ひとさじいかが? | ナノ




Rei Furuya


それは俺が卒業を控えた大学4年生の時のことだ。単位もとり終え、卒業後の進路も警察学校と、やるべきことをすべてこなした俺は暇だった。友人はそれなりに多くいたものの、学外で積極的に関わることはなく、趣味のボクシングでジムに通ったり図書館で本を借りて読むなど一人で過ごすことの方が圧倒的に多かった。


ある雪の降る冬の寒い日、読み終えた本を持って家を出た。返却期限までまだ時間は残っていたし、わざわざ雪の中外へ出る必要はなかった。そう考えていながらも、体はいつの間にかコートを羽織ってマフラーをつけて、手袋を被せて完全防備した姿で街を歩いていた。クリスマスを直前に控えた街は色とりどりのイルミネーションで装飾されていて美しい。光る街道を抜けて図書館へと入り返却を済ませれば、新たに3冊ほど借りて足早にその場を後にした。一刻も早く帰ってこたつに潜りたい。その考えから自然に歩くスピードは速まっていった。


自宅マンションが見えてきて、いよいよこたつまで目前と迫ってきた俺はポケットを探って鍵を取り出そうとした。


「あ…。」


手袋で滑った鍵は道路に積もった雪の上に落ちる。拾うために足を止めて、ふと隣にある公園を見やるとベンチに人影があった。こんな雪の日に一体誰が。目を凝らしてみると、その人物は傘も持たずうなだれている。まさか事件、そんな考えが頭をよぎり、将来目指す警察官という職業柄から放ってはおけなかった。公園に足を踏み入れてベンチの方へ向かう。雪を踏みしめる音が鳴るが、人物はなおも姿勢を崩そうとしない。近づいていくと、その人物が小柄で女性もののコートを羽織っていることに気が付く。もしかして、彼氏に振られてこの場所にいるとか。もしその仮説が真実であったならば、非常に厄介だ。傷心した女性を慰めることほど面倒で時間を取られることはない。失敗した、と思ってももう遅い。傘を女性の体にかかるように傾けて正面に立った。


「…こんな時間に一体何をなさっているのですか。」


返事がない。というより、聞こえているかどうかも怪しかった。仕方なしに肩を揺すろうと手を伸ばす。二、三回細かく揺らしてみると、女性は俯いていた顔をゆっくりとあげていく。


「大丈夫ですか。」
「…大丈夫です。」


赤く腫れた目をしながら、震える口でやっと紡いだような言葉を信用できるわけがない。ここに長くいたんだろうことを示す血色の薄い頬と、青くなった唇が証拠である。大丈夫の言葉を聞いて立ち去ればよかったのに、何故か俺の足は動いてくれない。それどころか降り積もった雪をベンチの上から地面に落として横に座る始末だ。流石にこれには彼女も驚いたのか、ぴくりと肩を揺らしてわずかな距離を取る。


「…早く家に帰ったほうがいいですよ。これからまた猛吹雪になるみたいですし。」
「それは貴方にも言えることでは?女性が体を冷やすのはよくない。」
「頭を冷やしたい気分なのでいいんです。」
「失礼ですが何があったのか伺っても?俺は貴方が帰るまで帰りませんよ。」


ここまで言わないときっと彼女は帰ることはないだろうと思った。後味が悪いじゃないか、自分と別れた後凍死でもしていたら。重くなった傘を時々揺らして雪を落としながら女性の言葉を待つ。


「誰かに聞いてもらうことで楽になるかもしれませんよ。特に俺は貴方のことを何も知らない。追及されることもないでしょう。」


あと一押しを加えれば、彼女はどこか遠いところを見つめながら、ぽつりぽつりと話し出した。


「…仕事、辞めようと思ってるんです。」


てっきり男関係の話だと思っていたから面食らってしまった。というのも、ほとんど確信してしまっていたからである。彼女は俺とそう変わらない歳に見えたし、この年頃の女性なら恋人の一人や二人ぐらいいてもおかしくない。…血色がよければ美人な方だと思う。それがまさかの仕事。いや、大学生でなく専門正や高校卒業後すぐに社会人になったのならその可能性も確かにあった。話しにくいことを話すよう催促してしまったことに罪悪感を感じたものの、聞く姿勢を崩さず、せめて話すことで心が楽になるようにと相槌を打つ。


「料理店でシェフ見習いとして働いてました。夢だったんです、調理師になるのが。そのために調理の専門学校に通って、スキルを磨きました。でも…。」


現実は甘くなかった。そう言い切った彼女の頬には涙が流れた。手袋を取って拭ってやろうか考えたが、伸ばした手を止めた。


「専門学校ではそこそこ成績は良かったんです。ただ、実際のレストランは私の何倍も経験を積んだ人たちがいっぱいいて…、最初は楽しかったんですよ?学ぶことが多かったし、自分も肩を並べたいと思えた。頑張って、頑張って、毎日残って技術を磨きました。それでも次の日行けば先輩方がもっと美味しいものを作ってる。」


繰り返しに疲れてしまった。追いつけないことへの焦燥感、楽しくなくなっていく調理。夢は夢のままであるのが一番だと実感してしまったと。その結果、調理するのが怖くなって冒頭の言葉を言ったのだと彼女は言った。彼女の話に同情しつつも、一つだけ許せないことがあった。


「諦めてしまう夢ならそれは最初から夢じゃないですよ。」


女性は共感する生き物だ、普通このような話を聞いたら、そうだね、つらかったね、などといってあげるのがベストだ。よくわかっていたが、言わずにはいられなかった。案の定彼女は顔を歪ませる。


「貴方にはわからないでしょう!?壁にぶつかったことがあるっていうの!?」
「…俺はまだ壁にぶつかったことはないです。」
「ならわかったような口を利かないで。」


声を荒げた彼女は俺に詰め寄る。初めて視線がかち合った。その強い瞳はまだ夢をあきらめきれていない澄んだ目だ。


「わかりますよ。俺は貴方と同じだ。ずっと夢に向かって生きてきた。きっとこの先も追い続けていく。そして俺が夢をあきらめるのは、きっと死ぬ時だ。」


自分が警察官を目指し日本を守り続ける夢をこれからも諦める気は更々ない。だからこそ同じように夢に向かって努力してきた彼女を放っておくことはできなかった。一度の挫折に屈してしまえば、この先きっと後悔する。


「挫折しない自信があるの?」
「挫折なんてしてる余裕はないと思います。その時間すら惜しいはず。」
「…貴方は強いのね。私もそれぐらい強い信念があったらよかった。」
「今からでも遅くないですよ。むしろいい機会だ、落ちるところまで落ちたらこれからは上がる一方でしょう?」
「言われてみればそうかも。あーあ…やめようと思ってたのに不思議。もう少し頑張ってみようかな。…貴方と話してたらお腹空いてきちゃった。食べる?」


鞄の中から出てきたのは容器にいっぱい詰められたスコーンだった。恐らく今日も練習用で作ったのだろう。形の整ったそれはとても美味しそうに見えたので、言葉に甘えて手袋をはずすと一ついただいた。


「どう?」
「美味しいです。…バニラの風味がする。」
「それならよかった。本当はジャムでもあったらよかったんだけどね。」


そこらの市販で売っているものなんかとは比べ物にならない。こんなにおいしいものが作れるのにまだ上がいるのでは、挫折する気持ちも少しだけわかる気がした。許可を取って2つ目をもらうと、どうせあげる人もいないからと言われて半分ぐらいを平らげてしまった。


「…そうだ、今度私の働いてる店に来てよ。特別にサービスしちゃうから。これ、名刺ね。」
「水野七海…さん。」
「こんな遅くまでありがとう。私もう行くね、…レストランに戻るわ!」


今日一番の笑顔を置いて、彼女は去っていった。掴まれてしまった胃袋のあたりを抑えると心臓の鼓動がやけにうるさい。これが恋と気づくのは少しだけ、先の話である。

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