ひとさじいかが? | ナノ




Rei Furuya


あの後の食事はお互い笑いながらも空元気といった状況で、どちらからともなく帰り支度を済ませると店を後にした。


「タクシーを呼ぶので待っていてください。」
「はい、ありがとうございます。」


降谷は電話をかけるため、私から少しだけ離れる。その姿を追ってみていると、普段の堂々と背筋の伸びた広い背中が、今は小さく見えた。それもこれも私のせいだ。降谷はきっと何かわかって私に質問をしたのだと思う。つまらない嘘をついたりしなければ…、いや、もう後の祭りである。私にも踏み込まれたくないことの一つや二つあるわけで、正直に答えなくてもいいと分かってはいるのだが。彼に嘘をつくのは心が締め付けられる思いだ。


「ちょっと寒い…。」


初夏でも夜は風が通って、袖のないドレスコードでは肌寒く感じる。夕方はいい天気で暑かったため、上着の類は何も持ってこなかった。カーディガンぐらい持ってこればよかったな。料亭の塀を風避けに腕を擦りながら待っていると、肩にふわりと温かい重みがかかる。振り向くとタクシーの手配を終えたのであろう降谷が私の背後に立っていた。


「俺の上着でよければ使ってください。体を冷やしてはよくない。」
「それでは降谷さんが…。」
「俺は長袖のシャツなので問題ないですよ。ほら、袖を通してください。腕がかなり冷えてる。」


腕を掴んで体温を確認した降谷は、私の背後に回ってジャケットを軽く浮かせた。その行為に甘えて袖を通すと、大きい降谷のジャケットから私の手はわずかにしか出ない。いわゆる、萌え袖というやつ。まだ温もりの残るそれは冷えた私の腕にはとてもありがたかった。さらに私に風が当たらないよう風上に立ってくれているのも降谷なりの気遣いなのだろう。降谷に小声でありがとうと伝えると、にこりと笑って右手を軽く私の方へと寄せる。


「タクシーは10分ほどで来るようですから、もしまだ寒ければ言ってください。手や腕なら貸せますので。」
「えっ…!それは…。」
「…そこまで戸惑われると悲しいのですが。」


思わぬ申し出に戸惑うと、降谷の右手は寂しそうにポケットにしまわれていった。私は恋愛経験が豊富ではない。差し出された手を意識せず取ることは私にとって難易度が高いことだ。でも降谷はそうではないらしい。私にさらりと手を差し出しているあたり、こういったシチュエーションに慣れているのだろう。恋愛経験の差から誤解されてしまっているかもしれないと慌ててフォローに回る。


「嫌ではないんですよ?…ごめんなさい、そういうの慣れてなくて。」


恥ずかしながら告げれば降谷は驚いて言葉を詰まらせる。妙齢の女が手もうまく取れないのかと思われただろうか。


「…いえ、それを聞いて逆に安心しました。仕事柄女性に手を差し出せば取るものだと勘違いしていました。七海はそのままでいてください。」


一体どんな仕事なんだと聞きたいところだったが、降谷が心底安心したように表情を緩ませたから追及はやめることにした。こちらも誤解が解けて胸をなでおろした。ほどなくしてエンジン音が聞こえてきて、音の方角に目を向けるとライトが私達を照らす。それは降谷の呼んだタクシーが到着したことを示していた。降谷が停車したタクシーの後部座席のドアを開けて私を先に乗るように促したので、同意して乗り込んだ。降谷も隣に乗車すると、私の家の近くの公園を行き先に指定してタクシーは動き出す。


流れる景色に目を向けながら窓ガラスに反射する降谷の横顔を見つめていた。密室空間に運転手という第三者を挟むとどうにも口数は減るもので、乗車してからは沈黙が続いている。元々食事中から雰囲気はあまりよくなかったしそれが明るみに出ただけだ。人間とは不思議なもので、こういうときほど時間が長く感じる。さほど離れていない自宅までの道も、半分ほどの距離で、すでに数倍時間がかかっている気がした。時々手を擦り合わせてみたり握ったりを繰り返していると、その様子を見てか、降谷が沈黙を破った。


「いつか貴方にちゃんと確かめたいことがあります。」


力強い声をしてまっすぐ前を向いて降谷は言った。何が、とは聞かない。薄々検討はついている。


「だから約束してほしい。自分に嘘はつかないと。」
「…降谷さんは私が嘘をついたと思ってるの?」
「ええ、嘘をついたと確信しています。」


窓を見つめたまま視線を交わすことなく話し続ける。じわじわと解けるように私の心の中に入り込んでくる降谷を追い出す術はもうなかった。きっと出会った時から融解は始まっていて、気付かぬうちに深いところまで侵食していただけだ。しかし、ただの友人に降谷がここまで深入りする人間でないことは十分に理解している。探るだけの価値が私にあるとでも。嘘ぐらいで捕まるような世の中ではない。覚悟を決めるようにゆっくりと目を閉じてから開けると、いつの間にか窓の外の景色は自宅近所の光景へと変わっていた。


「降谷さんが信頼できる人になったら、考えてあげなくもない。」
「ほぉ…、俺が信用ならないと。」
「秘密が多いのは降谷さんも同じだよ。名前に仕事、教えてもらってないことたくさんあるし…あと、敬語が胡散臭い。時々出る崩れた口調の方が素なんでしょう?取り繕った姿で尋問しようったってそう簡単にはいかないんだから。」


言い切ると同時にブレーキがかかり、慣性に従って私の体は前へと倒れてからすぐに後ろに引き戻される。窓の外は暗く、街灯の明かりが見える開けた場所、公園であった。お客さん、着きましたよ。運転手の声に私は財布からお金を取り出して降谷に押し付ける。こうでもしないと降谷は受け取らない。ドアを開けて降りると、唖然とした降谷がタクシーの中に残されていた。すぐに表情を引き締めた降谷は運転手に何か一言告げると車から降りてくる。


「そこまで言われるとは思いませんでしたよ。…スマートに攻めようかと思ったけど指摘されたら止めた方がいいな。」
「その方が貴方らしいですよ、降谷さん。」
「…泣いているばかりの弱虫じゃなさそうだ。今日は夜遅い、日を改めてまた伺うよ。おやすみ七海。」


降谷は不敵に笑って再びタクシーに乗り込んだ。去っていくタクシーを見つめながら、肩に乗った温もりを思い出しクリーニングに持っていかなければと考えながら遠くない自宅までの道のりを歩いた。

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