かくとだに


―名前。


彼が名を呼ぶたびに、こんなにも心が跳ねるなんて思いもしなかった。たった数文字のひらがなの羅列が、紅葉が真っ赤に色づくように意味を持つ。もっと、もっとと求めてしまうのはどうしようもなくその声に焦がれてしまっている証拠だ。革靴を履いた私よりほんの少し目線が下になる彼が、上目遣いで言葉を紡ぐ姿が愛らしい。女性の平均身長より高いことを気にして過ごしてきたが、これは存外悪くない。成長と共に逆転するだろう関係性を、今はまだ楽しんでいたいのだ。


「ぼーっとしてどうしたんだ?大丈夫か?」
「…ちょっと考え事を。」


目の前に張本人がいるというのに思考を巡らせていた名前は、炭治郎に声をかけられて漸く現実世界に引き戻された。覗き込むようにして綺麗な相貌が名前の目と鼻の先まで近づいていたため、驚くを通り越して固まってしまう。貴方のことを考えていました、なんて言えないから曖昧にぼかして誤魔化したが、炭治郎は特に言及してこなかった。それが炭治郎の良いところであり、悪いところでもある。


「今日はあの二人と一緒じゃないんだね。」
「善逸と伊之助のこと?ああ、あの二人はまだ寝ててさ…朝の走り込みをするために俺だけ早く起きてるんだ。」


早く任務に復帰したいと力こぶを作って見せた炭治郎の腕には、未だ薄っすらと切り傷で出来た赤い線が残っている。痛ましいと思う反面、徐々に強く男らしくなっていく彼にまた一段と魅力が増した。那多蜘蛛山で下弦の鬼と対峙し、大怪我を負ったと聞いた時は肝が冷えたが、存外本人は元気そうで鍛錬にもこれまで以上に励んでいると知って安心したものだ。まだ全快しているわけではないのに、前へ前へと着実に進む姿勢は彼が燃やす復讐の炎がそうさせているのか。


「あまり無理をしないようにね。」
「ああ、ありがとう!」


炭治郎は大きく手を振りながら駆け出していった。その後姿を目に焼き付ける。あまりに淡白な会話で物悲しくなったけれど、引き留めはしなかった。想い人であると同時に、この世から鬼を滅する志を掲げた同士をどうして引き留めることができよう。いつだって手をすり抜けて行ってしまう彼を見守ることしかできない。口に出してしまえばきっと炭治郎は困ったように笑うのだろう。分かっているからこそ、心の中に留めておくしかない。

この世に鬼が居なければ、花の模様の美しい着物を着て、髪を結って、貴方の隣に居られたかもしれない。刀を握る豆だらけの手も、白くしなやかなままで貴方の大きな手にすっぽり収まったことだろう。死に怯える日々ではなく、慎ましやかに生を全う出来ただろう。それは所詮都合のいい夢でしかなくて。この世に鬼が居なければ、そもそも貴方とは出会うことはなかった。平穏を望む一方で、鬼の存在に感謝してしまった自分に反吐が出る。己の浅ましさから噛みしめた下唇に血が滲むのを気にも留めないぐらいには、痛みに感覚が麻痺してしまっていた。舌で舐めとると鉄の味が鼻腔まで広がるのが重苦しい。苦い。こんなものが好きな鬼は本当にどうかしている。


「…やっぱり、大丈夫じゃないじゃないか。」


荒い息遣いと共に優しい声が背中側から聞こえてきた。一人ならば自然に乾くまで放置していた唇を手の甲で拭いとる。恐らく屋敷を一周してきた炭治郎は、変わらず同じところにいる名前に思うところがあったのだろう。


「何か悩んでるなら俺に…。」
「ううん、大丈夫だよ。炭治郎は鍛錬中でしょ?こんなとこで時間潰してたら他の隊士も起きてきちゃう。」


彼の前にいる時は笑っている自分でいたい。追い返そうとしても炭治郎はどこかへ行く素振りを見せず、立ち尽くしたままだ。朝露が葉から滑り、地面に吸い込まれる音が聞こえるほど静寂に包まれている。我慢比べの様に互いに様子を伺ったまま行動を起こすのを待っていた。口を開くのは木に止まる雀だけかと思われたが、先に静寂を打ち破ったのは炭治郎の方だった。


「名前から苦しさと血の匂いがする。放っておけないよ。」


自分が感じているかのように苦しそうに呟く炭治郎に名前は縋ってしまいたくなった。


「俺にできることは本当になにもないのか?俺が落ち込んでいた時は名前がいつも話を聞いてくれた。お返しすることはできない?」
「…きっと軽蔑するよ。」
「…しないよ。そんなに悩んでいる名前をこのまま放っておいたら自分に軽蔑する。」


ああ、なんて優しいのだろう。長男だから、と彼はいつも言うけれど、その優しさは生まれ持っての才能なのだ。困っている人がいればおのずと手を差し伸べて暗い淵から引っ張り上げてくれる。今までだって幾度となく救われてきた。今日ここに居るのが名前以外でも炭治郎は手を差し伸べただろう。特別ではない、彼にとっては当たり前の、自然なことなのだ。


「炭治郎は優しいね。」
「そんなことないさ。」
「誰にでも優しくしてて疲れない?」
「俺は誰にでも優しくしてるつもりはないよ。でも大切にしたい人はたくさんいるから、その人達の力にはなりたいと思う。」


眉を上げて力強くほほ笑む炭治郎を背中越しに容易に想像できた。でもごめんね炭治郎、もうその大多数の括りでは満足できないの。






かくとだに えはやいぶきの さしもぐさ
さしもしらじな もゆるおもひを

(こんなにも貴方をおもっていることを、口に出して言うことができるでしょうか。ましてや伊吹山のさしも草のように燃える様な思いを、貴方はご存じないでしょう。)