ひとさじいかが? | ナノ




KID.


早く帰れた週の中日、スーパーに寄って夕飯の食材を購入していた。必要最低限のものだけを買うつもりだった。だった、と過去形になってしまったのは、かごに入っているホットケーキミックスと無塩バターが物語っている。久しぶりにお菓子でも作ろうかと思い立って、気が付いたらかごに入れていた。あげる相手は何人も浮かんでくるのだが、次の日が平日ということもあって厳しい部分が多い。連絡だけしておいて、無理だったら職場の人たちに配ればいいか。


家に帰ると早めにご飯を済ませてお菓子作りに取り掛かる。作るのは量産できる万能なお菓子、クッキー。ホットケーキミックスと砂糖、卵にバターを混ぜ合わせた生地をこねる。生地が出来上がったら、冷蔵庫で30分ほど寝かせる。寝かせている間に使った道具を洗い片付けてしまうと、まだ時間があるのでソファの上に転がった。今のうちに渡す人に連絡だけしてしまおう。指を折りながら人数を数える。


「降谷さん、松田さん、萩原さん、工藤くん、服部くん…は無理か。大阪に住んでるんだった。蘭ちゃん達はポアロに行けば来てくれるかな。」


ざっと数えて7人に、一斉送信でクッキーを渡したい旨を連絡した。送ったのを確認してからスマホをテーブルに置いて、雑誌を開くと同時にスマホが振動する。まさかもう返信をしてくる人がいるというのだろうか。半信半疑でメールアプリを開くと、松田陣平と表示されている。メールを開けば"いる"と2文字だけの簡潔すぎるメッセージだった。一見ぶっきらぼうに見えるメッセージも、松田はスピードを重視して送ってきてくれたのだと分かっているからちょっとかわいく思えた。あとの人たちはクッキーを作り終えてからまた確認しよう。松田には楽しみにしててくださいとだけ送ってスマホを置いて、雑誌を読む体制に戻った。





30分後を知らせるアラームが鳴ると、雑誌を読む手を止めて伸びをする。続きは焼き時間の楽しみとしよう。すぐにキッチンに向かおうと思ったが、テレビから速報の音が聞こえて振り返った。先ほどまでやっていたバラエティが急にニュースに切り替わる。何事だろうと注目すると、その画面に映し出されたのはどこかのビル。ビルをバックにリポーターが"予告状通りキッドは現れるんでしょうか!ビルの周りには警察官が配備されています!"と周りの様子を伝えてくれた。怪盗キッドといえば宝石類を狙う気障な泥棒、だったか。まあ私には関係のないことだしクッキーづくりに勤しむとしよう。BGMにテレビを一応つけておいて、キッチンに入ると冷蔵庫から生地を取り出した。引き出しから型と綿棒を取り出すと手際よく作っていく。女の子達にはハート、降谷さんたちは…星とかでいいか。作ったものをオーブンのトレイに並べると、余熱で温めておいたオーブンの中へ入れてタイマーをかけた。


「うまくできるといいな。」


温度などの確認をしてから再び雑誌タイムへと戻ろうとしたその時。"キッドがビルの屋上から飛び去っていきます!どこへ向かっているのでしょうか!警察も後を追っています!"とリポーターの焦る声がテレビから聞こえてきた。また警察は捕まえあぐねているのかと呆れるが、私があの場にいても何もできないだろう。お疲れ様ですと人ごとのように言ってテレビを見ると、キッドがグライダーで飛んでいく方角に見覚えがある。もしかしてうちの近くにキッドが飛んできているのかも。有名人見たさに窓を開けてベランダに出るが、白いグライダーは浮いていない。残念。ついでに網戸にして換気すると、ソファに転がった。


「ちょっとだけ見てみたかったかも。」
「誰を?」
「誰ってもちろん怪盗キッド…。」


…わたしはいったい誰と会話をしているんだ?慌てて声のする方を見ると、白いスーツにハットを身にまとい、片目をモノクルで隠した怪盗の姿があった。驚いて手からこぼれた雑誌が落ちる。


「甘い香りに釣られてきました。よろしければお邪魔させていただいても?」


まだ何も言っていないのに上がり込むキッドは私の目の前まで来ると、バラを差し出した。


「ありがとう…?」
「どういたしまして。」


受け取ったバラは造花ではなく立派な生花で、どこに崩れずしまっておけるのか疑問だ。折角のプレゼントを無碍にするわけにはいかないので、一輪挿しの花瓶を引っ張り出してきて飾る。いい香り。キッドはというと、ソファで帽子を脱いでくつろいでいる。モノクルも外して素顔を見せてくれないかな。じろじろ見ていると気まずそうに眼をそらされた。


「近くで見るとすごく若く見える…、それ、外して見せてよ。」
「それは困ります。」
「えー…無理やり外せばいい?」
「お嬢さん、それははしたないのでやめた方がいいかと。」


覆いかぶさって無理やり取ろうとするポーズを見せると、苦笑いをして止めるキッドは素顔だけはどうにも晒したくないらしい。トランプを取り出したり鳩を出したりあらゆる手を使って阻止してくる。そこまでされると私もむきになって、どうにか外させてやりたくなるけれど、うまくいかない。


「…オーブンからいい香りがしてますがいいのですか?」
「忘れてた。」


危ない、焦がすところだった。キッドの言葉を受けてキッチンへと向かい、オーブンを開けると、小麦色をしたクッキーが並んでいた。出来立てのクッキーを一つ、息を吹きかけながら食べると、サクサクでちょうどいい甘さだ。これなら甘いものが苦手な人でも美味しく食べてもらえそう。味のチェックが完了したので、冷まそうと皿に移すと、伸びてきた手がクッキーを一つさらっていく。


「…あっちー。お、これはなかなか。」
「ちょっと。」


白い手袋をつけた手がまたクッキーをつまもうとしたのに対し、私はその手を捕まえてやる。


「これは友人のために焼いたものだからまた今度来てくださるかしら、怪盗さん?」
「…それは失礼いたしました。お誘いをいただいたのでまたの機会に頂戴します。」


宝石じゃないんだから、そんな言い方しなくても。さっきふと出た青年らしい素のほうが人間味があっていい。キッドは踵を返して、机に置いてあったハットを被り出ていこうとする。私は伝え忘れたことがあったから引き留めた。


「あと一つ。」
「なんでしょう?」
「次来るときは玄関からどうぞ。表札は水野です、お間違いのないように。」
「ご丁寧にどうも、七海さん。ではまた近いうちにお会いできることを願ってます…よっ、と!」


ベランダの手すりから身を投げると、グライダーを開いて飛び去っていく。その様子を眺めながら、反応などかえってくるはずもないのに手を振ったのだった。

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