胸を張って大切と言える関係




梅雨前線がかかり、梅雨入りが発表されて早一週間。傘が手放せない日々が続いている。生徒達も外で運動できずストレスが溜まっているのか、廊下で騒ぐものが多い。今日だけで走り回る生徒を何人注意したことか。気持ちは分からなくもないのだが、怪我をしたら一大事なので気を付けてほしい。廊下の窓から眺める鉛色の空は、心までも覆ってしまいそうなほど厚い雲が折り重なるようにして漂っている。換気の為に浅く開いた窓から入ってくる湿気を含んだ重苦しい空気は少々息苦しい。息を大きく吐いて吸い込んでも憂鬱は晴れてくれない。


―お前は一度だって俺の話に耳を傾けたことなどなかった。当然だ。


あの日の冨岡の言葉と表情が纏わりついて離れないのは、この天気のせいだ。他事をしていてもふと脳裏を掠め、私の心に小さな針で穴を空ける。空いた穴は塞がらなくて、塞ぐ術を知らなくて、日に日に大きくなるばかりだ。錆兎や真菰ならこの穴の埋め方を知っているだろうか。…いや、梅雨が明ければきっと自然に元通りになる。流れに身を任せていればいい、何も考えなくていい。ぽつぽつと窓ガラスに水滴が付き始めたことに気づき、そっと窓を閉め、鍵をかけた。腕時計に目をやると休み時間も間もなく終わろうとしている。次の授業が始まる前に教室に入り準備を始めなくてはならない。持っていた教科書を胸にしっかり抱えながら急ぎ気味に歩き出した。


「遅えぞ紋逸!間に合わねぇだろうが!」
「伊之助が早弁してたからだろ!?」


騒がしい声と荒い足音が廊下に木霊した。あれだけ注意したのにまだ廊下を走っている輩がいるらしい。足音を聞く限りでは相当なスピードが出ている。他の生徒にも危険が及ぶ可能性があるため、注意しなくてはと声のする方へ向かう。階段への曲がり角のあたりだろうか、声が大きくなってきた。


「っ…!」


曲がり角を塞ぐように腕を広げて構えた私に、野生の猪と見間違うほどの勢いで突っ込んできた男子生徒は急に止まれるはずもない。額と額がぶつかったと思ったらひどく鈍い音がして、視界が霞んだ。意識を保っていられずそのまま倒れこむ。受け止めきれないとは想定していなかった。他の生徒にぶつからなかっただけ良かったと思おう。ぼやける視界に映る三人の生徒の顔と、悲鳴、それから…優しい匂いに包まれた気がした。


―名前、名前。


誰かが私の名前を呼んでいる。呼応するように薄く目を開くと、目の前には今にも泣きだしそうな錆兎の顔があった。よかった、よかったとしきりに呟いて泣く彼の姿は心なしか幼い。そうか、これは夢の中だ。私の記憶の中の一ページが読み返されているだけなのだ。男ならば、が口癖の彼が涙を見せた出来事といえば、私が足を滑らせて崖下まで転落し頭を打った、小学生の時の野外研修。人間同じようなシーンに直面すると色濃く思い出すというけれど、今がまさにそうなのだろう。息絶え絶えの私を救ってくれたのは錆兎だった。ピンチの時は真っ先に駆けつけてくれる彼は私のヒーローだ。頼り切ってばかりの弱い私に嫌な顔一つ見せたことがない。この日だって、私がいないことに気が付いて足元が悪い山の中を降りて探してくれたのだろう。意識が戻ったことを確認した錆兎は私の顔に付いた泥を着ていたシャツで拭うと、先生を呼んでくると言って走っていってしまう。そして代わりに残されたのが、頬に涙の線がついた冨岡だった。そっと生きていることを確かめるように繋がれた手は爪の中まで泥が入り込んで汚れている。よく見ると手だけではなく全身泥だらけだった。何故滑落していない冨岡が泥だらけだったのかは二度体験してもやはり分からないままだ。ぐっと握られた手が夢の中なのに、時が巻き戻されたのかと勘違いしてしまうほどに温かい。握り返すと感触が伝わってきて、現実世界で誰かが私の手を取ってくれているのだと理解すると、意識が一気に浮上した。


「苗字先生、聞こえますか?」


眩しい光に顔を顰めながら目を覚ますと、白い天井と胡蝶先生の姿があった。意識が戻った途端激しい頭痛に襲われる。先程までの夢見心地が嘘のようだ。瘤が出来て腫れているのは容易に想像できる。心配をかけないように彼女には大丈夫だと伝えたが、声と表情は一致していないだろう。笑顔でこたえられるほど私は強くない。手を借りながら体を起こし、ベッドの縁に腰かけると、引かれたカーテンに映る三つの影が目に付く。


「君達、入ってきていいですよ。」


胡蝶先生の一声で影は動き、閉められていたカーテンはゆっくりと捲られた。


「苗字先生、すみませんでした!」


勢いよく謝罪を口にし頭を下げて入ってきた二人に連れられて、額に瘤を作ったもう一人が腕を組んで入ってくる。意識を飛ばす前に私の顔を覗き込んでいた生徒達だ。三人とも罰が悪そうに目線を泳がせている。私は脳震盪を起こして意識を飛ばすほどの衝撃だったが、瘤の彼は問題なかったのだろうか。心配になりそっと手を伸ばして頭に触れると、彼はぴくりと肩を揺らして飛びのいた。


「なにすんだてめえ!」
「こら伊之助!先生には敬語だぞ!」


言動は荒々しいが、顔は朱で染まっているから単純に恥ずかしかったのだろう。高校生相手に頭を撫でるのは流石に子供扱いをしすぎたかもしれない。


「いいのいいの。えーっと、伊之助くん。君は頭痛くない?」
「紋治郎ほどの石頭じゃなかったからな。これぐらい山の王の俺様には痛くも痒くもねぇぜ!」


元気そうにガッツポーズを見せた伊之助に安堵した。未来ある若者に怪我を負わせてしまったら一生悔やんでも悔やみきれないところだった。私の体調を心配してくれる二人は竈門炭治郎と我妻善逸と名乗り、再度の謝罪をした。この広い学園で生徒の名前を覚えるのは難しいけれど、この件をきっかけに三人の名前は忘れることはなさそうだ。一応怪我人の前だというのに廊下でぶつかった時の様に騒ぎ出した三人の仲が良いことは十分に伝わってくる。…三人一緒か。小さい頃の自分の影がちらついた。


「…君たちはとても仲がいいのね。」
「はい!善逸も伊之助も大切な友達です!」
「ちょっ炭治郎…!恥ずかしいだろ!先生の前で!」


恥ずかしげもなく言った炭治郎に善逸は照れながら背中をバンバン叩く。伊之助も満更でもなさそうだ。青春だな、なんて思っていれば、カーテン越しに見守っていた胡蝶先生が「そろそろ昼休みが明けるから戻りなさい」と声をかけたことで、三人はまた嵐のように去っていった。去り際に閉められたドアが数センチ開いているのを見て、肝心なことを伝え忘れたと気づく。


「しまった…。廊下は走らないようにと注意するのを忘れてた。」
「それならもう十分お説教は受けてますから大丈夫ですよ。」
「え?」
「ちょっとかわいそうなぐらいでした。でももう二度と廊下を走ることはないでしょう。」


にこにこと笑顔でカーテンを開く胡蝶先生の周りにはいつもに増して花が飛んでいる。様子を見る限り詳細を教えてくれる気はないらしい。倒れている間に起きたことはまた今度三人を捕まえて聞くこととしよう。ベッドから立ち上がろうと手をついた私に、胡蝶先生は目を細めて手を伸ばしてきた。


「あら、苗字先生、肩に髪の毛が。」


胡蝶先生がつまんだ毛髪は一体どこでついたのか私の毛質とは明らかに異なっていた。

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