豪快に散らかっていると思っていたのに。イメージとの違いに驚きを隠せず、何度も部屋と男を往復してちらちらと伺ってしまう。


「言いたいことがあるなら口にしろ。」
「っいえ、何も。」
「だったらさっさと座れェ。」


不死川は押し花がラミネート加工された栞を挟んでから参考書を机に置くと、近くにあった丸椅子を引き寄せ私に座るように言う。椅子の脚が床に擦れる音にはぞわりと背筋が跳ねる。促されるまま座れば、瞳孔の開いた眼が私を見定めた。隅から隅まで暴かれていくようで落ち着かない。まるで取り調べを受けているようだ。


「何でここに居るか検討もつかないって顔しやがって。理由なく呼び出すほど暇じゃねェ。」
「…すみません。」
「謝る暇があるなら考えろ。」
「すみま…、いえ、はい。」


肯定しか許さないといった雰囲気を感じ取り咄嗟にはいと答えてしまったが、新学期が始まって以降まともに会話した覚えがないのに不死川が望む回答が見つかるはずがない。いや、そもそも就職してから日常会話をしたかすら怪しい。接してもいないのに怒らせる理由を作れるとしたら、私の仕事が遅く、知らぬところで迷惑をかけたとかそんなところだろうか。腕を組み回答を待つ不死川は時間の経過とともに苛立ちが高まっているようで、人差し指が腕を叩くペースが上がっていく。


「私が不死川先生にご迷惑をおかけしたならば次は繰り返さないように気を付けます。思い当たる節がないので教えていただけないでしょうか。」


相手の胸中を推し量れる器用さがないことは私の人生が痛いほどに証明している。ならば一字一句言葉にするしかないのだ。繰り返さないために、相手を知り、理解するために。狭い社会に閉じ籠るのを辞めたなら、冨岡だけでなくまずは目の前の相手と向き合うことから始めていかなければ。職場の人間関係だと割り切らず、社会を広げていけば見えてくる景色もきっとあるはずだ。怒りを助長させないように細心の注意を払いながら選んだ言葉は間違って無いと信じたい。俯いてばかりで気弱な返事をしていた私が急にはっきり物を言ったからか、不死川は瞳孔が開いた眼を更に見開いた。


「俺が苗字にされて嫌な思いをしたことはねェ。だが苛々してるのは否定しねェ。お前らを見てるとぶん殴りたくなるからなァ。」


苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら不死川は視線を逸らし大きく舌打ちをした。自分のことではないと否定する割には、気にする素振りを含んだ言い方をする。もしかしたら不死川もあいつと同じ情に厚い人間なのかもしれない。…でもその情は、今は私をもっと心苦しいものにする。

"お前ら"が誰を指すのかは聞かなくても分かった。それと同時に、隠して来た歪な関係性が漏れ出てしまっているのも分かってしまった。てっきり仕事のミスを指摘されるのだとばかり考えていた私に降りかかった予想外の主題に息を呑む。職場には迷惑をかけないようにうまくやってきたつもりだった。今まで誰にも指摘を受けなかったから隠し通せるものだと疑いを持たなかった。それが思い上がりに過ぎなかったことは、不死川の真に迫る鋭い目が指し示している。誤魔化しは恐らく通用しない。下手に口を開くより黙ってい聴いている方が利口だと判断し口を噤んだ。


「初めから変な奴らだとは思っていた。同期なら合わなくても多少は助け合おうという素振りを見せるもんだ。冨岡にはそれがあったが苗字にはない。別に新人同士仲が良かろうが悪かろうが…、仕事に支障がなければ文句を言うつもりはなかった。」


支障がなければ、の語気を強められて身体がぴくりと反応してしまう。露骨に身構えた私を見て、不死川は私の肩にそっと手を乗せた。肩の力を抜け、と言われているような気がした。


「現状支障はねェよ。でもお前らは新年度になれば新人ではいられなくなる。次の新人の前でみっともない先輩面を晒すのだけは許さねェ。」
「…はい。」
「変えたいんだろ、苗字。」
「はい。」


威圧されて無理やり肯定したのではなく、自らの意思で強く頷いた。いつまでもこのままではいられないことも、変えたいと思っていることも事実だ。しかし返事とは裏腹に進展はしていない。二人で話す機会も作れていない。私がいくら変えたいと思っていても冨岡が拒むのであればまた一方通行だ。そんな現状を事細かに不死川に話す気はないけれど、察しのいい彼のことだから分かった上で改善を求めているのだろう。第三者からならば何か有用なアドバイスが貰えるのではないかと期待が入り混じった目で見つめる。


「いい返事の割にはお前、何もしてねェよな。」


返ってきたのは無情にも胸に刺さる言葉だった。


「冨岡は無視されようが毎朝苗字に挨拶してた。苗字が眠そうな顔をしてたら頼まれてもないのにコーヒーを淹れて机にそっと置いていた。プリントを抱えていた日には黙って半分持って行って手伝ってた。他にもあるがまだ聞くか?」
「……いえ、」
「名前は一つでも行動を起こしたか?起こそうとしたか?」


―まだ冨岡から歩み寄ってくれると期待しているから動けないんだろ。


図星だった。休校になった雪の日を除いて毎日学校では顔を合わせていたのに、声をかけるどころか挨拶すらしていなかった。避けられるから仕方がない、また次の日でいいやと都合のいい理由をつけて先延ばしにしていた。向き合うと言いながら相手の出方を伺ってばかりで自分から動けていなかった。冨岡の顔を見るのが辛いから。突き放されるのが怖いから。"変えたい"という覚悟が上辺だけなのだと不死川に指摘されるまで気付かなかった自分が恥ずかしい。また俯きそうになった私を咎めるように肩に置かれたままの不死川の手に力が篭った。


「冨岡の行動で心が揺り動かされたのなら、同じようにやってみたらいいんじゃねェの。」


立ち止まっているぐらいなら冨岡を習って同じ目線で動いてみるのもいいかもしれない。そうしたら今までの一つ一つの行動の裏に隠された優しさに気付くきっかけにもなるだろう。私一人だったら思い付かなかった。ぶっきらぼうながらも私が悩んでいると知って、真剣に考えてくれたのだ。出会って一年経たずのよく知りもしない同僚の為に。


「不死川先生、教えてくださってありがとうございました。」
「意見を伝えただけだ。感謝されるようなことはしてねェ。」


感謝の気持ちを伝えた途端不死川は私の肩から手を外すと、口元を隠してそっぽを向いてしまった。耳がほんのりと朱に染まっているから恐らく照れ隠しだろう。指摘すれば顔まで真っ赤にして怒るに違いない。その様子を思い浮かべたら、口から小さな笑いが漏れてしまった。すかさず気づいた不死川に用は済んだからさっさと出て行けと手を払われ、もう一度礼を告げてから部屋を後にする。入る前は恐ろしく感じていたドアの向こうが、少し恋しくなった。

[ 19/20 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]