ぶつかり合う傘の中で




冬休み明けの出勤日の朝の目覚めは悪い。夜遅くまでだらだらと過ごし、朝はゆっくり起床する生活を簡単に切り替えられるはずもなく、目覚ましの鳴る音に叩き起こされる。嫌々瞼を開くと部屋は暗く、布団にくるまれていても肌寒い。目覚ましの時間ををかけ間違えたかと思うぐらいには、夜の中にいるようだった。いくら太陽高度の低い冬であれど起床時にはカーテンの隙間から光が射しこむのだが、今日はそれがない。不思議に思い、もぞもぞと布団を抜け出してカーテンを開くとそれはもう酷い有様だった。

見渡す限り一面銀世界で、なおも降り続く雪は山奥にでも来たかのように激しく、吹雪と呼ぶにふさわしい。お正月にちらちらと降っていた雪が可愛らしく思える。明らかな異常気象に開いた口が塞がらない。右を見ても左を見ても飛び込んでくる景色は昨日まで自分が暮らしていた街とはかけ離れているからだ。こんな様子ではさほど離れていない学校のグラウンドはゲレンデよろしく真っ新だろう。男子生徒は喜んで駆け回りそうだ。いや、もうそんな歳ではないか。ああでも、伊之助くんは例外かもしれない。空想に耽っていたら隣家の屋根から滑り落ちた雪大きな音にはっと現実に引き戻される。

スマートフォンをつけても休校の知らせは連絡網で回ってきておらず、テレビを付けて天気情報を確認しながら出勤の支度を進める。雪だるまのマークが軒並み並んではいるが、昼頃には弱まる予想のようだ。それに伴ってか大雪は注意報に留まっている。私の見立てでは警報が出て電車が運休し出勤停止なのだが、日本の公共交通機関は優秀なもので、一部遅延はあるものの通常運行している。どう足掻いても出勤は避けられずがっくりと肩を落とした。その後も休校の知らせを期待しながら普段よりゆっくりパンを食べて化粧をしても、家を出るまでスマートフォンが鳴ることはなかった。


「…誰も来てない。」


施錠された門を前に明かりのついてない校舎を見据える。門の隙間から見える道やグラウンドに足跡はなく、頭を過ったのは休校の文字。まさかそんなはずは、と頭をふるふると振っても予感は拭いきれない。教職員の出勤時間にしては遅めであり、胡蝶や伊黒、不死川が来ていれば間違いなく靴跡が残っているはずなのだ。それがないとなると、激しい雪に覆い隠されてしまったか、出勤していないかのどちらかになる。念のため傘を肩にかけて鞄からスマートフォンを取り出してみるも不在着信の履歴はない。連絡網が機能しているのか怪しい。そもそも私に連絡を回す人って誰だったっけ。このまま立ち尽くしていても埒が明かないと考え、教職員のみ出入りが許されている裏口へと歩き出した。

暗くて寒い廊下にサンダルが擦れる音が鳴り響く。室内と室外の気温差で汗をかいた壁が床へと水を垂らすことで建物全体が湿っぽい。日中だというのに幽霊でも出そうな物々しい雰囲気に気圧され、自然と職員室へ向かう足は速まった。ドアについた小さな窓ガラスから零れる明かりを見つけるなり勢いよく開けて飛び込むと、窓際にいる産屋敷校長が気づきゆっくりと振り向いた。


「おや、間違えて登校したのは生徒だけではなかったようだね。」
「あ、あの…?」
「この酷い雪の中を歩いてきては事故に遭う可能性がある。生徒は勿論、職員も。」


周りに目配せした校長につられるように首を左から右へゆっくり動かせば、空席ばかりで室内は見事もぬけの殻だった。校長は口でこそはっきり言わないがそういうことなのだろう。校門前で過った嫌な予感は的中していたのだ。


「連絡網がうまく機能していなかったかな。少し温まってから帰るといい。」
「すみません…。」


水を吸って少し重たくなったコートを脱ぎながらストーブの前へと椅子を移動させて座る。雨に比べて雪は払い落とせるものの、全く濡れないというわけではない。膝にかけて全面に熱が当たるようにしてから校長に目を向ければ、入室時と同様に窓の外を眺めていた。職員室はグラウンド全体と校門が見渡せる位置にある。万一にも生徒が登校した場合に備えて直ぐに駆け付けられるように、危険が及ばないように、敢えて校長室でなく職員室で待機しているのだろう。その姿は教師の鑑であり、尊敬のまなざしを送らずにはいられない。それに対して私は事務連絡も出来ないひよっこ。連絡網が回ってこなくとも、天候を見て判断し、学校に確認の電話を一本入れておけば済んだ話だ。己の一般常識の無さを悔いた。


「…おや。」
「どうかなさいましたか?」


おいでと招く手に誘われるようにして、水気が飛んで軽くなったコートを脇に挟んで校長の元まで駆けてゆく。窓ガラスをとんとんと人差し指で叩く動作につられてその先を見れば校門に人影が一つ。視界が悪く詳細には分からないが、門を基準にした上背から中等部の生徒ではなさそうだ。高等部か或いは職員か。どちらにせよ寒空の下で待機させては風邪を引く。


「私が行きます。問題が無ければそのまま帰宅してもいいでしょうか。」
「頼むよ。苗字先生の時は門まで迎えに行けなくて申し訳ないことをしたね。生徒優先で目を離せなかった。」
「いえ、校長の判断は正しいです。それに元々私が休校の確認を取っていれば…。」
「ふふ、新人らしくていいと思うよ。宇髄先生辺りには揶揄われるだろうから今日出勤したことは秘密にしておくね。」


さあ早く、と促されて職員室を後にした。踏み出すたびにきゅっと音を上げる廊下を抜けて靴箱に強引にサンダルを押し込んだ。足取りは軽い。産屋敷校長の声に背中を押されているのかもしれない。傘を広げて元来た道を辿ろうとしても、足跡のない真っ新な地面が広がっていた。雪に沈む足を引き上げては進み、引き上げては進みを繰り返して裏口を出れば、道路には車の轍が残っており比較的歩きやすくなっている。滑らぬよう細心の注意を払いながらも急く足に従って校門に回ると、人影は黒い傘を被って案山子のように突っ立ったままであった。頑張ってここまで来たのに明かりのない校舎を見たら呆然とする気持ちは私が一番よくわかる。


「今日はこの雪で休校になりましたよ。」


労わりを込めて出来るだけ優しく声をかけると、振り向きざまに黒い傘に降り積もる雪を滑り落としながら案山子は顔を露にする。


「と、みおか…。」


最も会いたくて会いたくない相手がいるなんて誰が予想するだろうか。私情を挟んでいる場合ではなく風邪を引かないうちに早く帰るよう伝えないといけないのだが、正月以来初めて顔を合わせた動揺で傘を傾けて俯いて押し黙ってしまう。"二人きり"、"雪"があの日を詳細に思い出させるのだ。深い悲しみを帯びた眼差しを浴びるのが怖くて傘を上げられない。厚手のダッフルコートから覗く冨岡の手や首元は白く、今にも凍ってしまいそうだから早く帰したいのに。何故思いやる言葉一つ私はかけられないのだろう。はくはくと口元を動かしても出るのは白く靄のかかった息だけだ。


「…傘を上げてくれないか。」


先に声を上げたのは冨岡だった。静かな声は雪に溶けては消えず、耳元まで届く。何か大切なことを話そうとしているに違いないとおずおず従い傘を肩に乗せて傾けてから仰ぎ見れば、困惑した表情を浮かべている。言おうか言うまいか迷っている、そんな表情だ。


「…名前への連絡網を絶ったのは俺だ。すまなかった。」


冨岡に深々と頭を下げられて、自分へ連絡を回す担当が冨岡だったことを思い出した。業務連絡でも冨岡と関りを持つことに嫌悪していた当時は、緊急事態が起きなければ必要ないからと書かれていた連絡先を登録しなかった。肝心の表も名前を視界に入れたくなくて引き出しの下の方に折りたたんで入れたような気がする。把握していれば確認の電話をかけるなり出来たはずだ。メッセージアプリだってあった。冨岡ばかりが悪いわけではない。それに、私情を挟まずにはいられない事情もある。


「…理由は察しがつくから話さなくていい。それについて怒ったりもしてない。でも何で正しく休校の連絡を受けていたのにここに居るの。」
「………思った。」
「え?」
「……死んでしまうかと、思った。」


何がどう結びついたら死に直結するのか私には理解できないが、恐らく冨岡の中では道筋があり理由があり、その結果を危惧したのだろう。連絡をしないという選択を一度は取ったにも関わらず、覆した。しかし連絡しようにも私が家を出ている時間だったから慌てて支度したといったところだろうか、いつもより髪は跳ねて無造作に束ねられているようにも見える。


「………帰ろう。こんな寒い日に立ち話していたらそれこそ凍え死んでしまうよ。」


優先すべきは安全に帰宅し冷え切った身体を温めることだ。鼻頭を赤くした冨岡を留めておくわけにはいかない。それにこの場所は"あの人"から良く見える。傘を持つ手の方の肩に鞄をかけて、空いた手で冨岡の手を掴んで歩き出した。傘がぶつかり合うのも気にせずに。

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