ひとさじいかが? | ナノ




Rei Furuya


「降谷さんやっぱり私無理…!」
「いまさら何を言ってるんですか。ほら早く。」
「だめ、まだ心の準備が…ちょっ待って…あっ!」


現在私たちがいるのは高級料亭の扉の前である。何故、私のような普通のOLがこんな普通じゃない料亭の前にいるのかというと、以前安室という名前で呼ぶことを承諾した時に、回らない寿司を引き合いに出したからだ。随分前の話だったが降谷はちゃんと覚えていたようで、休日の今日、待ち合わせをした後にタクシーでここまでやってきた。寿司でなく、それよりも高い料亭になったのは結果オーライだ、こんな店私一人では絶対に来れない。いざ着いてみると、品に圧倒されてしまい入り口を跨げないでいた。そんな私を見て、降谷は呆れて私の手を引っ張り中へと進んだ。


「変な声出さないでもらえますか?恥ずかしいし、ここで色気出されても困るのですが。」
「別にそんな声出してないですって!」


言い争いをしていると、料亭の方が出てきて出迎えてくれる。降谷と靴を脱いで上がり、案内されるままついていく。畳の縁を踏まないように気を付けながら歩いていると大股になったり小股になったりと歩くリズムが狂う。降谷はというと、目線を一切下げないのに縁を全く踏んでいないところから、こういった場に慣れていると感じた。しばらく歩いた後に襖の前で止まり、ゆっくりと襖が開かれていく。奥に広がる庭園に目を奪われ、思わず声が漏れた。中に入って向かい合うように座り、料理についての説明を受けると、料亭の方が出ていったので庭園の方を再び見つめた。ほのかに光る灯篭が木々を照らし、都内なのにまるで山の中にいるかのような静けさを醸し出している。


「見とれてしまうのも分かりますが、これからもっと美しい料理が運ばれてきますよ。」
「それは困る、目がいくつあっても足りない。」
「落ち着いて楽しみましょう?…かくいう俺も緊張していますが。」
「あれ、慣れているように見えたけど違うの?」
「七海が入る前、変に緊張していたから移りました。あとは…お見合いみたいだな、と。」


ドラマでしか見たことがない知識だが、確かにお見合いの定番といえばこのような料亭だったはずだ。冗談はやめてくださいと言うと、降谷は露骨に不機嫌さを顔に出す。冗談以外ならなんだというのだ。はい、そうですねなんて返してしまえば、私が降谷に気があるみたいではないか。…断じてないわけではないけれど。前回のクッキーを渡した日に思わせるような態度を取られたが、きっと私の反応を見て楽しんでいただけで今回もそうだと思っていた。


「…七海はこういった場で男と二人、意識しないのか。」
「降谷さんですし、とくには。」
「はー…距離を詰めすぎたかな。」


ため息を吐いて前髪をかきあげた降谷は、ぶつぶつと何かを言っているが聞き取れない。そうこう話しているうちにご飯とみそ汁、そして向付が運ばれてきた。炊き上がりのご飯は温かく、これから食事が始まる合図となるものだ。降谷と目を合図して手を合わせると、箸を持ってまずは一口いただいた。


「家で炊くのとは全然味が違う。お米にしっかり味がある…。」


噛みしめるように食べている降谷も同じように感じたのか普段の食事のペースよりも格段に遅いことに気が付いた。ご飯でこれだけ美味しいということはみそ汁も、この先の料理も相当なものだろう。ご飯を少量残してみそ汁に手を付けると、出汁の旨味がはっきりとわかるものだった。化学調味料に頼った家のみそ汁ではとても太刀打ちできそうにない。


「そんなに嬉しそうに食べてもらえると連れてきて本当によかったよ。ほら、お酒をお注ぎしますよ。」
「ありがとうございます。あ、私もお返しさせてください。」


互いに注いで飲むけれど、酒の味の違いはさすがに判らなかった。私の生活において日本酒は馴染みがない。降谷と食事をするようになってから嗜むようになった程度である。酒と相性のいい向付をいただきながら、次に出てくる料理を今か今かと待ちわびていた。降谷は箸をおいて、庭園の方を見ながら酒を煽る。私もつられて猪口を持ち、視線を庭園へと移した。
 

「…入る前はあんなに緊張していたのに、料亭は初めてではないでしょう?」


庭園を見ていた優しげな眼が、射貫くような視線に変わり私に注がれていることに気づいたが、目線を合わせず言葉を返す。


「なんでそう思うんです?」
「マナーです。縁を踏まないこと、食べる順、何より初めのご飯は少量残すこと。最後のに至っては、一度でもこういった場を知らないとなかなかできないことですよ。」
「…わたしも社会人だからね。本格料亭に入るのは初めてだけど、懐石はいただいたことあるし、作法はその時に学んだ。」
「本当に?」
「それ以外に何があると?」


それ以上降谷は追求してこなかった。そうですよね、なんて困ったように笑う顔を見たくなくて、庭園から目をそらすことが出来ない。降谷は私について一体どこまで知っているというのか。思えば初めて出会ったあの日だって、きっと…。いや、無粋な考えは止そう。流れる空気が重苦しさに耐えきれず、猪口の酒を疑念と共に一気に喉に流し込んだ。


「折角楽しんでいたのに気分を害してしまってすみません。」
「いいえ、大丈夫です。私たちがこんな顔をして食べていたら料理が泣きますよ。だからさっきの話は、」


もう忘れましょう。

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