たかさごの


※覚醒後


「名前遅い、いつまでかかってるわけ?」
「すみません時透様、今すぐに!」


時透様は齢14にして柱に成り上がった才のあるお方である。その才の塊が、自分のような努力しか取り柄のない汗臭い一介の隊士を継子に選んでくださった。であるからには、全てを享受し継いでいかなくてはならないのだけれど、最近の時透様は何だか様子がおかしい。今までは空を眺めて想いに耽る様子を見せていたというのに、刀鍛冶の里から帰ってきたと思ったら性格が180度裏返っているではないか。元々感情が読みにくかったから物をはっきり言うようになったのは大変感謝しているも、名前に対しての小言が凄まじすぎる。昼夜問わず名前、名前と大した用もないのに召使のごとく小間使いをさせる。今だって居合いの鍛錬をしていたところを呼ばれて急いで向かったら縁側に座った時透に茶を入れて来いと命令…いや、お願いされたのであった。

こぽこぽと白い湯気を上げながら茶が急須から湯飲みへと注がれていく。運ぶ時間を考えると茶葉を蒸らしすぎてはいないだろうか心配になり、緊張しながら時透を見守る。時透はじっと湯飲みを見つめるだけで手を付けようとしない。頭に過るのは入れ直し、の5文字。恐る恐る顔色を伺うと、形のいい眉が怒りや呆れが含まれたように寄せられていた。


「…なんでお前の湯飲みが用意されてないの。」


時透から発せられたのは予想外の言葉だった。茶の用意をしろ、と言われたから言葉通りに受け取った名前は時透の分しか用意していなかった。二人分とは聞かされていない。そもそも名前は鍛錬の最中に抜け出してきたこともあって、お茶を淹れたらすぐに戻ろうと思っていた。急須を置いて、今度は二人分の用意をするためお盆を手繰り寄せると、時透は深くため息を吐いて呟く。


「炭治郎なら気が利いただろうな…。」


”炭治郎”、刀鍛冶の里から帰ってきた時透が事あるごとに嬉しそうに話す名前だった。大事な記憶を呼び覚ましてくれた隊士らしい。会ったことはないが、時透から話を聞く限りではとても出来た少年であると名前は思った。と同時に、自分はもう時透にとって必要のない人間でないかとも思った。


「すみません、すぐに用意をしてきます。」
「急ぎすぎて湯を床に溢したら承知しないから。」
「気を付けます。」
「炭治郎なら3分もあれば出来るけど一体名前は何分かかるかな。」


炭治郎、炭治郎、炭治郎。何かにつけて比較してくる時透は全く悪気がなさそうに言う。こちらの気持ちなんて知ったことでないのだ。努力しても横からすべてを持っていかれたら何も残らない。ぐつぐつと煮え滾るように怒りが上っていき、震えあがった口元から出る言葉を止めることは出来なかった。


「そんなに炭治郎がいいなら炭治郎を継子にすればいいでしょう!今日限りで貴方の元を拝辞させていただきます!」


立ち上がる瞬間、盆に足が触れた衝撃で湯飲みが倒れ、盆に波紋が広がった。構うことなくその場を後にすると、草履を足に引っ掛けて屋敷を飛び出した。時透はどんな顔をしていただろう。清々していただろうか、惜別の情を浮かべていただろうか。屋敷の周りを囲むように並ぶ木々の間を抜けていくも、名前に行く当てなどない。身寄りのない名前の拠り所は時透の屋敷の他にないのである。無情にも言ってしまった言葉は取り消せないので、何事もなかったかのように戻ることはできない。

諦めを含んだため息は森に吸い込まれていく。時透が迎えに来てくれたら、なんて考えて歩いていたら急に景色が開けて切り立った崖に直面する。何もない名前の足元とは違い、目の前には広大な山々が広がっていた。見たこともない白い鳥が群れとなって空高く飛び上がっていき、遠くに見える山々は薄く桃色に色づいていて春の訪れを表している。


「綺麗…。」


美しい景色に目を奪われ、思わず口から言葉が零れ出た。時々風が立つことによって揺れる木々や流れる雲霞は自然そのもので、自分の怒りが随分とちっぽけなものに思えてきた。しかし、一人で見るのには物悲しい。隣にあの人がいれば、もっと幸せな気分になれただろうに。崖の縁に寄れば、その高さに腹が浮いたような感覚がした。少しでも足場が崩れれば真っ逆さま、即死は免れない。それでも縁に腰をかけようとしたその時、後ろから思い切り腕を引かれて尻もちをついた。


「何してるんだよ馬鹿!死ぬことないだろ!」


珍しく息を切らせて慌てた表情の時透が名前の肩を掴んで揺する。


「さっきのことは僕が無神経すぎた、謝るから戻ってきてよ。置いて逝くな。」
「…?」
「お前さっき崖下を覗き込んで…。」
「座ろうとしただけ…、あ。」


どうやら投身しようとしているように見えたらしい時透は気まずそうに目を逸らす。可笑しな勘違いに笑いをこらえきれず吹き出すと、うるさいよと顔を赤らめながら時透は名前の頭めがけて手刀を振りかざした。


「それにしてもよくこの場所が分かりましたね。」
「…屋敷の縁側からここが良く見えるんだよ。お前は裏口から出たみたいだから気付かなかったろうけど、後ろ見なよ。」


時透が指を向けた方向を見やれば、木々が程よく生えているが疎らに広がっているため時透邸の縁側が小さいながらも確認できる。名前の様子は筒抜けだったというわけだ。何とも間抜けな家出だろう。認識できていたから時透も無駄に追いかけては来ず様子を伺っていたのだ。勿論、名前に危険が及べばいつでも出て行けるような準備は整えて。


「ほら、いつまでも座り込んでないで帰るよ。」
「…帰ってもいいんですか。」
「お前の帰る場所はあそこしかないでしょ。」


手を引き上げられて強引に立たされる。そのまますたすたと歩いていくものだから名前もその後を追いかけるように歩いた。


「あ、時透様、待ってください。」
「何?」
「一緒に見たい景色があるのです。だから少しだけお時間をいただけませんか。」
「…その必要はないよ。」


振り返った時透に合わせるようにして名前も後ろを振り返ると桃色の山が並び立っている。先程までの雲霞はすっかり消えて、太陽光を浴びた山々は輝いている。ああ、そうか。名前の姿が縁側から見えたように、縁側からもあの景色は見えるのだ。だとすると、今日縁側に腰かけた時透が二人分の茶を用意するように言ったのも、並んで眺めるだったのかもしれない。


「帰ったらもう一度お湯を沸かしますね。」


身体を翻した時透の返事はなかったけれど、満足そうな横顔を見て帰路を急いだのだった。





たかさごの をのへのさくら さきにけり
とやまのかすみ たたずもあらなむ

(遥か遠くの高い山の峰の桜が咲いたなあ。里に近い山の霞はどうか立たないで欲しい。)