すべて忘れてくれていい




冬が近づいてきたことで陽の入りも随分と早くなり、部活の時間は夏よりも一時間短くなった。生徒達を帰してから残務整理をすると夏場の退勤は九時を回りがちだったのだが、最近では八時を回る前に帰れている。自分の時間がより多く持てるようになったので、寄り道をして帰るのが日課になっている。今日は愛読している雑誌の新刊の発売日であり、本屋に寄ってから帰るのも悪くない。心を弾ませて卓上を片付けると、足早に職員室を後にした。

下校後の静まり返って暗い廊下を1人で歩く。足音だけが木霊する中を黙々と歩いていると恐怖心が駆り立てられていく。身を縮めるようにして重心を前に倒し歩幅を広げ、少しでも早く暗闇を抜けようと努力した。何度体験しても恐怖心は変わらず、学校を舞台にしたお化け屋敷に好んで行く人達の鋼の心を分けてほしいと思った。

職員用の下駄箱に着くと、下駄箱に背を持たれるようにして腕を組んだ冨岡と目が合った。すぐさま逸らして自分の名前の書かれたボックスから通勤用運動靴を取り出して地面に放れば、右足側のみ側面を向いて転がった。この場から逃げ出したい気持ちから焦っていたのだろう。乱雑に投げられた靴のかかとを合わせて揃えてから足を入れていく。その間も冨岡は何も言わずじっと視線だけを私の方へ寄こしていた。顔を合わせる度声を掛けられるのも面倒だが、何も言われないのもまた引っかかる。トントンと地面につま先を立てて軽く叩いてから歩き出そうとすると、冨岡は漸く動き出して私の隣に並ぶ。


「これから帰りか。」
「そうだけど。何?なにか用?」
「途中まで一緒に帰りたい。」


すぐに断れば良かったのだろうが、何故か私の口から否定の言葉は出なかった。無言を肯定と取った冨岡は通勤用リュックを背負い直して正門へ向かって歩いていく。その半歩後ろを着いていくと、冨岡はペースを緩めて私の隣に並んで歩きだした。

私達の間に会話はない。あるのは街行く人の話し声と車のエンジン音だけだ。無言でも何も感じないのは幼少期からの習慣になってしまっている。それでも初めは他愛のない会話をしていたような気もするが、長く言葉を交わさなかったせいで不確かな思い出になり果てている。楽しい記憶は全て悲しい記憶に上塗りされてしまうのだ。尤も、私の場合は意図的に塗りつぶしただけにすぎない。目の前で点滅する歩行者信号に二人揃って足を止めた。


―冨岡先生が苗字先生を見つめている時、とても悲しい匂いがするんです。


先日、炭治郎に言われた言葉が点滅と共にフラッシュバックした。冨岡の横顔を伺い見ても、いつもと同じように澄ました顔が乗っているだけで何一つ悲しみなど浮かんでいない。炭治郎が言っていたのは表面上ではなく、人間の心の内側から滲み出る匂いなのだろう。だからきっと自分を責めるまでに心配をしてくれたのだ。私が外面だけを気にして内心ではどろどろした感情が渦巻いていることに気づいてしまったから。


「…俺の顔に何かついているか。」


冨岡は怪訝そうに顔を斜めに傾けた。考え込んでいたせいですっかり視線を逸らすのを忘れていた。避けてばかりの女が急に見つめてきたら怪しいに決まっている。何でもない、と赤になった信号に視線を戻してマフラーに口元を埋めた。交通量が多くない交差点の信号の待ち時間は短く、気まずさが続く前に青へと切り替わった。歩き出そうとする私に対して冨岡は固まったまま動かない。私も私で、置いていけばいいのに律儀に立ち止まってしまった。


「少しだけ話をさせてくれ。返事はなくてもいい。」


信号が青になったタイミングで言う絶妙に空気の読めなさが冨岡らしい。一度止めた足を動かすわけにもいかず、黙って首を一度縦に振った。


「炭治郎…、一年の竈門に俺から悲しい匂いがすると言われた。」


寒空の下、白い息を吐きながら言った冨岡の言葉は闇夜に吸い込まれた。気にしていた話題を持ち掛けられるとは思っていなかったが、足を止めた判断は正解だったようだ。胸の内にしまっておかず私と話す結論を出したからには、冨岡なりに思うところがあったのだろう。長くなりそうだと思った私は道路わきの邪魔にならない場所に冨岡を誘導して場所を移した。独自のペースで紡がれる言葉を辛抱強く待つ。


「誰かに気付かれたのは錆兎と真菰以来だったから驚いた。」
「………それだけ?」


散々溜めたにしては内容が伴っていなかったため、つい呆れた声を上げてしまう。


「いや、それだけではない。今まで隠せていたものが隠せなくなってきているのだと気づいた。」
「どういう意味、」
「社会に出てから名前は俺と最低限の関りを持つようになった。だから期待してしまっているのだと思う。」


ぽつりぽつりと紡かれていく言葉は結論が先に来ないために内容が掴めない。焦らせても話が伸びるだけで利点は何一つない。私が合わせるしかないのだ。適当に相槌を打ちつつ、次にくる言葉を待った。


「お前にとって俺は錆兎と真菰が一人にならないように入れられた代替品に過ぎないことは出会ってすぐに気づいていた。偶々錆兎に紹介された俺を迎え入れただけで、別に誰でも良かったのだと。」
「そんなこと、」


否定の言葉は虚しくも闇に消える。冨岡から告げられたのは真実なのだから否定が出来るはずもないのだ。言い淀んでいると無表情だった冨岡の顔は見る見るうちに眉が寄っていく。


「…俺はずっと名前に代替品ではなく一人の人間である冨岡義勇として見て欲しかった。」


言葉の最後の方は擦り切れて耳を欹てないと殆ど聞こえなかった。押し込めていたものをやっとの思いで取り出したのだろう。苦痛に歪んだ顔は見るに堪えずマフラーに顔を埋めて目を隠した。私の浅はかで傲慢な考えを見抜いたうえで共に過ごしてきた冨岡が初めて吐露した切望は重くのしかかってくる。気付かれていないと思っていたのは私だけで、冨岡は気付かないふりをしていただけだった。関りを持ち始めたことで抑えきれなくなった欲が悲しい匂いとして炭治郎の鼻に届いたのだ。


「…今の名前に言っても困らせるだけだと分かってはいる。しかし伝えておかなくては始まらないとも思った。」


―嫌ならば今日話したことは全て忘れてくれていい。

[ 12/20 ]

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