気付かないふりをしている




暖かい恰好をして栄養価の高いものを食べてよく寝れば風邪が治るなんて一体誰が提唱したのだろうか。時刻は午前七時、普段なら出勤準備を済ませて家を出る時間だが、ベッドから起き上がることもできない私の身体は完全に病に侵されていた。先日まで止まらなかった咳は嗚咽に変わるほど酷くなっており、頭は石の様に重たい。加えて全身が燃えるように酷い熱を持ち、発汗量も増している。市販薬で治まるような風邪でないことは明らかである。風邪は子供の頃と同様に猛威を奮っていて、大人になっても変わらないのだとため息を溢す。

熱が出たという結果はどう頑張っても覆ることはなく、対処を考えなくてはならない。まずは病院で診断を受けるのが先決だろう。しかし、出勤時間には開院しておらず行くならば午前休を取る他ない。午後から出勤できるかと言われれば厳しいことこの上ないのだが、教師は簡単に全休を取れるほど恵まれた職業ではない。感染リスクの高い風邪でなければ、多少体に鞭を打ってでも出勤する必要があるのだ。学生までだったら風邪は休みを取る口実の一つだったというのに、社会人になると悩みの種に変わる。このまま布団に包まれて眠れたらどれだけ幸せか。そんなに甘くないのが現実である。

既に出勤している先生方もいるだろうとベッド脇の棚に置いてある携帯電話を渋々手に取り、学校の時間外電話へと繋いだ。三コールほどの呼出音の後に柔らかな声が聴こえてきて、それがすぐに胡蝶先生のものだと分かる。鼻声で用件だけ簡潔に伝えると、お大事にという労わりの言葉をかけてくれる。その言葉が妙に染みて胸がじんと熱くなった。体調不良について説教されることもあるとネットで見たこともあったから、内心ドキドキしながらかけたのだ。電話に出たのが胡蝶先生だったのは本当に運がいいとしか言いようがない。その他に午前の担当クラスについての事務連絡を済ませてから通話を切り、力なく携帯電話を布団に落とした。これでひと段落は着いたので、あとは病院に向かうのみである。重い腰を上げてベッドから起き上がり、最低限の身だしなみを整えると、家族用の車の鍵を持って家を出た。


風邪ですね、なんて呑気な声で診断結果を告げた医者の指示に従い薬を貰うと、すぐさま帰宅して食後に錠剤を流し込んだ。午後から出勤すると報告は入れたほうがいいと判断し、今朝ぶりに携帯電話を取り出すと何件かのメッセージが入っている。本来ならば勤務中である時間帯に返事を返すのは教師として良くないだろうと変なところで真面目さを発揮してしまったため、見て見ぬふりをして再び学校に電話をかける。


「苗字先生、話は聞いているよ。」


胡蝶先生とはまた違った種類の優しい声の持ち主が受電した。受話器越しに話しているはずなのに、妙に頭に響く話し方をする。この声の正体は滅多に聴くことがない産屋敷校長のものであると理解するのにさほど時間はかからなかった。


「今日は休みなさい。」
「休んでいる間にも生徒達の授業は遅れていきます。薬も貰いましたし、効いてこれば午後の数時間ぐらい平気です。」


寝起きまでは午後も休みを取りたい気持ちでいっぱいだったが、午後になると体調も安定してきて出勤は可能な範囲内になった。なので先程言った言葉も決して嘘ではない。これでも覚悟を決めて教職を選んだのだ。しかし、受話器から聞こえてくる声は優しく窘めるように話す。


「先生は生徒の鏡とならなくてはならない。体調が悪いのに無理して出勤する姿を見たらどう思う?彼らも真似して無理をするかもしれないよ。」
「ですが、校長。」
「苗字先生は少々責任感が強すぎるようだ。いい機会だから一度自分を見つめ直すように。お大事にね。」
「…はい。」


反論の余地も与えられないまま電話は切られ、気が付けば完全に丸め込まれてしまっていた。携帯電話のディスプレイには通話が終了しましたの文字が並んでいる。校長の判断は学校の判断でもあるから、これ以上何を言っても休養は覆らない。嬉しいような、嬉しくないような気持ちのまま、自室に戻ると布団の中に転がり込んだ。休みを貰ったからには今日と明日からの二日を含む休日で風邪を治し、月曜からはまた元気な姿で出勤するために努めよう。その為には体を休めることからだと深々と布団を口元近くまで引き上げて被る。暑いぐらいがちょうどよく、汗をたくさんかけばその分熱も早く下がるだろうという安直な考えである。薬の副作用による眠気も襲ってきて、熱に浮かされながらも意識を手放すまでに時間はかからなかった。


次に目が覚めた頃にはカーテンから零れる陽の光はすっかり無くなっていた。随分と長い間寝ていたようで、同じ態勢で寝ていたのか体は凝り固まっている。体調も寝る前よりかなり良くなっていて、起き上がるのも苦ではない。特に動いていなくともお腹は空くもので、リビングにて食事を取ろうと立ち上がろうとした時だった。ドアが独りでに開いたと思ったら、見知った宍色の髪が隙間から顔を出す。


「…電気、つけるぞ。」


暗闇だった自室に光が射すと、目が順応できずに視界が真っ白に霞む。耐え切れずにぎゅっと瞼を閉じても刺激はなかなか消えてはくれない。


「すまない、暗闇の方が良かったか。」
「ううん、時期に慣れるから平気。…どうかしたの?」


漸く光を受け入れられるようになった目を薄く開きながら錆兎を捉える。立ち話もなんだろうと椅子に座るように言えば、病人相手だからすぐに帰ると言って姿勢は崩さない。私の方はベッドの縁に腰かけて話を聞く態勢を整えた。


「俺や真菰がいくらメッセージを送っても返事がないから心配した。義勇に聞けば風邪で休んでいると言うし。」
「ごめん…、あとで連絡しようと思ってたんだけど今の今まで寝ちゃってて。」


寝癖のついた髪を手櫛で梳きながら寝起きの身なりを整える。幼馴染とはいえ錆兎は男性なわけで、乱れた姿を見られるのには抵抗があった。立っている錆兎からはボタンが開けられたパジャマから胸が見えてしまうのだ。彼は気にしてませんというような表情をしていても、ふわふわの髪からの覗く耳が真っ赤に染まっている。ごほんと大きく咳ばらいをした錆兎は両手に持ったビニール袋を差し出した。


「見舞いで持って来た。食欲がなくてもしっかり食べてくれ。」
「ありがとう。でもなんで二袋も…?」


受け取った袋の中身は全く同じだが、一つはゼリーがまだ買った直後と等しく冷たく、もう一つは常温に近い。時間を空けて同じものを二度買う意図が分からないから、恐らく錆兎が買ったのは冷たい方だけだ。もう一つの心当たりはないと言えば嘘になる。


「……気付かないふりはもうやめろよ。」
「…何のこと?」
「その袋を俺に預けた奴の正体、分かってるんだろう。」


確信めいた言い方に笑って誤魔化すことしかできなかった。買ったはいいが渡す勇気が出ず家の前で立ち往生していたところ、錆兎と会って託す判断をした男のことぐらい検討が付く。こちらを見る藤色の瞳は濁ることなく真っすぐで、何もかも見透かされているような気がした。

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