しのぶれど


※百合表現があるようなないような


あの人からはいつも優しいながらも凛と咲く百合とお日様が入り混じった香りがする。その香りに酔いしれていたくてわざと隣をゆっくり歩いてみたり、顔を近づけてみたりしたけれど、何も言ってはこなかった。一介の隊士である名前など目に入っていないのだろうか。

平々凡々、特にこれと言って秀でているものはない名前にとって柱と直接話すことは簡単ではない。持ち前の運だけで鬼が蔓延る世界を生き抜いてきた。生まれ持っての素質を活かして戦う同期は、その能力を発揮して継子になる者や十二鬼月を倒す者も出てきた。彼らは決して己の能力に慢心したりせず、身体の使い方、剣の構え、呼吸法を習得しては名前にも技法を教えてくれる心の強さを持った人たちだ。ほんの少し妬む気持ちがあるとしたら、”あの人”に目をかけられているということぐらいである。今日もふわりと微笑む姿に胸が跳ねた。名前に向けられたものではなかったというのに高揚感でいっぱいになった。ああ、蝶ならば簡単にあの人に触れられるのに。彩とりどりの蝶の舞う庭を眺めていると騒がしい足音が元気よく近づいてきた。その音は名前の前でぴたりと止まると、身振り手振り息を荒げながら話しかけてくる。


「名前ー!カナヲを見なかったか!?」


蝶を見ながら物思いに耽っていたから正確には覚えていないが、誰もこちらには来ていない気がして首を横に振る。項垂れた炭治郎はどうやらカナヲと話をしたいらしいが、肝心の本人に逃げられて捜しているのだと言う。


「力になれなくてごめんね。私も捜すの手伝おうか?」
「いや、自分の力で探すよ!だって名前も誰かに会いたくて探してるんだろ?」


誰が、とは言わないが見透かされている気がした。炭治郎は鼻が効くらしく、感情が嗅ぐだけでなんとなく分かる、と以前言っていたのを思い出す。今、炭治郎はどんな香りを感じ取ったのだろう。あの人を想う恋心は心地の良い香りがするのだろうか。


「どうしてそう思ったの?匂い?」
「違うよ、匂いでそこまでは分からない。」


言い辛そうに視線を泳がせる炭治郎に詰め寄ってやれば、背中を大きく仰け反った。言うまでやめないという意志が伝わったのか、炭治郎は意を決してため息を吐くと、名前の肩を押し戻して口を開く。


「だって名前、俺が声をかけるまで誰かを想っているというか…、恋してる?みたいな顔してたから。」


炭治郎は照れながら人差し指で頬をかく。違ってたらごめん!と一人で忙しなさそうに手を振っているのを横目に、頭の中で名前は動揺していた。誰が見ても分かるような表情を晒していたという事実を受け入れきれず体温が急上昇する。悟られないように必死に隠してきた想いがついに蓋を開けて零れだしてしまった。本人に気付かれて軽蔑されたらどうしよう、そしたらもう生きてはいけない。しかし、幸いにも炭治郎にしか見られていないのだから、彼の口さえ封じてしまえば事足りる。優しい彼のことだから、約束さえしてしまえば絶対に守ってくれるだろう。


「お願い、炭治郎。絶対にこのことは誰にも言わないで!」
「え、ああ、うん!約束する!」
「絶対だよ。嘘ついたら針千本…いや、針万本だからね。」


小指を立てて彼の前に差し出して、組むように小指を絡めようとしていたその時だった。


「…一体何をしているんです?」


ふわりと香る百合と太陽の香りが二人の間を引き裂いた。咄嗟に離れた小指が交わることなく宙に浮く。蝶のような独特な羽織が、風に揺られて舞うように踊るのがまた美しく、目を奪われる。食い入るように魅入っていると、炭治郎としのぶは談笑を始めた。


「しのぶさん!」
「あらあら、竈門くん。こんなところでどうしたんです?」
「それが、カナヲを追いかけていて…。」


突如現れた想い人は目を合わせてくれないどころか、名前のことなどまるで存在しないかのように扱う。ここまで徹底されると意図してやっているようで名前は不安でいっぱいだった。世界の片隅に取り残されたような喪失感に胸を打ちひしがれるくらいならやはり遠くから眺めている方が幸せなのかもしれない。二人の笑顔を見るたびにじわりじわりと毒が体を犯していくようだ。


「カナヲならば調理場の方で見かけましたよ。そこにはアオイも居たはずですから、引き留めてくれてるかもしれませんね。」
「ありがとうございます!…あれ、またしのぶさん怒ってますか?」
「…いいえ、今日は竈門くんの勘違いでしょう。ほら、早くいってらっしゃい。」
「はい!」


目の間で繰り広げられていた会話はしのぶが炭治郎を追い出す形で終わっていった。炭治郎が嗅ぎ取ったしのぶの怒りの感情は、名前という存在からきているものかもしれない。否定はしていたが名前を傷つけない優しい嘘なのでは、と考えるも、しのぶは相変わらず近い距離に佇んでいる。


「…さん、苗字名前さん、聞こえてます?」


考え込んでいたら隣から名前を呼ぶ声がする。それは間違うはずもない、ずっと求めていた声だ。


「はい!?」
「驚かせてしまったかしら。あまりにも反応がないから寝ているのかと思いましたよ。」


鈴の音のような声が自分に向いている、笑いかけている。嬉しくて零れ落ちそうな涙を堪えながら受け答えをする。今までで一番近い位置にいるためか、しのぶから漂う香りが名前の鼻孔をくすぐって離さない。


「竈門炭治郎君とはずいぶんと仲がいいのですね。」
「同期ですし、いつも親切にしてくれるんです。この前も私が悩んでいたら助言をくれて…おかげで前に進むことができました。」
「…そうですか。」


にこにこと笑みは崩さないが、笑顔とは言い難いそれに、風が吹いてもいないのに名前は背中が冷えた。何か不味いことを言っただろうか。しのぶの機嫌を損ねることになった原因を会話を反芻しながら考えてみるも、辿り着けそうにない。顔色を伺いながら次に来る言葉を待っていると、漂う彼女の香りがさらに濃くなった。気が付いた時には唇にしなやかな人差し指が触れていて、名前が口を開くことを御している。


「熱を入れて他の方を褒めるのは感心しませんね。貴方は私だけを追いかけていればいい。」


「…あと、あまり可愛らしい顔を私以外に見せないでください。」


ゆっくりと近づいてきた唇が頬に触れて離れたと思えばそこにしのぶの姿はもうなかった。名前の右頬にしっかりと残り香を残して。





しのぶれど いろにいでにけり わがこひは
ものやおもふと ひとのとふまで

(忍びこらえていたけれど、とうとうその素振りに出てしまった。何か物思いをしているのですかと人が尋ねる程に。)