抉って深く突き刺さる




「話があるの。」
「…錆兎と真菰なら甘酒を買いに、」
「錆兎と真菰じゃない。冨岡義勇に話があるの。」


この場には私と冨岡の二人しかいないというのに、自分に用があるとは思っていない冨岡は気まずそうに買い物に行った二人の名を上げた。目を合わせて言ったにも関わらず、だ。あの冬の日の一件も少なからず影響しているのだろうが、長年碌に会話をしてこなかったことで生じた歪は想像以上に深かったらしい。一方通行でなくなる瞬間が訪れようとは夢にも思わなかったのだろう。名指しをすれば途端に目を見開いて固まった。


「一緒に帰った冬の日、覚えてる?」
「…ああ。」
「冨岡は嫌ならば全て忘れてくれていいなんて言ってたけど、私は忘れられなかった。」


おずおずと話を切り出すと、冨岡は一瞬顔を顰め黙って聞く態勢を取り始めた。話すに至った経緯、今まで取ってきた態度と理由については錆兎に話した時よりかはつらつらと言葉が喉から出てくる。許されようとは思っていないと錆兎には言っていながらも、話して早く楽になりたいという気持ちはどこかにまだ残っているのだろう。甘えを完全に捨てきれていないのだ。かといって自分本位の謝罪をしてまた振出には戻るつもりはない。しかし、冨岡との会話の取り方など分かるはずもなく、ただひたすらに、がむしゃらにぶつかっていくしかないのだ。怒鳴られようと、泣いて叫ばれようと、どんな答えを出されようと全てを受けとめるしかないのだ。


「錆兎と真菰の代替品として接していたのは否定しない。あの頃の私にとって二人は世界そのものだった。冨岡が二人の中で私と同等になっていくのが気に入らなかった。」


核心に触れた時、冨岡の瞳が僅かに揺れた。冨岡はずっと自分が代替品として扱われていたことに気づいてはいたが、私からはっきりと告げられたのはこれが初めてとなる。想定の範囲内でも、実際に口にされる苦しみは計り知れない。手の平に爪が食い込むまで手を握り締めて苦しみを散らせているのだろう、冨岡のコートのポケットが膨らんだのを見逃さなかった。傷つけると分かっていても求められている真実のみを伝えるしかない。塗り固められた虚偽は一時は心を癒してくれるが後から際限のない悲しみが襲う。それを一番分かっているのは他でもない私自身だ。


「嫉妬に狂わされていく自分が恥ずかしくて認めたくなかった。だから冨岡を利用した。」
「それでお前は救われたのか。」
「…仮初だけどね。矛先を他に向ければ自分を責めずにいられたから蟠りが消えて心がすっと楽になった。」


結局蟠りは消えたのではなく冨岡に移動しただけで苦しみの連鎖を生んだだけであった。誰かが救われれば代わりに誰かは犠牲になる。犠牲者が救われればまた次の犠牲者を生む。一度根付いた負の連鎖は断ち切らぬ限り永遠に続いていき、心を破壊していくのだ。しかし、私の犠牲となった冨岡は連鎖を繋げることなく己の手で止めようとしていた。断ち切ろうとする度に傷ついて、藻掻いて、それでも諦めずに鎖に刃を振るった。救われた気になっていた私の鎖は雁字搦めになっていて振るえば振るうほど刃は疲弊してズタズタになっただろう。刃毀れした刃を修復してくれる人間が彼の傍に居たかどうかは分からない。無駄に長い時間をかけて中身のない関係を続けてきた私には知る由もないのだ。

刃を振るい続ける冨岡の強い意志を持った瞳に全て見透かされているようで苦手だった。虚勢を張って大きく見せているだけの私と心身ともに成長し逞しくなっていく冨岡。泣きべそをかいていたあの日の少年の面影すら残っていない。男女の成長差以上に開いてしまった差に気がついたのは鎖が断ち切られたあの冬の日だった。

ちらちらと雪が降り始める。空を朱く染めていたご来光はいつの間にか灰色の雲の中へと隠れてしまっていたようで頬に当たる風が一層冷たく感じる。遠く離れた屋台の傍に錆兎と真菰の後ろ姿を見つけてぐっと唇を噛みしめた。


「全部背負わせてごめんなさい。向き合おうとせず逃げてばかりでごめんなさい。」


本当はもっと謝らなくてはならないことだらけなのだが、一つ一つ拾っている余裕はなかった。謝罪と共に深々と頭を下げてぎゅっと目を瞑る。判決が下るのを待つ緊張感で冷気に晒された手に汗が滲んだ。頭上から降ってくる言葉はない。私が話している最中も冨岡は殆ど口を挟まず相槌すら打たなかったから、今更こんな話を聞きたくなかったのかもしれない。

一度岸を離れて漕ぎだした船は波に押し戻されない限り前進するしかなかった。進むことを許したのは他でもない冨岡だ。言い訳がましい言い方になってしまうのはこの際許してほしい。舞い落ちる雪が首の後ろに当たるたびに沈黙の長さをひしひしと感じさせた。遠くで聞こえる初詣に来た子供たちの燥ぐ声が聞き取れる程耳を欹てていると、じゃり、と石同士が擦れる音がした。


「…それは本心ではないだろう。」


泣き出しそうな切実な声に慌てて身体を起こして目を見開く。擦れる音の正体は冨岡が踵を返したことによるものであった。広く逞しい肩は何かに耐えるように小刻みに震えている。冨岡の感情が揺り動かされているのは見て取れても、いい方向に向かっていないのは考えずとも明らかだ。


「違う、忘れてくれていいって言われた日からずっと考えて、」
「錆兎にでも仲直りしろと言われたか。もしくは真菰に、」
「違う!確かに二人には何度も助けてもらったけど向き合うと決めたのは私自身。」
「嘘はつかなくていい。」
「嘘じゃない!」
「気休めの言葉ならば要らない。」


頑なに耳を貸そうとしない冨岡に詰め寄り、否定される度に声を荒げて背に握り拳をぶつける。冬の厚手のコートの上からとなれば然程痛みは感じないだろうが、痛いと怒って欲しかった。振り向いて、ぶつける手を掴んで止めて欲しかった。近くに居るはずなのに意識だけは深い海の底に沈んでいるようで、呼びかけても届かないもどかしさにどんどん握る拳に力が入っていく。私が嘘をついていないことは誰よりも貴方が一番よく分かっているでしょう?感情が高ぶって目尻が熱くなり、目の膜に溜まる水は堪えきれず静かに零れ出す。雫が頬を伝って舞う雪よりも早く地面に落ちると同時に、振り下ろされた拳はずるずると肩甲骨から腰に沿って力なく滑り落ちる。丸まった背中から微かに聴こえてくる嗚咽が混じった呼吸音が苦しみを滲ませていた。


「…名前は俺の言葉に揺り動かされたりしない。名前には俺の言葉など届かない。たった一日、帰り道の数十分、積年の想いを伝えただけで今までの十年間がひっくり返るなら俺がお前に紡いできた時間は何だったんだ。」


心の底からの悲痛な叫びが針となって私の胸に突き刺さる。罪の意識を薄れさせないように、抉って深く突き刺されたそれは刺すなんて生易しい表現をさせてもらえない。謝罪をすること自体が間違いだったのではないかと思わせるぐらい紛れもない拒絶。苗字名前という人間は、どうしたって冨岡義勇を苦しめる存在にしかなれそうもない。


「すまないが今日はもう帰らせてもらう。二人にもそう伝えてくれ。」


ふらふらと覚束ない足取りで去っていく後ろ姿を追いかけることなど出来るはずもなかった。

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