ゆらのとを


天候が急に移り変わることは稀なことではない。空だって笑いたくなる時もあれば、急に泣きたくなる時もあるだろう。大粒の雨が頬を叩いたと思った矢先、桶をひっくり返したような土砂降りへと変わるまでにさほど時間はかからなかった。調査任務にあたっていた名前と冨岡は生憎傘を持ち合わせておらず、街からも随分と離れてしまったため雨風を凌げる場所を探すのには難を極めた。立往生の覚悟を決めたその時、名前の鎹鴉が風に流されながら上空を舞って行き先を告げた。声のままに足並みをそろえて駆け出せば、管理のされていない草の生い茂る広い敷地に、寺が一軒建っている。水を吸って重たくなった羽織が隊服に張り付く不快感に舌打ちしたくなる気持ちを抑えて、無住寺のお堂へと駆け込んだ。羽織を絞れば滴る水の量に、長い足止めを食らいそうだと空に恨み言をこぼしたくなった。隊服以外、水分を含んだものはすべて身から剥がすと、入り口に並べて置いておく。先に身軽になった冨岡は薄暗いお堂に明かりをつけるべく火の元を探していた。ところどころに見える蜘蛛の巣が、もう何年も参拝客が来ていないことを表していた。物資に期待は持てないが、冨岡に声をかける。


「明かりは見つかった?」
「蝋燭はあるが燐寸がない。」
「燐寸なら持ってるよ。雨に降られたから使えるかどうかは分からないけど。」


隊服のポケットから取り出した燐寸の箱を揺らしてカタカタと音を立てると、燻ぶった色の燭台と束になっている蝋燭を手に持った冨岡がこちらへとすり足で歩いてきた。入口付近は風で舞い込む雨粒のせいで濡れていたため、中央あたりに向かい合って座り込む。冨岡が燭台に蝋燭を立てている間に、箱から一本取りだして側面に擦りつけてみるが、なかなか火は立たず、先が黒く焦げるばかりであった。まだか、と呆れる様な視線が隣からするものだから、つい力を入れすぎて折れてしまう。折れた燐寸をそっと箱の中に戻して何食わぬ顔で二本目を出して再度挑戦しようとすると、見かねた冨岡は名前の手からやや強引にそれらを奪い取り、一回で炎を灯した。そのまま蝋燭に炎を移して、いらなくなった燐寸にふっと息を吹きかけると薄く煙が立ち上った。


「お上手なことで。」


自分にできなかったことを一度でやってのけた冨岡に、素直に感謝するのは癪に障ったため、皮肉めいた言い方をするが、澄ました顔は崩れない。


「お前が下手すぎるだけだ。」


逆に腸が煮えくり返るような物言いをされて口元が引きつった。冨岡の性格をすっかり忘れていた名前は、このような会話をするのは今回が初めてではない。何かと勝負や口喧嘩を仕掛けては返り討ちにあっている。負けを認めたくなくて睨んでいると、突然隊服を脱いで素肌をあらわにした冨岡から慌てて目を逸らした。


「なんで脱ぐのよ!」
「…お前も脱げ。」
「は!?」


年頃の女に薄暗い場所で脱げと顔色を一切変えず言うから、思わず声が上ずってしまう。だが、すぐに意図に気が付いて押し黙った。濡れた隊服を着ていては風邪を引くと言いたいのだろうが、いかんせん口数が足りなすぎる。ここに自分以外誰も居なければすぐにでも服を取っ払ってしまいたいのを我慢しているというのに、この男は。流石に下半身を出すのはためらったのか、上半身を脱ぐに留めた冨岡は、まだかという視線を寄こす。


「私だって女ですよ。…刀を握っているからそこらの男には負けないけど。」
「知っているが。」


顎を上げて見下ろす仕草は当然だと言いたいようだった。相当鈍い男でない限りは伝わると思われた言葉も、冨岡相手では不発に終わる。冨岡が名前を女として意識していないことに無性に苛立った名前は意を決したように隊服の釦を首元から一つまた一つと手をかけていく。普段の何倍もの時間をかけて外していく様を冨岡はじっと見つめていた。意識していないとはいえ女の着替えを凝視するのはいかがなものか。頬を思い切り引っ叩いても許されることだろう。敢えてそれをしないのは、ここで止めてしまうのは惜しいから。負けた、と言わせたかったから。全ての釦が外れると重みから少しだけ開放的になる。指先にまで神経を研ぎ澄ませて袖から腕を抜き、はらりと背中側に重力に沿って落とした。その一瞬、何の反応も示さなかった冨岡の喉が鳴ったのを名前は聞き逃しはしなかった。


「…っ。」


隊服の下に身に着けていた白いシャツが、濡れて名前の肌に吸い付いている。欲を焚きつけるように揺れる炎がそれを照らす。ここまで来たら後には引けない。名前は寒さからか、それとも緊張からか震える指で首元の釦に手を掛けた、その時だった。


「…っそれ以上脱ぐな。」


冨岡の手が名前の手首を掴んで動きを止めさせた。運動をしたわけではないのに肩で息をする冨岡は、大きく息を吐いた。視線を釦からゆっくりと上にあげると、彼の整った顔は崩れ、眉間に眉を寄せて堪えるような表情をしている。雄の色香にあてられたように息を吸い込んだ名前に、彼は重ねていた手を離すと、それきり後ろを向いて押し黙ってしまった。冨岡とて年頃の男だ。対抗心とはいえやりすぎただろうか。骨の浮いた角ばった背中に、しのぶの様に指先で触れる。びくりと反応する背中を上から下に伝うようにして線を描くが、彼は何も言わない。二、三繰り返せど何も変わらない状況に背中から名前はそっと問いかけた。


「どうして止めたの。」


冨岡の束ねられた髪の先から雫が名前の手の甲に垂れたのを境に背中から指を離す。


「…お前が、女だからだ。」


先程の生物学上の性別という意味ではなく、”男と女”を指して言っているのだとはっきりわかった。冨岡の目に名前が女として映ったという紛れもない事実であった。それと同時に、煽るようになぞっていた背中が急に男を意識してしまう。恥ずかしさから、立ち膝の態勢を取ると擦りながら後ろに下がる。音を立てる心臓に手を当てても収まる気配はない。服が乾いてお堂を出た後、冨岡の顔を今まで通り眺めることは名前にはできないだろう。そしてまた、冨岡も。





ゆらのとを わたるふなびと かぢをたえ
ゆくへもしらぬ こひのみちかな

(由良の海峡を漕ぎ渡る船人が、櫂がなくなって行方もしらず漂うように、どうなるかわからない恋の道であることよ。)